死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

”あなたがたは消えゆく霧” ヤコブの手紙4:13-14 / ”人を分け隔てしてはならない” 2:1-9 / ”行いを欠く信仰は、死んだもの” 2:14-17 / ”舌は「不義の世界」” 3:5-6

こんにちは。

今日は、新約聖書ヤコブの手紙から引用します。

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「”あなたがたは消えゆく霧”

ヤコブの手紙4章13、14節

4:13
よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
4:14
あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」

 

 

今日のこの箇所は、比較的理解しやすい箇所だと感じます。

明日以降の予定を立てるな、ということではないと思いますが、

僕たちは皆、明日生きているかどうかわからない身です。

 

最近、若い方が亡くなったニュースがいくつかありました。

 

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明日、どうなるかわからぬ身なら、今、自分の心と身体を大切にし、自らの心の声に耳を傾けることが重要なのではないでしょうか。

 

この国では、大震災の死者を軽く越える人数が毎年、自ら命を絶っていると言われています。

 

そのことに対して、なにかできることがあるとするならば、”分け隔てしない”、”多様性に寛容になる”ということくらいではないでしょうか。

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「”人を分け隔てしてはならない”

ヤコブの手紙2章1節から9節

2:1
わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
2:2
たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。
2:3
その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、
2:4
あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
2:5
愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。
2:6
しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。
2:7
あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。
2:8
しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
2:9
しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。」

 

上記箇所を、要約するなら、

物質的、精神的に富む人にも、貧しい人にも、分け隔てなく、”まず自分で自分を大切にできるようにし、またそのように他者にも接しなさい”ということだと思います。

 

社会の構成要素が多様な人々の集合体であることを理解し、それぞれ多様な性質を持つ人々ひとりひとりが、お互いに尊重し合えるよう社会を目指すべきではないでしょうか。

たとえそれが綺麗事(理想的すぎること)でも、なにかを行うことと、行わないことには、大きな隔絶があると思います。

それは、どのような人でも、自分と、自分の大切なひと、またそれに繋がる人々が平和に暮らすために、変わりない目標なのではないかと思います。

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「”行いを欠く信仰は、死んだもの”

ヤコブの手紙2章14節から17節

2:14
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:15
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

2:17
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」

 

信仰者であっても、そうでなくても、”消えゆく”ときに、自分を振り返って、どう感じるのか、考えてみることは無価値なことではないと思います。

就職活動などで人気の自己分析ではないですが、自分の主要な価値観、「自分が死ぬ時ときに、これを行っていれば後悔しないのではないか」、「自分が一週間後死ぬとしても、今していることをし続けるだろう」と思えることを、何年も、何十年もかけて探していくのが、生きていくということなのではないでしょうか。

 

その中にあって、自分の本心と異なる価値観を押し付けられ続けてしまうと、人の心の寿命は簡単に尽きます。

そういった時には、逃げること、休むことだって、立派に”生きること”だと思います。

返って、「自分にとって本当に何が大切な価値観か」に目を向けず、”生きて、死んでいく自分”について考えることから逃げている人の方が、身体は生きていても死んでいるのと同じではないか、というふうにも思ったりもします。(少し前の自分がそうだったので...。ただ、このように思わない、という方は、それも含めあなたの大切な価値観なのだと思います。)

 

ことほど左様に、人の価値観というのは多様なものだと感じます。

 

そして、下の14歳の少年の件などのように、

他者の価値観を圧し潰し、人の心を死に追いやることができるのが”言葉”です。

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「”舌は「不義の世界」”

ヤコブの手紙3章5、6節

3:5
それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
3:6
舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」

 

自殺は、望まれるものではないと、僕は思います。

本人が本当に世を去ること以外を望んでいないなら、その本人の意思を尊重するべきだ、という状況もあるかと思いますが、日本で毎年亡くなっている何万人・十何万人もの方の大部分は、「その人に何の肩書がなくても寄り添う人がひとりいれば」、「生活手段を支え受け入れる場があれば」、「”寄り添う言葉と思いが届き人と暖かく繋がれれば”」、生きていたかった人だったのかもしれません。

ほんとうのところはどうかわかりません。

それでも、そういった場をつくる必要性は、宗教が根差しておらず、内面について語り合う機会の少ない日本だからこそ、より強く感じるのです。

 

そういった場があれば、誰かを救えたかもしれない、などという傲慢なことは思えません。

けれどもし、そういう場があることで、少しでも心を軽く生きられる人が増えることがあるなら、僥倖だと思うのです。

 

そして、”場”をつくることは誰にでもできます。

ある人が、その日を生きるのに必要なモノや気力を持っていない場合、「自己責任だ」「関係ないことだ」と言わず、相手の視点を想像し、言葉と思いによって寄り添おうと取り組むこと。

まったく関係ない人相手でなくとも、今自分と繋がりのある人、身近な人に対して、少なくとも「不義の世界」をつくらないように、相手の心に寄り添えるように、思いと言葉と行いに注意を払うこと。

 

それが、場つくりなのかな、と感じています。

 

そして、僕自身、「行いを欠く信仰は、死んだもの」であることに、思いを留めていられれば、と祈っています。

 

死について、前向きでも後ろ向きでもなく、考える / 「死をどう生きたか」から、一部書評

こんにちは。
前の記事で引用した「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」の高橋敏雄さんのお話から、僕が感じ、考えた所感を書いていきたいと思います。


(以下「」内は、「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」110頁以降から引用)
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「いや、これは真剣で、真面目な質問なんだよ。近頃考えているのだけれど、人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。とくに、これこれと話をしたわけでないが、毎日の生活を見ていると、明るくて、なにかに支えられて、だれかといっしょにたのしんで仕事をやっているように見えるよ。なにごとにも耐えてゆけそうなところなど、うらやましいほどだ。僕にもすこしわけてもらいたいと思うよ」

なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」
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この部分で高橋さんは、「人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。」と仰っています。

