死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

死をどう生きたか / "この世を去ることの方がはるかに望ましい" フィリピの信徒への手紙 第1章21~23節

 

こんにちは。

 

今日は、京都市役所の少し北にあった古本屋で見つけた「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」(日野原重明著)という本の紹介をしたいと思います。

それから、フィリピの信徒への手紙 第1章21~23節を引用します。

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まだ途中なのですが、今日読んだ箇所から、p97の

「”私は、本当に神様に恵まれているものは、自分に力はない、財力はない、地位はない、ということであきらめないで、その中でも人にできることをして行くことが、やはり神様の恵みをいただくことであると思います”(「キリスト新聞」昭和五十七年五月二十九日号)」

という賀川豊彦氏夫人の言葉が心に残りました。

 

神様に恵まれてるとは、何なのでしょうか。

僕は、理解者に恵まれることだと思っています。

神様も含め。

 

キリスト教に限らず、信仰や道徳観のあり方、それらに見出す意義、意味は、人それぞれ違いがあると思います。

同じ信徒であっても、ひとりひとりが、多様な視点から信仰・道徳を考えています。

そのことについて、話し合い、違いを受けとめ、理解し合うこと。それこそが他者を理解する「多様性への寛容」を育む土台となるのではないでしょうか。

そのような、自分の内面について語り合う場は、日本には現状ほとんどないですが、とても大切なものだと感じています。

僕にとって、その場は、親友と話をする時、教会の説教を聞く時、繋がりの深い人と話をする時、です。

 

賀川豊彦氏夫人は、「力はない、財力はない、地位はない、ということであきらめないで、その中でも人にできることをして行くことが、やはり神様の恵みをいただくこと」と仰っています。

けれど僕は、少し違う意見を持っています。

力があること、財力があること、地位があること、が生きる理由になり得ると、あまり思えません。

もちろん、お金や地位があれば、死なないでいることは出来るかもしれませんが、それは生きているといえるのでしょうか。

その一方、「人にできることをして行くこと」は、仄かながら生きる糧になることがある、と感じています。

 

生きている中で、あきらめることがあってもいいと思うのです。それも、うつくしい選択のひとつだと思います。

生きることはしんどいことです。その中で、少しでも、自分が心やすらぐことやものがあるのなら、それに心を向けて、他のことからは距離を取ってもいいと思うのです。

「自分に力はない、財力はない、地位はない、ということで(生きることと、この世界をあきらめたくなるけれど、)あきらめないで、その中でも人にできること(自分に対してできること、自分を褒めることなども含む)をして行くことで、神様の恵み(理解者との出会い)をいただくこと」ができるのかもしれません。

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「”この世を去ることの方がはるかに望ましい”

フィリピの信徒への手紙1章21~23節(パウロとテモテが、フィリピの信徒へ書き送った手紙)

1:21 わたしにとっては、生きることはキリスト(平和を行うこと)であり、死ぬことは益である。

1:22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。

1:23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。」

 

この箇所を読んで、パウロにも希死念慮があったんだな、という、考えてみれば当たり前なことに気づきました。

僕は、希死念慮持ちは、タブー視されるべきことではないように思います。

上記のようにキリスト教でもこのように述べている箇所があり、仏教でも「四苦八苦」「一切皆苦」などの”生きることは苦しみ”という思想があります。

 

すべての人ではなくとも、多くの人が生きる意味に悩み、ひとりひとり考えているなら、みんなで落ち着いて、生きる意味について話し合うことには大きなメリットがあるのではないでしょうか。

僕のように、「悩み苦しみ悲しみを感じる人を減らしたい」ということに生きる価値を見出す人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。

 

人はそれぞれ違うものです。(キリスト教的言い方をするなら、違う賜物をいただいてるものです。)

それぞれに考え方と在り方があると思います。であれば、そのことに対して、誰かに「間違っている」「おかしい」と言われるいわれはないと思います。

 何より、生きるだけでも十分大変なのに、それ以上に何かを強制する権利が誰にあるでしょうか。

僕は、誰にもないと思います。

だからこそ、どのような形で生きていても、助け合い、繋がり合えるように、「多様性への寛容を持つコミュニティ」をひとつでもまもり、できるなら広げていきたいと思っています。

