死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

”人々の心を励まし、愛によって結び合ってほしい” / ”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”

こんにちは。

今日は、今日の聖書通読(日課的に聖書を読み進めること)箇所から、コロサイの信徒への手紙を引用します。

 

今回は、キリスト者に大切とされている姿勢について、僕の理解している範囲で書こうと思います。それから、僕自身のことも。

僕は、これから述べることに取り組んでいない方は、キリスト者の在り方としてどうなのか、と感じます。

つまり、牧師、神父、クリスチャン、教会に通っている人々でも、これから述べることについて、少しでも思いに留めていないなら、それは果たしてあるべき姿なのか、という疑問です。

 

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「”人々の心を励まし、愛によって結び合ってほしい”
コロサイの信徒への手紙 第2章1、2節(使徒パウロがコロサイの信徒へ送った手紙)

2:1
わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。
2:2
それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。」

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パウロは、自身の弟子として慕ってくれている人々と、自分ががんばって建てた教会があるラオデキアと、また、”会ったことがない人々(つまり自分が会っていない全ての人々)”のために、牢屋の中から必死で祈っている、と書き送りました。

それは、全ての人々が、心を励まされ、お互いを(理解し)励まし合い、愛(平和への思い)によって結び合わされることを祈ってのことでした。

 

「何を綺麗事を...」と思われる方もいるかもしれません。

実際、僕が似たようなことを学校の付き合いなどで言った時、「もっと現実的なこと言えよ」という反応をされたことがあります。

 

しかし、

「現実」とは何でしょうか。

私は、「今の社会」のことを指していると理解しています。

 

「社会」はどうやって形作られているでしょうか。

「人間が集まることによって」だと思います。

 

であれば、「綺麗事(理想的な社会)」は、大多数が実行しようとすれば可能なのではないでしょうか。

「現実(理想的ではない社会)」を、変えることのできないものと諦めから断定して、「綺麗事(理想的な社会)」を否定する行為に、意味はあるのでしょうか。

 

もちろん、社会の在り方を変えることは、一朝一夕で成るものではないと思います。

それでも、様々な環境、状況から、悩み悲しさ辛さに苦しむ人々を放っておくことは、いずれ全ての人々が苦しむことになる布石だと思います。

なぜなら、今苦しみの中にいない人が、今苦しんでいる人の側に移動することは、時の運や一瞬の偶然によって、いくらでもあり得ることだと思うからです。

であれば、全ての人々がお互いに励まし合い、「優しさを持って接する」ことができる社会を目指し、大目標、中目標、小目標を持って歩んでいくべきではないでしょうか。

 

(例)

大目標

全ての人が心から笑うことができる社会

中目標

自殺者、経済的困難を患う人、遺児・孤児、精神的な苦しみを患う人などへ向けた活動+現在、社会的マイノリティとされている人々への理解・寛容を社会全体で育む

小目標

目の前の人に優しく接する。(コンビニで何か買ったら笑顔でありがとうと言う、道を譲る、相手の気持ちを考える想像力を鍛える(もし自分がこの人だったら、今自分がしているように接されたらどう思うだろう、など))

(自分が、できるだけ多くの人に暖かく接することで「優しさの連鎖」を起こすことは、自分や、自分の大切な人が、その連鎖反応にあずかる可能性が高くなる、ということだと思います。)

 

僕は、相手が誰であろうと、どんな立場であろうと「優しさを持って接すること」が、「神があなたを愛されたように隣人を愛しなさい」というみ言葉を受けたキリスト者の在り方なのかな、と思っています。(もちろん、人間ですから、常にそうあることは難しいですが、そう取り組もうとする在り方)

明らかに違う人(人を軽蔑、侮辱、断罪するなど)からは、キリスト者であるかどうかに関わらず、あなたの心のために、距離を置くことをおすすめします。

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「”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”
コロサイの信徒への手紙第3章12~14節
3:12
だから、あなたがた(全人類)は、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13
互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
3:14
これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」