生きる目的。
僕はそれは、死に際して、
”生きている間、自分にとってできるだけのことはやれたのではないか。もともと人間にできることなんて一切何もないのに、それでもあのことは、私にとって唯一、神の御前にあっても誇れることだといえるかな。私の心を支え、生涯共に歩んでくださった方に、諫められることもきっと多いだろうけど、それでもあのことは、喜んでいただけるだろう。”
と思って死ねることなのではないか、と思っています。
神や、人知を超えた存在に、会えることや、救われることが大切なのではなく、そう”思える”ことが、僕にとっては大切なのだと感じています。


人間が、他者の心を100%わかることはあり得ないと感じます。
自分が相手にかけた言葉ひとつ取っても、その言葉が相手にどのように受け止められ、救いとなるか悲しみとなるか、そんなことさえ、人間にはわからないのだと思います。
その時の相手の心の状態、周りの環境、心身の状況、それら全てを鑑みて、行動し、発言できるなら、それはもう人間の能力を超えていると思います。

人間は、他者の気持ち、心を完全に理解することはできません。
つまり、自分が相手を思って言った言葉、相手を罵倒しようとして放った言葉、それらが、真反対に作用することだってあります。
結局、自分の心も他者の心も完全に理解することができない”人間”が、真に理解できることなんて、何もないのだと思います。
科学でも、道徳でも、物質でも、物質以外のものでも。

僕たちは、自分の持つ考え・価値観(心の一部)によって世界を見ています。
その考え・価値観を根底から支える”心それ自体”がはっきりとわからない以上、何かをわかったつもりになっても、それはその時”わかったつもりになっている”それ以上でも以下でもないのだと思います。


人間に、完全に理解できることなんて何もない。
しかしそれでも、理解しようとして、理解に近づくことはできると思います。

そして、人は人に、理解しようとしてもらいたい、と思う生物ではないでしょうか。


なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」

桑原さんのこの言葉は、
”人間には、なにもわからないけれど、絶対的な力がある、と信じて、人知を越えた方の平和を信じて、自分にできることをさせていただこうと、自分のすべてを、自分が信ずる方の御手に委ねている”
ということを意味しているのではないか、と思うのです。
だから彼女は、毎日の生活にあって、心の中でだれかに支えられて、だれかといっしょに、毎日をすごせていたのではないでしょうか。



私たちには、なにもわからない。
けれども、なにもわからないままで生きていくことなんて、とてもつらくてかなしくて、苦しくて、むつかしいことだと感じます。
だから、心の平和に通ずる、自然や、人と人との暖かい繋がりなどから感じることのできる、”人知を越えたなにか”を信じて、自らを委ね、平和に向かって1ミリでも2ミリでも、何かすることができたら、と僕は思うのです。桑原さんも似たお気持ちだったのかな、とここを読みながら感じました。


「はい、私ではなにもできませんが、ごいっしょに聖書をすこしずつお読みいたしましょう」

この部分にも、人間存在の絶対的な無力性について、述べられていると感じました。
”私ではなにもできませんが”、それでも導き・巡り会わせ・御力によって、あなたの心に寄り添うことができたら、それは天の宝(人と人との暖かい繋がり / treasures on high)になるかもしれないと、信じたく思うのです。
ーーーー

「桑ちゃん、おれはこのごろとても淋しいんだ。なんともいいようがないが、とても淋しくて不安だ。いてもたってもいられない気持だよ。ひょっとすると、僕は気がくるうかもしれないよ、どうにかして生きている意義を知りたい。いま死ということに真剣にとりくむ必要を感じだしたんだ。どうしたらよいのか、どうしたら神を知ることができるのだろう。このあいだから思っているのだが、人間の業とはなんだろうか。あきらめというか、悟りという言葉を正確に自分のものにしたいから、しらべてみてくれたまえ。なんとかしてこの不安な気持からぬけだしたい。もし病気で死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ


ここで高橋さんが仰られていることを僕は、振り返ってみれば物心ついたときから、ぼんやりとではありますが意識していました。

生きることとはなにか。
考えずにはいられないけれど、それについて考え続けることは、無限の寂寥感と対峙することでした。
本当に、気が狂ってもおかしくない、といいますか、気が狂ってしまったほうが楽なのではないか、と思うことは、今もたびたびあります。

死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ

確固とした”生きる意義”となるもの(感動や心の暖かさを感じることと、同義の部分もあるかもしれません)は、
目に見えるもの、人間に理解できると感じられるものにはない、と思うのです。

僕は、なんらかの導き・巡り会わせ(偶然とも呼ばれているもの)のちからを近くに感じることによって、今の道を選ぶことができ、生きつづけることに、多少の意味を見いだせるようになりました。
ーーーー

「私は何のために生まれて生活して来たのだろうか。こうして静かに、過ごして来た人生を思い出してみると、みんな利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しいよ。生涯を顧みて、これといって何一つよいことは出来なかった。」


何のために生まれて生活してきたのか、と感じることは、ほとんど僕の常といってもよいことです。
何か楽しいことや嬉しいことがあったとき、確かに喜ぶ自分がいます。しかし、それは一過性のものであって、ひとりになったり、つかれたりすると、”生きていく必要は、どこにあるんだろうか”と、切なさと寂寥感に包まれることがたびたびあります。

僕は、死ぬことは、安らぎと近似の事象だ、と思う価値観を持っています。(キリスト教的に言いますと、死は御許に帰る故に安らぎであると考えられています。けれど、僕はキリスト教に触れる前から、生きるつらさゆえに死は安らぎと近似だ、と感じていました。)
しかしそれでも、死ぬに際して、できれば「利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しい」ではなく、”自分に与えられたことに、ひとつでもふたつでも応えることができた”と感じて死ぬことができたらな、と今の道を知ってから、思うようになりました。
ーーーー

「いろいろ考えると、自分の生きているのが申訳ないのだよ。多くの人のぎせいによって、今の私は生かされているのだから、そのことから考えても、真実を探り出して、より正しく生きねば皆に申しわけないのだよ。」


僕は今日もこうして、電車に乗り、帰って、屋根のある家で暖かいご飯を食べて、暖かい布団で眠ることができます。
けれど、そうではない、理不尽な暴力や圧力に苦しみ続けている人も多くいます。