 

大言壮語ですし、僕自身にそのような”力”があるとは信じきれません。

だからこそ、主の御力に頼って、支えていただきながら、行けるところまで歩んでみようかな、と思うのです。

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「コリントの信徒への手紙Ⅱ

4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 

祈り

悲しみのあるところに喜びを、闇のあるところにあなたの光を置かせてください。主よ、慰められるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。あなたの御力によって。父と子と聖霊に、感謝します。アーメン(そのようでありますように)。

"互いに平和に過ごしなさい” / ひきこもり新聞「動けなさへの配慮」

こんにちは。

今日は、テサロニケの信徒への手紙Ⅰから、第5章12~18節を引用します。

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先日、活動を応援したいと思い購入した「ひきこもり新聞」を読んでいたら、下記のような記事がありました。

 

動けなさへの配慮、不可能性を生きるワタシ | ひきこもり新聞

ひきこもり新聞 | すべての”ひきこもり系の人”のために から)

 

”動けなさへの配慮”

この言葉は、僕にとっても、共感する言葉でした。

僕自身も、今は何とかいろいろと活動を行なっていますが、ふとした時に、「ああ、もう何もできない。何をしても、それがなんだっていうんだ。」という虚無感を感じることがあります。だいたい、今は1,2週間に1度くらい。

この気持ちを僕は、ほとんど物心ついた時から持っており、自分の性質のひとつだと思っています。

 

その中で「ひきこもり新聞」の活動を応援したいと思う僕にとって、下記のツイートがたくさんの方に、今もリツイートされているのは、個人的にもとても嬉しいことです。

 

 

 

活動的に、いろんなことをする人がいます。反対に、じっと動かずにいろいろ考える人がいます。

なぜ今の社会は、前者が(お金をよく生むから)善で、後者が(お金をあまり生まないから)悪だとしているのでしょうか。

長い目で考えれば、前者が社会や人間全体に対して、取り返しもつかないような悪をしてきたこともあることは、自明ではないでしょうか。

長時間労働や、(パワハラモラハラなどの)道徳観の欠如、原発などの問題も、関わりのないことではないと思います。

 

もちろん、だから活動的な人が悪いというつもりはありません。

けれど、どちらにも価値の差はない、と言いたいのです。

 

上記したような社会の問題は、ひとりの力でどうこうできる問題ではないと思います。

しかし、ひとりひとりが問題意識を持って発信することで、変えていくことのできるものだと思います。(例えば、「ひきこもり新聞」など、自分が応援したいと思う支援活動にお金を払う、ブログやツイッターで自分の思いをコメントするなど)

問題意識の波及は、何よりも力のある行為だと思います。

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「"互いに平和に過ごしなさい”

テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 第5章12~18節(使徒パウロがテサロニケにいる信徒たちへ出した手紙)

5:12
兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、
5:13
彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。
5:14
兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする(お願いする)。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15
だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
5:16
いつも喜んでいなさい。
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」

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「5:14
兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする(お願いする)。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」

この部分の怠惰な者を戒め、という部分は、言葉として少し強く響いてしまうかもしれません。しかし、その後に、小心な者(心弱められている人)、弱い者(今の社会で虐げられてしまっている人)を助け、すべての人に寛容でありなさい、とあります。

つまり、「怠惰な者」というのは、「平和を生むための活動に対して」怠惰な者と考えられるのではないかと思います。

人に対してきつく当たったり、自分の思う通りにならないからといって人を罵ったり、(物理的、制度的)暴力を用いたりする人や、他者を軽蔑、侮辱、迫害する人、「平和を壊すこと」に対して、活動的な人のことを指しているのではないでしょうか。

 

「5:15
だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
5:16
いつも喜んでいなさい。
5:17
絶えず祈りなさい。」

 