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キリスト教の価値観では、神に愛されている人とは、全ての人、全人類のことを指します。

以前どこかで、クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、「当選の宝くじを換金しているかしていないかの違い」だ、と仰っているコラムを読んだことがあります。

つまり、全ての人は既に愛されているが、「それに積極的に応えているかいないか」の違いだということです。

 

といっても、そんなことを急に言われても...という方も多いと思います。

僕も、心がほとんど限界にきて、今の教会での礼拝を受けるまでは、同じような思いも持っていました。(礼拝自体は別の場所で幾度も参加していましたが。)

 

僕は、僕の理解で言うなら、(幾分アニミズム的ではあるかと思いますが、)

神を通して、種々に祈ることで与えられる「安らぎ」、

人と人の暖かい繋がりから生ずる、涙さえするような「喜び」や、

自然の美しさが胸に染み入る時の「感動」、

時間や空間を超えて、聴いた人々の心と想いをひとつにしてしまうような音楽に出会った時の浮き立つような「楽しさ」など、

それらの「うつくしさ」が神からの愛の一部なのではないかと思っています。

 

もちろん、自然は牙をむくこともあります。

しかし、それは「死ぬこと」を絶対悪、絶対にあってはならないことと置いているから、ということもあるかもしれません。

僕も苦しいのや痛いのはいやです。

ですが、死ぬのはいやではありません。

 

なぜなら、以前にも書きましたが、「死ぬことで(生きる苦しみから解放され)想いとして生きる」と思うからです。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

この価値観は、合わない方も多いと思います。僕もなかなか普段の会話では言えないことのひとつです。

しかし上記の記事のように考えると、僕にとっては、死ぬことも「うつくしい」ことのひとつとして感じられるのです。

 

とはいっても、兄を亡くしている僕は、死別の悲しさも幾分わかります。

だから、「兄や僕が死にたくなるような社会」を「誰もが楽しく生活し、まあ死んでしまっても周りのみんなが地上で、平和への想いを引き継いでいってくれるよ、と思えるような社会」にしていきたい。

僕が生きる理由は、上記の想いと、「僕に繋がる、心から大切だと思える人たちを悲しませたくない」という二つに尽きます。

 

そして、誰もが心から笑うことができる社会へ舵取りをすることと、死んでも想いとして生きるために、”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”であり、ゆるし合い、その上に愛(平和への想い)を忘れずに在ることが、大切なのではないかと、思っています。

 

 

祈り

僕の想いをあなたへ捧げます。主よ、私はまだここにいます。私にできることを、私が為し、あなたの御心に沿えるように、どうぞ共に歩んで、導いてください。私と一緒に、居てください。アーメン(そのとおりでありますように)。

僕が生きる理由 / 備忘録 ツイッターから

こんにちは。

 

今回は、明日更新が難しそうなのと、ツイッターで久しぶりに自分の素直な想いを吐きだせたので、その呟きをここに記します。

 

人と接するのが怖い。言葉と態度の多義性の故に。でもだからこそ暖かく繋がりたい。矛盾してるし実現不可能に見えるけど挑戦する。それ以外に生きる理由なんてないから。

 

→失敗してもいい。というか4,5割は失敗するだろう。ひょっとしたらもっとたくさん。けど、納得できる在り方を一瞬でもできるなら、その一瞬の為に生きても、いいかなって。どっちでもいいっちゃいいんだけど。

 

確認好きだね、って言われたけどそう。常に自分は何か間違っている。100%合ってる事なんて世の中に一つもないと思うから。けれど、生きるなら、そう思ってない振りはできなければならない。幸い今は、その芝居はちょっとでいい。

 

人と接するのが苦手には見えないって言われるけど、かなりの疲弊と苦手意識は嘘じゃない。それでも暖かく繋がることのみが生きる糧。

 

羊@Sheltie_s_sheep

 

「社会的少数者(マイノリティ)」 / ”憩いの水際” 詩編 第23編

”憩いの水際”