そのすべてに寄り添うことは、不可能です。
けれど、僕の人生において、ひとりでも、”あなたが居てくれてよかった”と言っていただくような、僥倖中の僥倖があれば、僕もまた、生きていたことはその時点では無駄ではなかったのかもしれない、と感じられると思うのです。
そういうことを続けていけるか、うまくいくかはわかりません。けれど、その為のみに、生きていてもよいかもしれないなと、今は思っています。
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「今迄は仕事がいそがしくて、庭の木々や草花に目をくばる心の余裕がなかったけれど、病気をしてとくしたことのひとつは草花の美しさを通して、そのたくましい生命力にはげまされ、おどろかされ、人間の力の及ばぬ世界があることを教えられ、花を見ながら、よろこびが溢れるのを覚えることですよ。」

理解できないものが多いが、私が知らない大きな世界がいくらでも広がっている。私が知らなかっただけで、自分を超えた大きな力がいくらでも広がっている。なぜもっと早く心を開かなかったのだろうかと思い残念でたまらないよ」


僕は、自然や音楽、自分の内面、神様に向き合うとき、死の求心力から少し距離を置くことができます。
考えてみると、自分は何のために生きて来たのか」という思いから少し距離を置くことができます。

そして自分の内面や意識、価値観や考え方などに、しっかりと向き合い、少しだけ自分について理解した上で、自分の心を他者に開き、恵まれて”人と人との暖かい繋がり”を感じることができたとき、「よかったよかった。こんな良い日を迎える事が出来て、やっぱり生きていてよかった。」という思いが、僅かながら湧いてきます。

今の道を志してから、そのように自分の内面の声を聞くことで、上記のような想いを感じられることが格段に増えました。
これまでは自分が、希死念慮を併せ持つ自分の心に真剣に向き合うことから逃げていたので、当たり前と言えば当たり前なのですが。

僕には、特になにもできることはありません。
けれどふたつのこと、自分と似た苦しみを覚える人に寄り添う努力をすることと、場を作る努力をすることは、(常に全力で取り組むことはきっと不可能ですが)、生きていく上で唯一、主(絶対的ななにかの存在)の御力に縋っておこなってみたいと思えることです。
生きていく上、生きていく目的に取り組む上で、まず自分の心と身体を護ること、それから、他者に平和の御旨を為せるよう考えて、思いと言葉と行いに注意を払うことが、僕にとって大切なことだと感じています。

人にはそれぞれ、”これが大切だ”と思えるものが、たとえ気づいていなくとも、なにかあるのではないかと感じています。
それは、それぞれ多様に、大切なものです。
けれどもそれが、平和(和合)を壊す要素をはらんでいるかどうかについて、ちょっとだけでも、想いを馳せてくださる方が増え、それぞれの人が、それぞれに大切なものを抱き、尊重し合いながら生きてゆける社会に、一歩でも二歩でも、近づいていくことを、心から祈りつつ、動けるときに動いていきたい、と思っています。

「”高橋さんが受洗されたときに読まれた箇所”
ヨハネによる福音書第三章十六節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

死ぬときに、自分はどう感じるのかを想像し、その際後悔しないように生きることは、すべての人にとって主要な命題ではないでしょうか。
自分自身にとって大切な価値観はなにか、真剣に考え続ける必要を感じています。




祈り
多様な心を持つ人々ひとりひとりが、理不尽な悩み苦しみ悲しみを感じることなく、お互いに尊敬し合いながら生きていくことができますように。私自身のためにもお祈りします。アーメン(そのようでありますように)

「死をどう生きたか」 - 生涯公務に奔走した高橋敏雄さんと、付添い婦の桑原末子さんとの手記

こんにちは。

少しずつ読み進めています「死をどう生きたか」の中で、今日は特別うつくしいと思うと同時に、僕の想いと重なる部分があった箇所を、かなり長いですが、引用したいと思います。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」日野原重明先生著、p111から引用いたします。とても長いですが、この部分を全部引用したくなるほどに、僕はこの手記のうつくしさと人の心の交流に心打たれました。

 

注釈)高橋敏雄さんは、東京帝国大学を卒業した後、内務省宮内省、厚生省などで働かれた方で、逝去の2週間前までは無宗教だった方です。桑原末子さんは、目が見えづらくなり、身体の自由も利きづらくなっていた高橋さんの最後を付添いお世話された付添い婦で、クリスチャンの方です。

 

(以下、「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」日野原重明先生著、p110から引用)---------------------------------

高橋さんが受洗されたきっかけについては、節夫人は私との人間的な交りのためといわれていたが、お宅や病院で世話をされた付添い婦の桑原末子さんの影響が大きかったことが、死後一年たって出された高橋敏雄さんの追悼録にかかげられた「看護覚え書」と題する、桑原末子さんの手記によってわかった。次の文がその内容である。

「桑ちゃん、私(高橋さん自身のこと)は前から一度聞いてみたいと思っていることがあるんだよ」

「なんでしょうか。私にお答えできることでしたらよいのですが」

「僕は、桑ちゃんをつくづく見てきて思うのだけれども、毎日毎日、家事いっさいをくるくるやって、病人の世話から庭の草花の手入れ、猫や犬や、みんなあなたの手をとることばかりつづいているのに、一日も休みもせず、外出するでもなく、疲れもみせず、ぐちもいわず、毎日明るくすごしているのには、なにか秘密でもあるのだろうか。一度あなたとゆっくり話してみたいと思っていたんだよ」

「あら、秘密なんてとんでもありませんわ」

「いや、これは真剣で、真面目な質問なんだよ。近頃考えているのだけれど、人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。とくに、これこれと話をしたわけでないが、毎日の生活を見ていると、明るくて、なにかに支えられて、だれかといっしょにたのしんで仕事をやっているように見えるよ。なにごとにも耐えてゆけそうなところなど、うらやましいほどだ。僕にもすこしわけてもらいたいと思うよ」

「なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」

「それなんだよ。どうしたらそういう気持になれるのか、そればかりこのごろ考えるようになったんだよ。それでね、いまからではおそすぎるかもしれないが、僕の理解できるところまで究めつくしてみたいと思うのだ。どうしたら神を知ることができるのだろうか。たのむからすこしずつ教えてくれないか」

「はい、私ではなにもできませんが、ごいっしょに聖書をすこしずつお読みいたしましょう」

「ううん、たのむよ。それから、ミレーの絵で、農夫が夕べの祈りをしているのがあるでしょう。あの敬虔な祈りの姿に心をひかれるから、ぜひあの絵を買ってきて部屋にかけてくれ」

私は、だんな様に神様の導きと祝福を祈りつつ、静かに寝についた。

 

その後数ヶ月、私たちは聖書を少しずつ読んですごした。ある日、だんな様は、悲しみをこめて話しかけられた。

「桑ちゃん、おれはこのごろとても淋しいんだ。なんともいいようがないが、とても淋しくて不安だ。いてもたってもいられない気持だよ。ひょっとすると、僕は気がくるうかもしれないよ、どうにかして生きている意義を知りたい。いま死ということに真剣にとりくむ必要を感じだしたんだ。どうしたらよいのか、どうしたら神を知ることができるのだろう。このあいだから思っているのだが、人間の業とはなんだろうか。あきらめというか、悟りという言葉を正確に自分のものにしたいから、しらべてみてくれたまえ。なんとかしてこの不安な気持からぬけだしたい。もし病気で死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ

「そうですか。そうでしたら私どもの教会の長老で林道夫さんという方ですが、長いあいだ病床で苦痛と戦いながら、なお主の愛を証され、病気を神様にゆだね、み言葉をとりついでいらっしゃる方がありますよ。聖路加病院に入院していらっしゃるのですが、看護婦さんがその明るい闘病におどろいているそうです。一度お便りでもさしあげて、その明るさを教えていただきましょうか」

「うん、ぜひたのむよ。できるならばキリスト教のイロハから教えてもらいたいよ」

「はい、私が洗礼を受けたとき、とても喜んでくださった方で、安田銀行につとめた方です」

「ほう、ぜひ教えを受けたいね」

「短歌もよくなさる方だそうですから、そのほうからもよい友人になっていただけますよ。この方こそほんとうのクリスチャンと思いますから、ぜひ導いていただきましょう」

「うん、僕はとてもクリスチャンにはなれないかもしれないが、なんとかして一歩でも神の救いに近づきたいよ。もう間に合わないかもしれないけれどね」

「とんでもない、救いとは信ずることなのですよ。信ずるということは、信頼するということ、よりたのむということ、幼児のように素直に神によりかかることです」

「そうかい、でもこれからでは時間がたりなくて、そんなに素直に神を受け入れられないだろう。なんとか元気になって救われたいね」

「大丈夫ですよ。だんな様と大どろぼうをごいっしょにして申訳ないのですが、キリストが十字架につかれるときに、ともに死んだ罪人が、主よ私を覚えてくださいとたのんだ、そのたった一つの言葉、その信頼心をよしとされて、”よくいっておくが、あなたはきょう、わたしといっしょにパラダイスに入るであろう”とおっしゃったほどです。時間にしたら一分か二分。キリストの救いは時間の長短ではありません。信頼することが信仰ですよ」

「そうかい、ぜひたのむから、いろいろ教えてくれ、一歩一歩道を進む心でいるよ。あなたの教会の渡辺牧師にもお便りして、いろいろ教示をたのんでみたいと思うよ」

「はい、お電話して、お願いしてみましょう。きっと喜んでくださいますよ」

 

高橋さんの告白

このような会話のあったあと、何日かして、高橋さんと桑原さんとのあいだには次の言葉が交わされたことを、桑原さんは、彼女の所属する中野教会の月報「証人」に寄稿している。

「私(高橋さん自身のこと)も長いこと、いろいろの仕事をしてきたけれども、今こうして病床で思い出してみると、何一つ満足できることはしてこなかった。私は何のために生まれて生活して来たのだろうか。こうして静かに、過ごして来た人生を思い出してみると、みんな利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しいよ。生涯を顧みて、これといって何一つよいことは出来なかった。それどころか、とりかえしのつかない罪を犯したということを思うとたまらない。仕事の上でいろいろ自分の意思に反して、国家的見地と官吏という立場から、多くの罪を犯して来た事も反省しているのだ。特に島田君にはすまないと思って、今でも遺族に申し開きができないのだよ。昭和二十年私が人事課長の時、もちろん私個人の意思でなく、上司の命令だったが直接には、私が数ヶ月後には死なねばならぬ任地であることを充分知りながら、最後の沖縄県知事として、島田君に発令したのだよ。まるで死んでくれといったのも同然だったが、”命令ならば受けます。どうしても誰かが行かねばならないとすれば、私が”と言って赴任してくれたのだ。僕はつらくてとても苦しんだ。死にに行けと命令を下したんだから。いろいろ考えると、自分の生きているのが申訳ないのだよ。多くの人のぎせいによって、今の私は生かされているのだから、そのことから考えても、真実を探り出して、より正しく生きねば皆に申しわけないのだよ。しかし、今度病気をしたことによって、自分の進むべき道がみつかりそうです。病気という近道をして、神様の救いにあずかれると思うよ。今迄は仕事がいそがしくて、庭の木々や草花に目をくばる心の余裕がなかったけれど、病気をしてとくしたことのひとつは草花の美しさを通して、そのたくましい生命力にはげまされ、おどろかされ、人間の力の及ばぬ世界があることを教えられ、花を見ながら、よろこびが溢れるのを覚えることですよ。今まで西洋音楽など大きらいだったのに、私が眠れない時、桑ちゃんが、ステレオで聞かせてくれるシューマン、バッハ、ベートーベン。トロイメライ、アベマリア、オラトリオ、など。理解できないものが多いが、私が知らない大きな世界がいくらでも広がっている。私が知らなかっただけで、自分を超えた大きな力がいくらでも広がっている。なぜもっと早く心を開かなかったのだろうかと思い残念でたまらないよ