ここは、現代に生きる僕たちは、テサロニケの信徒ではないので、命令のように聞こえてしまう部分かと思います。

けれど、「いつも喜んでいなさい」という言葉は、しんどいとき、つらいときにも無理やり笑ったり陽気に話したりして喜びを表せ、という意味ではないと僕は、思います。

悲しみや辛さの中にあっても、人が寄り添ってくれることで感じられる喜びというものもあると思います。それは、ニコニコ笑ったり、陽気に楽しく喋ったりする類のものではなくとも、「喜び」のひとつの形だと思います。

 

「喜び」とは、人が、人の心に寄り添うことで生まれるものなのではないかと思います。楽しい気持ちの人がいたら一緒に楽しみ、悲しい気持ちの人がいたらその悲しいという気持ちに寄り添えるよう取り組もうとすることで生まれるもの。

 

たくさんの人が、それぞれの人の心に寄り添うことができるように、「5:15 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。」と書かれているのではないでしょうか。

 

また、人間は、自分の思いと言葉と行動、そこから波及していく他者への影響について、全てを自分の意のままにすることは”不可能”です。

だから、自分が、皆が、常に実行することは不可能であっても、できるだけいつも、「5:14 すべての人に対して寛容で」あることができるように(キリスト教的表現で言うと、”神の御心に沿えるよう”に)「5:17 絶えず祈りなさい。」とされているのではないか、と僕は思います。

祈りというのは、下の記事の後半にも書いたように、僕にとって、「親愛が、自分にとって何よりも尊いものである」ことを確かめるものでもあります。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

今日の引用箇所は、

「5:18 これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」と締められています。

僕は、「これ」とされている中でも軸として大切なのは、

「5:13 互に平和に過ごしなさい。」

「5:14 小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」

なのではないか、と思っています。

 

すべての人、つまり「多様性に寛容」であることは、「人と人との暖かい繋がり(親愛や平和、心の安らぎとされるもの)」を価値基準の第一番目として置けば、あらゆる人の利益となることだと思います。どうかそのために「絶えず祈る」人が増えることを、絶えず祈っています。

 

 

dedicate to lady S.B.

 

”人々の心を励まし、愛によって結び合ってほしい” / ”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”

こんにちは。

今日は、今日の聖書通読(日課的に聖書を読み進めること)箇所から、コロサイの信徒への手紙を引用します。

 

今回は、キリスト者に大切とされている姿勢について、僕の理解している範囲で書こうと思います。それから、僕自身のことも。

僕は、これから述べることに取り組んでいない方は、キリスト者の在り方としてどうなのか、と感じます。

つまり、牧師、神父、クリスチャン、教会に通っている人々でも、これから述べることについて、少しでも思いに留めていないなら、それは果たしてあるべき姿なのか、という疑問です。

 

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「”人々の心を励まし、愛によって結び合ってほしい”
コロサイの信徒への手紙 第2章1、2節(使徒パウロがコロサイの信徒へ送った手紙)

2:1
わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。
2:2
それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。」

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パウロは、自身の弟子として慕ってくれている人々と、自分ががんばって建てた教会があるラオデキアと、また、”会ったことがない人々(つまり自分が会っていない全ての人々)”のために、牢屋の中から必死で祈っている、と書き送りました。

それは、全ての人々が、心を励まされ、お互いを(理解し)励まし合い、愛(平和への思い)によって結び合わされることを祈ってのことでした。

 

「何を綺麗事を...」と思われる方もいるかもしれません。

実際、僕が似たようなことを学校の付き合いなどで言った時、「もっと現実的なこと言えよ」という反応をされたことがあります。

 

しかし、

「現実」とは何でしょうか。

私は、「今の社会」のことを指していると理解しています。

 

「社会」はどうやって形作られているでしょうか。

「人間が集まることによって」だと思います。

 

であれば、「綺麗事(理想的な社会)」は、大多数が実行しようとすれば可能なのではないでしょうか。

「現実(理想的ではない社会)」を、変えることのできないものと諦めから断定して、「綺麗事(理想的な社会)」を否定する行為に、意味はあるのでしょうか。

 