詩編 第23編

23:1
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
23:2
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

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こんにちは。

今日は自分のツイートから、「思想的少数者の在り方」について考えてみたいと思います。

 

 ー

 

上に述べたものが私の主張の骨子です。

僕のような希死念慮持ちなどの思想的少数者(社会区分でマイノリティとされる人々)は、これまでの社会では異端とみなされ、抑圧されてきたのではないかと思います。

 

しかし、現在および、これからの社会はそうではないと思います。

なぜなら、ツイッターやブログといったツールが、物理的距離を無視できるツールとして機能していると思うからです。

 

これまでの村社会的文化の中では、それぞれの集団の中で、「多数派である人々の常識」に適応することができない者は、抑圧され、迫害され、軽蔑されても、声をあげて助けてくれる人がいない環境だったと思います。

「多数派である人々」が、自分達の価値観を保守し、自分達に反対する人間を黙らせるために。

それは「すべての人が心から笑えるようになるため」には、是正されなければならないと思います。

 

・「白人主義」(白人であり、キリスト教徒である人々が持つ価値観だけをマジョリティとして保守しようとする運動)を進めるドナルド・トランプさん

www.huffingtonpost.jp

上記のような行為は、多数派と少数派、権力者と非権力者が理解し合えるようになるためには、悪手だと思います。(分かったうえで、やっているのでしょうが...。)

しかし、記事の通り、現代は保守層側にも複雑な思いが入り混じっています。

 

ツイッターやブログのある現代にあって、僕達のような思想的少数者も、一人や二人ではなく、同じ気持ちを持つ人が多くいるということを、かつてより随分多くの人が理解するようになりました。

そのことによって、理屈の伴わない言葉で、少数者を弾圧することは難しくなりました。(このことは何より素晴らしいことだと思います。)

現代にあって、生きづらさや息のしにくさを感じている人は、ツイッターやブログなどの、物理的距離を無視できるツールなどを使って連帯し、

社会的多数派に「社会的少数者の存在」と「一人の多数派側だった人間が、少数派側になる可能性は生きていく上でとてもたくさんある」ということを知ってもらう必要があるのではないでしょうか。

 

そうすることで、お互いが、「話し合いの場」に「対等な立場」で立つことができると思います。

その中で、互いの理解を深めることで、「お互いをひとりの人間として尊重し、理解し合いながら暮らしていくことができる」と信じたいと思います。

 

僕にとって、ツイッターの機能は、”憩いの水際”として機能しています。

(といっても、ツイッターが無くなってしまったら、同じような場が別に作られるとは思いますが。)

 

「自分自身の考えが、自分ひとりのものでないこと」

「同じ苦しみを覚えている人がいること」

「その苦しみの解消の為に動いている団体があること」

「そこに携われる希望があること」

 

それらを、ツイッターやブログ、教会などを通して理解できたことが、僕の生きる糧・理由になっています。

 

「トランプ大統領の命令にストップをかける連邦地裁」

news.tbs.co.jp

 

けれど、当然ですが、思想的少数者側も、多数派を断罪するのではなく、「話し合いの場」において理解し合う努力をしていかねばならないと思います。

その上で、上記記事のように、少数派(マイノリティ側)を迫害する考えや行動には、反対し続けていかなければならないと考えます。

”憩いの水際”を守り、広げていくために。

 

 

久しぶりの勤労 / 生きる”基準”

 

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こんにちは。
久しぶりに8時間働いてきました。
疲れたので今日は短く書きます。

美しい景色の中で、優しさを持ったオーナーご夫妻に仕事を教えていただくのは、楽しかったです。

けれどやはり、引きずってる「外部評価恐怖症」の存在も再度認知しました。
他者から評価されること、評価される状況に、異常に怯えてしまう。
そんな必要はないとわかっていてもそうなので、まあ精神的な病状なのでしょう。
物心ついた時から、そういった性質は持っていましたが、以前の仕事中に、なかなか強化されてしまったようです。