「そうですか、いつか私と庭仕事をして、枯れたランの植木の鉢を五、六個、うら庭にかたづけた時、新しい生命のいぶきにおどろかれたことがありましたね、そして二人で何かの歌をつくったでしょう」

「そうそう、そんな事があったね。あの歌はどのようだったかな。

  枯れはてし ランを鉢より取り出せば 思ひかけずも 新芽ふきをり

 というものだったと思うが、桑ちゃんのは、最後が”神の声きく”といったようだったね。私がうっかり枯らしてしまったランの鉢にも、ゆずり葉のように新しい命が生きている。そこに神の摂理を見るという意味を含んだ歌だったように思うよ。僕は桑ちゃんのように信仰を持っていないから、神の声とは気がつかなかったね」

(このあとに、桑原さんがたまたま同席してメモした高橋さんと水池亮氏との会話の記録がつづく。水池さんは高橋さんとは一高、東大の同級生、内務省も同期生で、無二の親友。)

「よう、水池君。よく来てくれた。もっとよく顔を見せてくれ」(だんだん視力がおとろえてきた)

「どうしたんだい、高橋。おれはここにいるぞ」

「水池君、君に話しておかなければならないことがあるのだよ。それは、今度キリスト教を信ずることにしたよ。いろいろ君も知っている通り、ずいぶん苦しんだんだよ。そうだなぁ、純粋な気持になって生命の糧として聖書を学び、これだと確信がもてたから信仰にふみきったよ。一切を神にゆだねるよ。心の底からキリストにひきつけられたよ。考えてみると、自分は何のために生きて来たのか、自分の人生はつまらないものだった。何一つよいこともできなかったね」

「そんなことはないぞ。君は日常、他人の陰口をいっさい口にしなかったろう。それは厳しいほど僕の心をうったよ。君は他人の短所をいわず、自分の長所も語らぬ人間だった。人にいやみを感じさせない積極性をもって仕事に打ち込む。君はすばらしかったよ」

「なあに、心の悩みは自分だけのもので、自分にしかわからないものさ」

「そうかい」

「今はね、真実が何かはっきりわかったから、神に己れの生と死をすべてゆだねるよ。人間に一番必要なものは何かということがわかったよ」

 

高橋さんの受洗

高橋家の宗旨は仏教であったが、高橋さんは仏教はむつかしくてわからないといわれていた。また以前に、宮内省勤務となったときには、神道を勉強されたという話も聞いたことがある。その高橋さんが洗礼をうけられることになったのであるが、昭和四十二年十月二十九日の受洗のあと、節夫人とのあいだの会話を、桑原さんはこう書いている。

 

「桑ちゃん、前からそういってたから、私(節夫人)もパパはその頃に受洗するかと思っていたのよ」

「きっと日野原先生が病気を見ていて、洗礼を受ける日を早められたのかも知れませんから、これからは、ゆだんなく、一生懸命に看病しなければいけませんね」

「そうね、パパがいつも、永遠の生命に間に合うことを気にしていたから、いそいでしていただいてよかったのでしょう。先生が一ばん良い日を選んで下さったのでしょう」

「はじめに日野原先生の所属の教会の田口牧師がお祈りして下さって、聖書のヨハネ福音書三章十六節を読んで下さって、洗礼を受けたの。パパはとても喜んで、その洗礼盤を手に受けて、しばらくなででみていたのよ、そして”これで僕も、ほんとうの神の子になったのですね”と何度も田口牧師に念をおして、あいづちをもとめてました。そして涙で目が見えないから、私に涙をふいてくれと言ってね、日野原先生が”さあ、永遠の命につながりましたよ。私と兄弟になりましたよ”といわれると、”よかったよかった。こんな良い日を迎える事が出来て、やっぱり生きていてよかった。桑ちゃんが来たら、新しい讃美歌をならうぞ”と言って眠ってしまったの」

「そうですか、大事な時にいなくてすみません」

「いいえ、あなたには九月以来無理ばかりしてもらってるから、すこしずつパパが落ち着いたので、日曜日の半日ぐらい私がかわろうと思ったのよ。だけど急に呼び出して、かえってわるかったわ、あっお目が覚めましたよ」

「だんな様、受洗おめでとうございます」

「ありがとう。桑ちゃんが帰って来たのなら、もう安心だ。洗礼を受けさせてもらったよ。みんなあなたのおかげだよ。あらためてお礼を言うよ。これからもよろしく頼むよ。なにも知らないから、1つずつ教えておくれ。お祈りの仕方もわからなくてはならないし」

「はい、少しずつ、ごいっしょに学んでまいりましょう」

「ほんとうに頼むよ。何しろ今日生れたばかりの赤ん坊だからね」

受洗の喜びと、新しい生命を与えられたという喜びがいっぱいで、高橋様は夜になっても眠ることができず、いろいろの抱負を夜おそくまで語られておりました。

・・・・・・

「桑ちゃんの顔がよく見えないのだけれど、どうしたんだろう、私はもう死んでしまったのか、たのむからもう一度見えるようにしておくれ、今は朝かな夕かな、何時ですか」

「ハイ、今は夜中で真暗なのですよ。暗いから見えないのですよ。安心してお休み下さい。朝になったらきっとゆり起こしますから、安心してねてください」

「そうか、そんならよいが、何も見えなくなったと思ったよ。じゃあ大丈夫だね。神様はいるんだものね」

「ハイ、そうですよ」

「枕の下に林さんのハガキがあったね。もし僕が天国へ先に行くようになったら、林さんに、あとから来て先に行くのはすまないと伝えておくれ」

「ハイ、きっとつたえます。そんなこと、お考えにならず、静かにやすみましょう」

「うん、そうするよ。右のほうに向けてくれないか」

「ハイ」

「桑ちゃん、いろいろありがとうよ、なにもしてあげられなくてすまなかったね」

・・・・・・

それから二時間ぐらい静かに眠ったまま、自然にといって良い程やすらかに召天されました。受洗十七日後、夕日が少しずつ山の端に沈むのと同じように、静かに、安らかに召天されました。