もちろん、社会の在り方を変えることは、一朝一夕で成るものではないと思います。

それでも、様々な環境、状況から、悩み悲しさ辛さに苦しむ人々を放っておくことは、いずれ全ての人々が苦しむことになる布石だと思います。

なぜなら、今苦しみの中にいない人が、今苦しんでいる人の側に移動することは、時の運や一瞬の偶然によって、いくらでもあり得ることだと思うからです。

であれば、全ての人々がお互いに励まし合い、「優しさを持って接する」ことができる社会を目指し、大目標、中目標、小目標を持って歩んでいくべきではないでしょうか。

 

(例)

大目標

全ての人が心から笑うことができる社会

中目標

自殺者、経済的困難を患う人、遺児・孤児、精神的な苦しみを患う人などへ向けた活動+現在、社会的マイノリティとされている人々への理解・寛容を社会全体で育む

小目標

目の前の人に優しく接する。(コンビニで何か買ったら笑顔でありがとうと言う、道を譲る、相手の気持ちを考える想像力を鍛える(もし自分がこの人だったら、今自分がしているように接されたらどう思うだろう、など))

(自分が、できるだけ多くの人に暖かく接することで「優しさの連鎖」を起こすことは、自分や、自分の大切な人が、その連鎖反応にあずかる可能性が高くなる、ということだと思います。)

 

僕は、相手が誰であろうと、どんな立場であろうと「優しさを持って接すること」が、「神があなたを愛されたように隣人を愛しなさい」というみ言葉を受けたキリスト者の在り方なのかな、と思っています。(もちろん、人間ですから、常にそうあることは難しいですが、そう取り組もうとする在り方)

明らかに違う人(人を軽蔑、侮辱、断罪するなど)からは、キリスト者であるかどうかに関わらず、あなたの心のために、距離を置くことをおすすめします。

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「”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”
コロサイの信徒への手紙第3章12~14節
3:12
だから、あなたがた(全人類)は、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13
互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
3:14
これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」

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キリスト教の価値観では、神に愛されている人とは、全ての人、全人類のことを指します。

以前どこかで、クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、「当選の宝くじを換金しているかしていないかの違い」だ、と仰っているコラムを読んだことがあります。

つまり、全ての人は既に愛されているが、「それに積極的に応えているかいないか」の違いだということです。

 

といっても、そんなことを急に言われても...という方も多いと思います。

僕も、心がほとんど限界にきて、今の教会での礼拝を受けるまでは、同じような思いも持っていました。(礼拝自体は別の場所で幾度も参加していましたが。)

 

僕は、僕の理解で言うなら、(幾分アニミズム的ではあるかと思いますが、)

神を通して、種々に祈ることで与えられる「安らぎ」、

人と人の暖かい繋がりから生ずる、涙さえするような「喜び」や、

自然の美しさが胸に染み入る時の「感動」、

時間や空間を超えて、聴いた人々の心と想いをひとつにしてしまうような音楽に出会った時の浮き立つような「楽しさ」など、

それらの「うつくしさ」が神からの愛の一部なのではないかと思っています。

 

もちろん、自然は牙をむくこともあります。

しかし、それは「死ぬこと」を絶対悪、絶対にあってはならないことと置いているから、ということもあるかもしれません。

僕も苦しいのや痛いのはいやです。

ですが、死ぬのはいやではありません。

 

なぜなら、以前にも書きましたが、「死ぬことで(生きる苦しみから解放され)想いとして生きる」と思うからです。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

この価値観は、合わない方も多いと思います。僕もなかなか普段の会話では言えないことのひとつです。

しかし上記の記事のように考えると、僕にとっては、死ぬことも「うつくしい」ことのひとつとして感じられるのです。

 

とはいっても、兄を亡くしている僕は、死別の悲しさも幾分わかります。

だから、「兄や僕が死にたくなるような社会」を「誰もが楽しく生活し、まあ死んでしまっても周りのみんなが地上で、平和への想いを引き継いでいってくれるよ、と思えるような社会」にしていきたい。

僕が生きる理由は、上記の想いと、「僕に繋がる、心から大切だと思える人たちを悲しませたくない」という二つに尽きます。

 