はじめは失敗するもの。
冷たくされたかも、と思っても大抵の場合そんなことはない。
自分を身の丈以上に良く見せようとしない。(これ何気に一番むずかしいです...。)
そして身の丈どおりの、小さな自分を受け入れ、仲良くして、楽しく過ごす。

結構疲れてしまったのは、外部評価恐怖症に起因するところが、かなり大きいです。
でも仕事の後、「つかれたしんどい」ってなっているときにも僕は、”親愛の下僕”であることに救われます。
(生きる基準の話)

「私たちは何を基準に生きているでしょう。「正義」「愛」「利益」など色々あると思いますが、いずれにせよ私たちはその基準の「下僕」なのです。ですから何を基準に生きるかはとても大切です。」
上馬キリスト教会さんTwitterアカウントから

胸に提げたテゼのクロスに手を当てて、人の思いを超えた存在、また親友達からの”親愛”を確認することが、理性と、心でできます。
僕の見ているこの世界で、それ以上に価値のあることは、多分、ないんじゃないかと思います。


追伸:
最近、「Life walk いのちの行進」という、まるで日本版テゼ(あらゆる信仰を超えた集い)のような活動が京都であることを知りました。
仏教を中心としたあらゆる宗教者が、「いのち」について考え、提言していく取り組みです。
2017/3/1にあるようで、可能であれば参加したいと思っています。

peraichi.com

”死んでも生きる、復活とは”コリントの信徒への手紙Ⅰ15章50節、Ⅱ 4章15ー16節、18節

”死んでも生きる、復活とは”

コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節
15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章15-16節、18節
4:15すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

4:18わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
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こんにちは。
今回はキリスト教で主要な概念のひとつである「復活」について、僕なりに考えてみたいと思います。

僕はキリスト教についてあまり知らないころ、「復活、永遠の命」など死んでも御免だ、と思っていました。
せっかく、死ねば今の考える苦しみ、生きる苦しみから解放されるのに、なんで「死んでも生きないといけないのか」と考えていました。
その頃の私の知識と解釈では、「死んでも生きる」とは、死んでも苦しみ続けろ、と同義だと思っていたのです。

しかし、恩師の牧師先生にこの考えを伝えたところ、「永遠の命とは、そういう意味ではない」と言われました。

それでは、どういう意味なのか。
少しずつ、自分なりの解釈ができてきたので、それをここに記します。

「コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節
15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」


まず、「死んでも生きる」の「生きる」とは、今と同じ血肉のからだとして生きることではないのです。

僕はここでの「生きる」とは、「暖かい想いが、人々の間に繋がっていくこと」という意味だと考えています。

血肉のからだや言葉は、朽ちるものです。
しかし、想いは、人々の間で繋がり続ける限り(思いやりが思いやりを呼ぶように)朽ちずに続いていきます。
それは、ともすれば人間同士だけのことではないかもしれません。
人間と他の動物の間でも言えることかもしれません。

もしそうであるとするならば、生物がいる限り、想いは朽ちません。

私は「永遠の命」「復活」「死んでも生きる」という言葉の「生きる」という意味は「”想い”として生きる」ということなのではないか、と考えています。


「”想い”として生きる」のであれば、悪くありません。
今の考える苦しみ、生きる苦しみから解放された上で、暖かい想いという、純粋に前向きなエネルギーだけを残して逝ける(とともに「想い」として生きる)のですから。

しかし、「”想い”として生きる」とはなんでしょうか。どうすれば、そういうことができるのでしょうか。

「コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章15-16節
4:15すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」

その方法のひとつは、ここの聖句にもあるように、「感謝」だと思います。

できるだけ多くのことに感謝しながら生きていくこと。

できるだけ多くのことに”感謝しながら生きていけるように”、人生のかじを切ること。

もし自分が、そのように恵まれた立場にいるなら、環境と運によってそう思うことができない人に、暖かく接すること。

できるだけ、感謝を生み出す人になること。


もちろん、今は血肉の人間であり、暖かく、優しく、と思っていても、言葉と行動、負の感情によって、人を悲しませること、傷つけてしまうことが、どうしても起こってしまうと思います。
今も、これからも。