(引用終わり。「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」真摯に生き抜いた高橋敏雄さん)---------------------------------

 

 

「”高橋さんが受洗されたときに読まれた箇所”

ヨハネによる福音書第三章十六節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 

_次の記事で、僕が「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」から、この箇所を引用した理由を書いていきたいと思います。

 

 

ココロとストレスとうつ / "私の目には、あなたは高価で尊い”

 こんにちは。

 

今日は書くことが思い浮かばないので、記事紹介と本紹介をしたいと思います。

以下はNPO法人ぷるすあるはという団体の記事です。

 

・うつやんズ

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kidsinfost.net

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この「アガペーの言葉」という本は、大学時代の恩師である牧師先生がかつて通っていた教会の管理牧師さんである、山崎先生から直接いただいたものです。

目次だけご紹介します。

 

Ⅰ、あなたがいなければ

Ⅱ、暗い小道を照らす灯

Ⅲ、大いなる贈りもの

Ⅳ、さわやかな風に吹かれて

Ⅴ、愛の道しるべ

Ⅵ、新しい希望の船出

あとがき

 

「"私の目には、あなたは高価で尊い”

旧約聖書 イザヤ書第43章4節から

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」」

死をどう生きたか / "この世を去ることの方がはるかに望ましい" フィリピの信徒への手紙 第1章21~23節

 

こんにちは。

 

今日は、京都市役所の少し北にあった古本屋で見つけた「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」(日野原重明著)という本の紹介をしたいと思います。

それから、フィリピの信徒への手紙 第1章21~23節を引用します。

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まだ途中なのですが、今日読んだ箇所から、p97の

「”私は、本当に神様に恵まれているものは、自分に力はない、財力はない、地位はない、ということであきらめないで、その中でも人にできることをして行くことが、やはり神様の恵みをいただくことであると思います”(「キリスト新聞」昭和五十七年五月二十九日号)」

という賀川豊彦氏夫人の言葉が心に残りました。

 

神様に恵まれてるとは、何なのでしょうか。

僕は、理解者に恵まれることだと思っています。

神様も含め。

 

キリスト教に限らず、信仰や道徳観のあり方、それらに見出す意義、意味は、人それぞれ違いがあると思います。

同じ信徒であっても、ひとりひとりが、多様な視点から信仰・道徳を考えています。

そのことについて、話し合い、違いを受けとめ、理解し合うこと。それこそが他者を理解する「多様性への寛容」を育む土台となるのではないでしょうか。

そのような、自分の内面について語り合う場は、日本には現状ほとんどないですが、とても大切なものだと感じています。

僕にとって、その場は、親友と話をする時、教会の説教を聞く時、繋がりの深い人と話をする時、です。

 

賀川豊彦氏夫人は、「力はない、財力はない、地位はない、ということであきらめないで、その中でも人にできることをして行くことが、やはり神様の恵みをいただくこと」と仰っています。

けれど僕は、少し違う意見を持っています。

力があること、財力があること、地位があること、が生きる理由になり得ると、あまり思えません。

もちろん、お金や地位があれば、死なないでいることは出来るかもしれませんが、それは生きているといえるのでしょうか。

その一方、「人にできることをして行くこと」は、仄かながら生きる糧になることがある、と感じています。

 

生きている中で、あきらめることがあってもいいと思うのです。それも、うつくしい選択のひとつだと思います。

生きることはしんどいことです。その中で、少しでも、自分が心やすらぐことやものがあるのなら、それに心を向けて、他のことからは距離を取ってもいいと思うのです。

「自分に力はない、財力はない、地位はない、ということで(生きることと、この世界をあきらめたくなるけれど、)あきらめないで、その中でも人にできること(自分に対してできること、自分を褒めることなども含む)をして行くことで、神様の恵み(理解者との出会い)をいただくこと」ができるのかもしれません。

ーーーー

 

「”この世を去ることの方がはるかに望ましい”

フィリピの信徒への手紙1章21~23節(パウロとテモテが、フィリピの信徒へ書き送った手紙)

1:21 わたしにとっては、生きることはキリスト(平和を行うこと)であり、死ぬことは益である。

1:22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。

1:23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。」

 

この箇所を読んで、パウロにも希死念慮があったんだな、という、考えてみれば当たり前なことに気づきました。

僕は、希死念慮持ちは、タブー視されるべきことではないように思います。

上記のようにキリスト教でもこのように述べている箇所があり、仏教でも「四苦八苦」「一切皆苦」などの”生きることは苦しみ”という思想があります。

 

すべての人ではなくとも、多くの人が生きる意味に悩み、ひとりひとり考えているなら、みんなで落ち着いて、生きる意味について話し合うことには大きなメリットがあるのではないでしょうか。

僕のように、「悩み苦しみ悲しみを感じる人を減らしたい」ということに生きる価値を見出す人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。

 

人はそれぞれ違うものです。(キリスト教的言い方をするなら、違う賜物をいただいてるものです。)

それぞれに考え方と在り方があると思います。であれば、そのことに対して、誰かに「間違っている」「おかしい」と言われるいわれはないと思います。

 何より、生きるだけでも十分大変なのに、それ以上に何かを強制する権利が誰にあるでしょうか。

僕は、誰にもないと思います。

だからこそ、どのような形で生きていても、助け合い、繋がり合えるように、「多様性への寛容を持つコミュニティ」をひとつでもまもり、できるなら広げていきたいと思っています。

 

大言壮語ですし、僕自身にそのような”力”があるとは信じきれません。

だからこそ、主の御力に頼って、支えていただきながら、行けるところまで歩んでみようかな、と思うのです。

ーーーー

 

「コリントの信徒への手紙Ⅱ

4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 

祈り

悲しみのあるところに喜びを、闇のあるところにあなたの光を置かせてください。主よ、慰められるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。あなたの御力によって。父と子と聖霊に、感謝します。アーメン(そのようでありますように)。