そして、誰もが心から笑うことができる社会へ舵取りをすることと、死んでも想いとして生きるために、”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”であり、ゆるし合い、その上に愛(平和への想い)を忘れずに在ることが、大切なのではないかと、思っています。

 

 

祈り

僕の想いをあなたへ捧げます。主よ、私はまだここにいます。私にできることを、私が為し、あなたの御心に沿えるように、どうぞ共に歩んで、導いてください。私と一緒に、居てください。アーメン(そのとおりでありますように)。

僕が生きる理由 / 備忘録 ツイッターから

こんにちは。

 

今回は、明日更新が難しそうなのと、ツイッターで久しぶりに自分の素直な想いを吐きだせたので、その呟きをここに記します。

 

人と接するのが怖い。言葉と態度の多義性の故に。でもだからこそ暖かく繋がりたい。矛盾してるし実現不可能に見えるけど挑戦する。それ以外に生きる理由なんてないから。

 

→失敗してもいい。というか4,5割は失敗するだろう。ひょっとしたらもっとたくさん。けど、納得できる在り方を一瞬でもできるなら、その一瞬の為に生きても、いいかなって。どっちでもいいっちゃいいんだけど。

 

確認好きだね、って言われたけどそう。常に自分は何か間違っている。100%合ってる事なんて世の中に一つもないと思うから。けれど、生きるなら、そう思ってない振りはできなければならない。幸い今は、その芝居はちょっとでいい。

 

人と接するのが苦手には見えないって言われるけど、かなりの疲弊と苦手意識は嘘じゃない。それでも暖かく繋がることのみが生きる糧。

 

羊@Sheltie_s_sheep

 

「社会的少数者(マイノリティ)」 / ”憩いの水際” 詩編 第23編

”憩いの水際”

詩編 第23編

23:1
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
23:2
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

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こんにちは。

今日は自分のツイートから、「思想的少数者の在り方」について考えてみたいと思います。

 

 ー

 

上に述べたものが私の主張の骨子です。

僕のような希死念慮持ちなどの思想的少数者(社会区分でマイノリティとされる人々)は、これまでの社会では異端とみなされ、抑圧されてきたのではないかと思います。

 

しかし、現在および、これからの社会はそうではないと思います。

なぜなら、ツイッターやブログといったツールが、物理的距離を無視できるツールとして機能していると思うからです。

 

これまでの村社会的文化の中では、それぞれの集団の中で、「多数派である人々の常識」に適応することができない者は、抑圧され、迫害され、軽蔑されても、声をあげて助けてくれる人がいない環境だったと思います。

「多数派である人々」が、自分達の価値観を保守し、自分達に反対する人間を黙らせるために。

それは「すべての人が心から笑えるようになるため」には、是正されなければならないと思います。

 

・「白人主義」(白人であり、キリスト教徒である人々が持つ価値観だけをマジョリティとして保守しようとする運動)を進めるドナルド・トランプさん

www.huffingtonpost.jp

上記のような行為は、多数派と少数派、権力者と非権力者が理解し合えるようになるためには、悪手だと思います。(分かったうえで、やっているのでしょうが...。)

しかし、記事の通り、現代は保守層側にも複雑な思いが入り混じっています。

 

ツイッターやブログのある現代にあって、僕達のような思想的少数者も、一人や二人ではなく、同じ気持ちを持つ人が多くいるということを、かつてより随分多くの人が理解するようになりました。

そのことによって、理屈の伴わない言葉で、少数者を弾圧することは難しくなりました。(このことは何より素晴らしいことだと思います。)

現代にあって、生きづらさや息のしにくさを感じている人は、ツイッターやブログなどの、物理的距離を無視できるツールなどを使って連帯し、

社会的多数派に「社会的少数者の存在」と「一人の多数派側だった人間が、少数派側になる可能性は生きていく上でとてもたくさんある」ということを知ってもらう必要があるのではないでしょうか。

 

そうすることで、お互いが、「話し合いの場」に「対等な立場」で立つことができると思います。

その中で、互いの理解を深めることで、「お互いをひとりの人間として尊重し、理解し合いながら暮らしていくことができる」と信じたいと思います。

 