それでも「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」

つまり、外なる人(血肉のからだ)は日々朽ちていきますが、内なる人(想い)は日々新たにしていくことができます。

何か人を傷つけることを言ってしまったなら、次に会ったときに謝ることができます。
思いがけず人を悲しませてしまったなら、相手が落ち着くのを待って、心から寄り添い弁明する事ができます。
取り返しがつかないほど大きく、他者を苦しめてしまったなら。もう地上では、どのようにも相手に関わることはできないかもしれません。それでも、相手のため、また自分のために祈ることはできます。

メメント・モリ(死を覚えて)
朽ちていくからだを覚えて、想いを新たに持ち続けることはできます。
その生き方が、”想い”として生き続けるということに繋がるのではないか、と思います。


「コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節
4:18わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

目に見えるもの、人が理解できるものは全て朽ちます。
けれど、全貌を明らかにすることはできなくとも、正のエネルギーである「暖かい想い」は、生物が続く限り朽ちることはありません。
そして、おそらく生物はまだ続いていくのでしょう。

「見えないものは永遠につづくのである。」
もしかしたら、主の復活も、目に見えるかたちでなく、弟子たちの心の中に、復活されたのかもしれません。幻覚となって視えるほどに。
この解釈は、おそらく異端ですし、僕の考えも変わっていくことでしょう。しかしその方が、意義深いと思うのは僕だけでしょうか。

そして、主(平和への想い)は、今現代も、ひとりひとりの心の中にあり、日々新たにされています。(キリスト教でなければ、「主」以外の概念(人間がつくりだした言葉)になるでしょう)


しかし、目の前に見えるものに心を急かされ、日々新たにすることができる「内なる人(想い)」のことを考える余裕がない人も多くいるのではないかと思います。
そのことに良い悪いはありません。
しかし、そこに目を向ける心の余裕がある人は、他者に与えてあげてほしいな、と思います。
その余裕がない人も、受け取る余裕は生まれるように、自分自身を、自分自身の心を、大切にしてほしいと思います。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。」
見えないものに目を注ぐことのできる余裕を保ち、またその見えないもの(想い)を、他者に与えることができるよう、血肉のからだを使いたいものです。
それは私自身の想いと言葉と行動によって必ず達成できることではありません。

見えないもの(主(平和への想い))に頼ることで、自分の目が届かず人を悲しませることがあっても、「4:2できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 4:3平和のきずなで結ばれ」る望みを持ち続けることができるのではないか、と思っています。(エフェソの信徒への手紙4章2-3節から)

”愛がなければ、いっさいは無益" コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章3節から10節

”愛がなければ、いっさいは無益"
コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章3節から10節

13:3たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13:10全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

[個人的解釈]
預言:話している相手に伝わるように話す言葉
異言:大切な意味を内包しているけど、外部の人に伝わりにくい表現の言葉
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こんにちは。
僕が敬愛してやまない、いばや通信というブログの筆者、坂爪圭吾さんが、こうツイートしておられました。

坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) tweeted at 8:05 p.m. on Tue, Jan 31, 2017:
明日死ぬかもしれないんだ。これを言ったら恥ずかしいとか、クサいなとか、イタいなとか、そんなことを言っている場合じゃない。自分に恥ずかしくない生き方をするということは、多分、恥の多い生き方をするということだ。湧き上がる感情を、勇気を、命を、出し惜しみしている場合ではないのだと思う。
(https://twitter.com/KeigoSakatsume/status/826385987529871360?s=03)