"互いに平和に過ごしなさい” / ひきこもり新聞「動けなさへの配慮」

こんにちは。

今日は、テサロニケの信徒への手紙Ⅰから、第5章12~18節を引用します。

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先日、活動を応援したいと思い購入した「ひきこもり新聞」を読んでいたら、下記のような記事がありました。

 

動けなさへの配慮、不可能性を生きるワタシ | ひきこもり新聞

ひきこもり新聞 | すべての”ひきこもり系の人”のために から)

 

”動けなさへの配慮”

この言葉は、僕にとっても、共感する言葉でした。

僕自身も、今は何とかいろいろと活動を行なっていますが、ふとした時に、「ああ、もう何もできない。何をしても、それがなんだっていうんだ。」という虚無感を感じることがあります。だいたい、今は1,2週間に1度くらい。

この気持ちを僕は、ほとんど物心ついた時から持っており、自分の性質のひとつだと思っています。

 

その中で「ひきこもり新聞」の活動を応援したいと思う僕にとって、下記のツイートがたくさんの方に、今もリツイートされているのは、個人的にもとても嬉しいことです。

 

 

 

活動的に、いろんなことをする人がいます。反対に、じっと動かずにいろいろ考える人がいます。

なぜ今の社会は、前者が(お金をよく生むから)善で、後者が(お金をあまり生まないから)悪だとしているのでしょうか。

長い目で考えれば、前者が社会や人間全体に対して、取り返しもつかないような悪をしてきたこともあることは、自明ではないでしょうか。

長時間労働や、(パワハラモラハラなどの)道徳観の欠如、原発などの問題も、関わりのないことではないと思います。

 

もちろん、だから活動的な人が悪いというつもりはありません。

けれど、どちらにも価値の差はない、と言いたいのです。

 

上記したような社会の問題は、ひとりの力でどうこうできる問題ではないと思います。

しかし、ひとりひとりが問題意識を持って発信することで、変えていくことのできるものだと思います。(例えば、「ひきこもり新聞」など、自分が応援したいと思う支援活動にお金を払う、ブログやツイッターで自分の思いをコメントするなど)

問題意識の波及は、何よりも力のある行為だと思います。

ーーーー

 

「"互いに平和に過ごしなさい”

テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 第5章12~18節(使徒パウロがテサロニケにいる信徒たちへ出した手紙)

5:12
兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、
5:13
彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。
5:14
兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする(お願いする)。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15
だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
5:16
いつも喜んでいなさい。
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」

ーーーー

 

「5:14
兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする(お願いする)。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」

この部分の怠惰な者を戒め、という部分は、言葉として少し強く響いてしまうかもしれません。しかし、その後に、小心な者(心弱められている人)、弱い者(今の社会で虐げられてしまっている人)を助け、すべての人に寛容でありなさい、とあります。

つまり、「怠惰な者」というのは、「平和を生むための活動に対して」怠惰な者と考えられるのではないかと思います。

人に対してきつく当たったり、自分の思う通りにならないからといって人を罵ったり、(物理的、制度的)暴力を用いたりする人や、他者を軽蔑、侮辱、迫害する人、「平和を壊すこと」に対して、活動的な人のことを指しているのではないでしょうか。

 

「5:15
だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
5:16
いつも喜んでいなさい。
5:17
絶えず祈りなさい。」

 

ここは、現代に生きる僕たちは、テサロニケの信徒ではないので、命令のように聞こえてしまう部分かと思います。

けれど、「いつも喜んでいなさい」という言葉は、しんどいとき、つらいときにも無理やり笑ったり陽気に話したりして喜びを表せ、という意味ではないと僕は、思います。

悲しみや辛さの中にあっても、人が寄り添ってくれることで感じられる喜びというものもあると思います。それは、ニコニコ笑ったり、陽気に楽しく喋ったりする類のものではなくとも、「喜び」のひとつの形だと思います。

 

「喜び」とは、人が、人の心に寄り添うことで生まれるものなのではないかと思います。楽しい気持ちの人がいたら一緒に楽しみ、悲しい気持ちの人がいたらその悲しいという気持ちに寄り添えるよう取り組もうとすることで生まれるもの。

 

たくさんの人が、それぞれの人の心に寄り添うことができるように、「5:15 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。」と書かれているのではないでしょうか。

 

また、人間は、自分の思いと言葉と行動、そこから波及していく他者への影響について、全てを自分の意のままにすることは”不可能”です。

だから、自分が、皆が、常に実行することは不可能であっても、できるだけいつも、「5:14 すべての人に対して寛容で」あることができるように(キリスト教的表現で言うと、”神の御心に沿えるよう”に)「5:17 絶えず祈りなさい。」とされているのではないか、と僕は思います。

祈りというのは、下の記事の後半にも書いたように、僕にとって、「親愛が、自分にとって何よりも尊いものである」ことを確かめるものでもあります。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

今日の引用箇所は、

「5:18 これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」と締められています。

僕は、「これ」とされている中でも軸として大切なのは、

「5:13 互に平和に過ごしなさい。」

「5:14 小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」

なのではないか、と思っています。

 

すべての人、つまり「多様性に寛容」であることは、「人と人との暖かい繋がり(親愛や平和、心の安らぎとされるもの)」を価値基準の第一番目として置けば、あらゆる人の利益となることだと思います。どうかそのために「絶えず祈る」人が増えることを、絶えず祈っています。

 

 

dedicate to lady S.B.