僕にとって、ツイッターの機能は、”憩いの水際”として機能しています。

(といっても、ツイッターが無くなってしまったら、同じような場が別に作られるとは思いますが。)

 

「自分自身の考えが、自分ひとりのものでないこと」

「同じ苦しみを覚えている人がいること」

「その苦しみの解消の為に動いている団体があること」

「そこに携われる希望があること」

 

それらを、ツイッターやブログ、教会などを通して理解できたことが、僕の生きる糧・理由になっています。

 

「トランプ大統領の命令にストップをかける連邦地裁」

news.tbs.co.jp

 

けれど、当然ですが、思想的少数者側も、多数派を断罪するのではなく、「話し合いの場」において理解し合う努力をしていかねばならないと思います。

その上で、上記記事のように、少数派(マイノリティ側)を迫害する考えや行動には、反対し続けていかなければならないと考えます。

”憩いの水際”を守り、広げていくために。

 

 

久しぶりの勤労 / 生きる”基準”

 

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こんにちは。
久しぶりに8時間働いてきました。
疲れたので今日は短く書きます。

美しい景色の中で、優しさを持ったオーナーご夫妻に仕事を教えていただくのは、楽しかったです。

けれどやはり、引きずってる「外部評価恐怖症」の存在も再度認知しました。
他者から評価されること、評価される状況に、異常に怯えてしまう。
そんな必要はないとわかっていてもそうなので、まあ精神的な病状なのでしょう。
物心ついた時から、そういった性質は持っていましたが、以前の仕事中に、なかなか強化されてしまったようです。

はじめは失敗するもの。
冷たくされたかも、と思っても大抵の場合そんなことはない。
自分を身の丈以上に良く見せようとしない。(これ何気に一番むずかしいです...。)
そして身の丈どおりの、小さな自分を受け入れ、仲良くして、楽しく過ごす。

結構疲れてしまったのは、外部評価恐怖症に起因するところが、かなり大きいです。
でも仕事の後、「つかれたしんどい」ってなっているときにも僕は、”親愛の下僕”であることに救われます。
(生きる基準の話)

「私たちは何を基準に生きているでしょう。「正義」「愛」「利益」など色々あると思いますが、いずれにせよ私たちはその基準の「下僕」なのです。ですから何を基準に生きるかはとても大切です。」
上馬キリスト教会さんTwitterアカウントから

胸に提げたテゼのクロスに手を当てて、人の思いを超えた存在、また親友達からの”親愛”を確認することが、理性と、心でできます。
僕の見ているこの世界で、それ以上に価値のあることは、多分、ないんじゃないかと思います。


追伸:
最近、「Life walk いのちの行進」という、まるで日本版テゼ(あらゆる信仰を超えた集い)のような活動が京都であることを知りました。
仏教を中心としたあらゆる宗教者が、「いのち」について考え、提言していく取り組みです。
2017/3/1にあるようで、可能であれば参加したいと思っています。

peraichi.com

”死んでも生きる、復活とは”コリントの信徒への手紙Ⅰ15章50節、Ⅱ 4章15ー16節、18節

”死んでも生きる、復活とは”

コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節
15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章15-16節、18節
4:15すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

4:18わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
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こんにちは。
今回はキリスト教で主要な概念のひとつである「復活」について、僕なりに考えてみたいと思います。

僕はキリスト教についてあまり知らないころ、「復活、永遠の命」など死んでも御免だ、と思っていました。
せっかく、死ねば今の考える苦しみ、生きる苦しみから解放されるのに、なんで「死んでも生きないといけないのか」と考えていました。
その頃の私の知識と解釈では、「死んでも生きる」とは、死んでも苦しみ続けろ、と同義だと思っていたのです。

しかし、恩師の牧師先生にこの考えを伝えたところ、「永遠の命とは、そういう意味ではない」と言われました。

それでは、どういう意味なのか。
少しずつ、自分なりの解釈ができてきたので、それをここに記します。

「コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節
15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」