僕は、「愛」という言葉は
「自分の心からの思いと言葉を、他者に伝えていく中で生まれる、人と人との暖かい繋がり」
のことを表していると感じています。

今、以前の僕のように、将来のために、お金のために、自分の心を圧し殺している人が、たくさんいるように思います。
けれど、そんな必要はないんじゃないかと思います。

「心を殺して長生きするより、今を生きて心を活かす」

僕は、長生きは特にしたいと思いません。
年金を貰える年まで生きたいとも、特に今は思っていませんが、
今の生き方を続けて、もし僕が65や70まで生き長らえたら、その時は多分年金など無くても生きていけると思っています。

何故なら、「今を生きて心を活かす」という手段を選んだ途端に、心から助け合いたい、共に生きていきたいと思える方々に、次々に出会えるようになったからです。

僕の転機に、泣いて喜んでくれる方
心が疲れ顔を上げられない時に、深夜まで連絡を取り合ってくれる方
3時間も4時間も時間を割いて、真剣に僕の話を聞き応援する言葉をかけてくださる方
僕に心からの寄り添う言葉をかけ、慕ってくださる方
僕の価値観を理解し、否定せず共に語り合ってくださる方

それら全ての人に心から感謝しています。彼ら、彼女らに出会えたことで、僕はもうほとんど自分の人生に満足しています。

でもそういった方々に出会えたことは、考えてみれば当たり前のことだった、と気づきました。

これまでは自分の価値観を殺して、「”世間様”の価値観」で生きてきました。そうすれば、”世間様”の価値観を持つ人としか基本的に出会えません。そして、僕の本当の価値観と合う人とは出会えません。

けれど、「自分の本当の価値観」に注意深く耳を澄まして、発言、行動、発信して、生きていくようにすれば、自分と本当に共鳴する人々、また、多様性を許容できる「本当の意味で大人」な人々と出会えます。
(「本当の意味で大人」でない人々(他者の気持ちを考えられず自分中心の思考しか取れない人々)とは、距離を置くことをお薦めします。あなたが無意味に傷つくだけだと思いますし、これから先、そういった人々は淘汰されていくと思いますので)

けれども世の中には”世間様”の呪いにかかって、
「これを言ったら恥ずかしいとか、クサいなとか、イタいなとか、そんなことを言っている」(坂爪圭吾さんのツイートから引用)人々がたくさんいます。



僕は、「愛(その人の心からの思い)がなければ、いっさいは無益」だと思います。お金も、家も、土地も、人間の存在も、世界も、生きていることも。
ここで言う「愛」は、他者にだけ向けられるものではありません。自分自身を大切にして、自分の心の声に耳を澄ますことでもあります。

どうせ明日や一週間後、1ヶ月後に死ぬかもしれない地上の身なのです。
あなた自身を大切にして、心からの思いを大切にしてみてはいかがでしょうか。
”世間様”の呪いは強いです。しかし、一歩足を踏み出してみるとその呪いから抜け出た人がたくさんいます。
それでも不安に過ぎると思います。僕もそうでした。
よかったら、僕をその窓口としてお使い下さい。
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祈り
主よ、私を使って、かつての私のように、悩み苦しみ悲しみを抱える人々を慰め、周りからの理解という救いをお示しください。。そうしていつか、全ての人々が互いに想い合えますように。アーメン(そのようでありますように)。

”牧師、僧侶、神職などの関係性” 「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章18節)

”牧師、僧侶、神職などの関係性”

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記一九・一八)

「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章18節)

 

祭司、レビ人がたとえ話に登場し、善行を行わない姿で描かれるのは、行いを伴わない称号・職位は神の前に何の意味も持たない事を示している。「司祭職の尊貴も、行為において優るところなからば無意味なり」(アレクサンドリアのキュリロス)。

善きサマリア人のたとえ - Wikipedia から引用

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こんにちは。

 

昨日、下賀茂神社比叡山延暦寺が出てくるテレビを見ていました。

その中で、最澄伝教大師が、「この世の中をよくしたい」「今まさに苦しんでいる人々のために祈りたい」という思いで”現在”を司るとされる薬師如来様を特にお祀りし、祈りに励んだ、というお話がありました。