 

”人々の心を励まし、愛によって結び合ってほしい” / ”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”

こんにちは。

今日は、今日の聖書通読(日課的に聖書を読み進めること)箇所から、コロサイの信徒への手紙を引用します。

 

今回は、キリスト者に大切とされている姿勢について、僕の理解している範囲で書こうと思います。それから、僕自身のことも。

僕は、これから述べることに取り組んでいない方は、キリスト者の在り方としてどうなのか、と感じます。

つまり、牧師、神父、クリスチャン、教会に通っている人々でも、これから述べることについて、少しでも思いに留めていないなら、それは果たしてあるべき姿なのか、という疑問です。

 

ーーーー

 

「”人々の心を励まし、愛によって結び合ってほしい”
コロサイの信徒への手紙 第2章1、2節(使徒パウロがコロサイの信徒へ送った手紙)

2:1
わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。
2:2
それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。」

ーーーー

 

パウロは、自身の弟子として慕ってくれている人々と、自分ががんばって建てた教会があるラオデキアと、また、”会ったことがない人々(つまり自分が会っていない全ての人々)”のために、牢屋の中から必死で祈っている、と書き送りました。

それは、全ての人々が、心を励まされ、お互いを(理解し)励まし合い、愛(平和への思い)によって結び合わされることを祈ってのことでした。

 

「何を綺麗事を...」と思われる方もいるかもしれません。

実際、僕が似たようなことを学校の付き合いなどで言った時、「もっと現実的なこと言えよ」という反応をされたことがあります。

 

しかし、

「現実」とは何でしょうか。

私は、「今の社会」のことを指していると理解しています。

 

「社会」はどうやって形作られているでしょうか。

「人間が集まることによって」だと思います。

 

であれば、「綺麗事(理想的な社会)」は、大多数が実行しようとすれば可能なのではないでしょうか。

「現実(理想的ではない社会)」を、変えることのできないものと諦めから断定して、「綺麗事(理想的な社会)」を否定する行為に、意味はあるのでしょうか。

 

もちろん、社会の在り方を変えることは、一朝一夕で成るものではないと思います。

それでも、様々な環境、状況から、悩み悲しさ辛さに苦しむ人々を放っておくことは、いずれ全ての人々が苦しむことになる布石だと思います。

なぜなら、今苦しみの中にいない人が、今苦しんでいる人の側に移動することは、時の運や一瞬の偶然によって、いくらでもあり得ることだと思うからです。

であれば、全ての人々がお互いに励まし合い、「優しさを持って接する」ことができる社会を目指し、大目標、中目標、小目標を持って歩んでいくべきではないでしょうか。

 

(例)

大目標

全ての人が心から笑うことができる社会

中目標

自殺者、経済的困難を患う人、遺児・孤児、精神的な苦しみを患う人などへ向けた活動+現在、社会的マイノリティとされている人々への理解・寛容を社会全体で育む

小目標

目の前の人に優しく接する。(コンビニで何か買ったら笑顔でありがとうと言う、道を譲る、相手の気持ちを考える想像力を鍛える(もし自分がこの人だったら、今自分がしているように接されたらどう思うだろう、など))

(自分が、できるだけ多くの人に暖かく接することで「優しさの連鎖」を起こすことは、自分や、自分の大切な人が、その連鎖反応にあずかる可能性が高くなる、ということだと思います。)

 

僕は、相手が誰であろうと、どんな立場であろうと「優しさを持って接すること」が、「神があなたを愛されたように隣人を愛しなさい」というみ言葉を受けたキリスト者の在り方なのかな、と思っています。(もちろん、人間ですから、常にそうあることは難しいですが、そう取り組もうとする在り方)

明らかに違う人(人を軽蔑、侮辱、断罪するなど)からは、キリスト者であるかどうかに関わらず、あなたの心のために、距離を置くことをおすすめします。

ーーーー

 

「”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”
コロサイの信徒への手紙第3章12~14節
3:12
だから、あなたがた(全人類)は、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13
互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
3:14
これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」

ーーーー

キリスト教の価値観では、神に愛されている人とは、全ての人、全人類のことを指します。

以前どこかで、クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、「当選の宝くじを換金しているかしていないかの違い」だ、と仰っているコラムを読んだことがあります。

つまり、全ての人は既に愛されているが、「それに積極的に応えているかいないか」の違いだということです。

 

といっても、そんなことを急に言われても...という方も多いと思います。

僕も、心がほとんど限界にきて、今の教会での礼拝を受けるまでは、同じような思いも持っていました。(礼拝自体は別の場所で幾度も参加していましたが。)

 

僕は、僕の理解で言うなら、(幾分アニミズム的ではあるかと思いますが、)

神を通して、種々に祈ることで与えられる「安らぎ」、

人と人の暖かい繋がりから生ずる、涙さえするような「喜び」や、

自然の美しさが胸に染み入る時の「感動」、

時間や空間を超えて、聴いた人々の心と想いをひとつにしてしまうような音楽に出会った時の浮き立つような「楽しさ」など、

それらの「うつくしさ」が神からの愛の一部なのではないかと思っています。

 

もちろん、自然は牙をむくこともあります。

しかし、それは「死ぬこと」を絶対悪、絶対にあってはならないことと置いているから、ということもあるかもしれません。

僕も苦しいのや痛いのはいやです。

ですが、死ぬのはいやではありません。

 

なぜなら、以前にも書きましたが、「死ぬことで(生きる苦しみから解放され)想いとして生きる」と思うからです。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

この価値観は、合わない方も多いと思います。僕もなかなか普段の会話では言えないことのひとつです。

しかし上記の記事のように考えると、僕にとっては、死ぬことも「うつくしい」ことのひとつとして感じられるのです。

 

とはいっても、兄を亡くしている僕は、死別の悲しさも幾分わかります。

だから、「兄や僕が死にたくなるような社会」を「誰もが楽しく生活し、まあ死んでしまっても周りのみんなが地上で、平和への想いを引き継いでいってくれるよ、と思えるような社会」にしていきたい。

僕が生きる理由は、上記の想いと、「僕に繋がる、心から大切だと思える人たちを悲しませたくない」という二つに尽きます。

 

そして、誰もが心から笑うことができる社会へ舵取りをすることと、死んでも想いとして生きるために、”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”であり、ゆるし合い、その上に愛(平和への想い)を忘れずに在ることが、大切なのではないかと、思っています。

 

 

祈り

僕の想いをあなたへ捧げます。主よ、私はまだここにいます。私にできることを、私が為し、あなたの御心に沿えるように、どうぞ共に歩んで、導いてください。私と一緒に、居てください。アーメン(そのとおりでありますように)。