まず、「死んでも生きる」の「生きる」とは、今と同じ血肉のからだとして生きることではないのです。

僕はここでの「生きる」とは、「暖かい想いが、人々の間に繋がっていくこと」という意味だと考えています。

血肉のからだや言葉は、朽ちるものです。
しかし、想いは、人々の間で繋がり続ける限り(思いやりが思いやりを呼ぶように)朽ちずに続いていきます。
それは、ともすれば人間同士だけのことではないかもしれません。
人間と他の動物の間でも言えることかもしれません。

もしそうであるとするならば、生物がいる限り、想いは朽ちません。

私は「永遠の命」「復活」「死んでも生きる」という言葉の「生きる」という意味は「”想い”として生きる」ということなのではないか、と考えています。


「”想い”として生きる」のであれば、悪くありません。
今の考える苦しみ、生きる苦しみから解放された上で、暖かい想いという、純粋に前向きなエネルギーだけを残して逝ける(とともに「想い」として生きる)のですから。

しかし、「”想い”として生きる」とはなんでしょうか。どうすれば、そういうことができるのでしょうか。

「コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章15-16節
4:15すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」

その方法のひとつは、ここの聖句にもあるように、「感謝」だと思います。

できるだけ多くのことに感謝しながら生きていくこと。

できるだけ多くのことに”感謝しながら生きていけるように”、人生のかじを切ること。

もし自分が、そのように恵まれた立場にいるなら、環境と運によってそう思うことができない人に、暖かく接すること。

できるだけ、感謝を生み出す人になること。


もちろん、今は血肉の人間であり、暖かく、優しく、と思っていても、言葉と行動、負の感情によって、人を悲しませること、傷つけてしまうことが、どうしても起こってしまうと思います。
今も、これからも。

それでも「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」

つまり、外なる人(血肉のからだ)は日々朽ちていきますが、内なる人(想い)は日々新たにしていくことができます。

何か人を傷つけることを言ってしまったなら、次に会ったときに謝ることができます。
思いがけず人を悲しませてしまったなら、相手が落ち着くのを待って、心から寄り添い弁明する事ができます。
取り返しがつかないほど大きく、他者を苦しめてしまったなら。もう地上では、どのようにも相手に関わることはできないかもしれません。それでも、相手のため、また自分のために祈ることはできます。

メメント・モリ(死を覚えて)
朽ちていくからだを覚えて、想いを新たに持ち続けることはできます。
その生き方が、”想い”として生き続けるということに繋がるのではないか、と思います。


「コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節
4:18わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

目に見えるもの、人が理解できるものは全て朽ちます。
けれど、全貌を明らかにすることはできなくとも、正のエネルギーである「暖かい想い」は、生物が続く限り朽ちることはありません。
そして、おそらく生物はまだ続いていくのでしょう。

「見えないものは永遠につづくのである。」
もしかしたら、主の復活も、目に見えるかたちでなく、弟子たちの心の中に、復活されたのかもしれません。幻覚となって視えるほどに。
この解釈は、おそらく異端ですし、僕の考えも変わっていくことでしょう。しかしその方が、意義深いと思うのは僕だけでしょうか。

そして、主(平和への想い)は、今現代も、ひとりひとりの心の中にあり、日々新たにされています。(キリスト教でなければ、「主」以外の概念(人間がつくりだした言葉)になるでしょう)


しかし、目の前に見えるものに心を急かされ、日々新たにすることができる「内なる人(想い)」のことを考える余裕がない人も多くいるのではないかと思います。
そのことに良い悪いはありません。
しかし、そこに目を向ける心の余裕がある人は、他者に与えてあげてほしいな、と思います。
その余裕がない人も、受け取る余裕は生まれるように、自分自身を、自分自身の心を、大切にしてほしいと思います。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。」
見えないものに目を注ぐことのできる余裕を保ち、またその見えないもの(想い)を、他者に与えることができるよう、血肉のからだを使いたいものです。
それは私自身の想いと言葉と行動によって必ず達成できることではありません。

見えないもの(主(平和への想い))に頼ることで、自分の目が届かず人を悲しませることがあっても、「4:2できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 4:3平和のきずなで結ばれ」る望みを持ち続けることができるのではないか、と思っています。(エフェソの信徒への手紙4章2-3節から)