 

それを見て、「平和を祈る人々に優劣などはないはずだ、だから、キリスト教だろうと仏教だろうと、本当の信仰者・信仰職といえる人々同士は、相手の信仰を尊重し合いながら、協力し合った方がいいのではないだろうか」と思いました。

と言いますのも、キリスト教仏教イスラム教もヒンドゥー教も、あらゆる宗教は全て、「人間の考えの及ぶ範囲で理解されたもの」です。けれど、どの宗教も「人の力の及ばない、なにか偉大なもの」の存在を信仰しています。

「言い知れぬ存在に畏敬の念を持ち、平和を祈る」というスタンスは「平和を祈る人々」に共通する姿勢なのではないかと思うからです。

 

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西行(さいぎょう)法師が伊勢神宮を詣でたときに歌った。
「何ごとのおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という歌は大変有名ですけれども、何がそこにいるのかはわからないけれども、なんともかたじけなくて、涙してしまうという心。」

「キリスト教信仰が大切にしている事」 から引用

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キリスト教でも、神の存在を感じられるほどに、自分の内面に向き合い、隣人(他者)のために祈るという行為が大切なものとされていると思います。

 

実際に宗教の垣根を超えて協力している例では、最近、神社の宮司さんと教会の牧師さんが協力して、「神社のコンサートで、キリスト教の幼稚園の子供たちが讃美歌を歌う」ということがあったそうです。

日本聖公会「つのぶえ」694号から)

 

その神社の宮司さんは「地域の人々と一緒に、皆が平和に暮らせるように願ったステージを企画したいので、ぜひ幼稚園児のご協力を」というお声かけを為さったそうです。

 

僕は、これが本当の信仰者の姿なのではないか、と思いました。

 

「お金や権力のために、本来の信仰を忘れている信仰者・信仰職の人」

「自分は神から力を与えられている、と傲慢になる人」(トランプさんを思い浮かべてしまいます...)

「自分の思いに固執するあまり、教理を絶対視し、平和を行うとは何か、を見失ってしまう人」

 

どの宗教に置いても、平和は大切であり、またその「平和」の概念には相通ずる部分が多いのではないでしょうか。(平和を掲げない宗教は、宗教として機能しているのか疑問です。)

わたしたちはそれぞれの信仰や道徳観を持っています。

しかしその信仰・道徳観、その他すべての考えは、「人間の考えの及ぶ範囲のもの」です。

間違っていること、曲解していること、一方には真実で他方には真実でないこと、意見の合わないことがあって当然だと思います。

でもその中で、「平和」という概念において、おおまかな一致を見るなら、その方向(キリスト教的表現で言えば「的」)に向かって、協力する、ということだけが、唯一変えてはならない大切なことなんではないでしょうか。

 

仏教キリスト教においても、「愛」という言葉について、これだけの相違があるそうです。

「・仏教の「愛」は、異性、お金、名声などへの「執着心」の意味

・(キリスト教の)愛とは「人を思いやることだ」「人生において最も大切なものだ」。

仏教徒は、「慈悲」とは"苦を抜き楽を与えること"である、と説明しています。

キリスト教の「愛」と比べられるものは、仏教においては、「慈悲」でしょう。」

仏教の「慈悲」キリスト教の「愛」  から引用

 

本当の信仰(平和を追い求める心)は、概念(特定の宗教・宗派(無宗教も含む)や、価値観)によって、疎外されたり妨害されたりするべきではないと思います。

ローマの信徒への手紙12章18節に「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」とあるように、平和に過ごすために、自分の信仰や道徳心について考え、異なる他者の信仰や道徳観を尊重し、対話し、協力していくことがより良いことなのだろうと感じました。

 

異なる宗教同士の関わり方は、様々難しい問題がありますが、上記したようなスタンスが、肝要なものとして考えられることを祈ります。

ここにもまた「多様性への寛容」という社会(人間の集まり)の課題が現れているのだと思います。