現代日本で聖書を読む意味

希死念慮持ち。内容は個人的解釈です。気持ちに余裕がある時に更新します。

生き方、話し方、歩み方 / ツイッター備忘録

 

自分を愛し、人を愛す。

目の前の一人を大切に。

ゆるく楽しく温かく生きる。

しみ@shimi_yurutabi

 

 

「自分の弱さを相手に打ち明けることは、信頼関係を築くための通過儀礼ですよ」

れん@ren_hi_chan

 

何かを他人に強制することの恐ろしさがそこら中にあって、そこに無自覚の人の言葉は基本益がないように感じる。「あなたはそう考えるんですね、僕はそうではないです」と言っても強制してくるようなら対話ができない。

羊@Sheltie_s_sheep

 

しんどいと能力落ちるなぁ。けどそれを無理に保つのは自壊の道だからほどほどに。

羊@Sheltie_s_sheep

 

 

 

 

俺「母に言わせると私、苦労が足りないって。わかるんですよ。20歳で男と離婚して女手一つで子どもを育てた人なんで…」

カウンセラー「そんなん、オカンが勝手にセックスして勝手に苦労しただけじゃん」

切れ味抜群かよ。

チンコ見せろ妖怪@iroha1966

 

わたし自分の身に起きてよっくわかったんだけどさ。

「自分はまだいける」「自分は大丈夫、折れてない」こういうワードを考えるようになったらもう危険水域に方まで突っ込んでる状態だからね! 人生は長いんだからおぼれ死ぬ前に、自分のサインに素直になろう。

シン・ハルコ@tamalovepoaro

 

コレ割とまじめに思う。私はこういうワードを繰り返した結果ダメになったから、こういう言葉のドーピングを繰り返してる人は1回切り離す、っていうのも必要な自己救済だと思うんだ。

シン・ハルコ@tamalovepoaro

 

悩むのも不安になることも当たり前のこと、弱さも、淋しさも、全部それでいいのだと思う。元気な時に「このままで行こう」と思うことは簡単だけど、元気のない時も、元気のないままで「このままで行こう」と生きる姿勢が、自分の中心を生きる芯になる。どんな時も、自分を責めてはいけないのだと思う。

坂爪圭吾@KeigoSakatsume

 

お金を使うこと以外にストレスを解消する方法を大人になるまでに見つけられたらすごく心強いと思う、お金のない学生時代にしておきたかったことのひとつです。

sleep@sleep111

 

これが誰にとっても最も良い、理想的だなんてものは、ない

羊@Sheltie_s_sheep

 

 

将来の夢は?

と聞くと大抵の日本人は職業の話をする。

アメリカ人に将来の夢は?

と聞くとどんな人生を歩みたいか話す。

日本人は人生の手段の話しをして

アメリカ人は人生の目的の話しをする。

この差はすごく大きい。

だーまん@旅好き@7DAMAN7

 

 

 祈り

あなたがともに居る安らぎを。

洗礼、信仰とは何か/ ”語るにおそく、怒るにおそく”

こんにちは。

今回は、洗礼、信仰について考えたいと思います。

先日参加した青年キャンプの集いで、人々の考え方や在り方の多様さを改めて感じました。また、身近な人に洗礼について考える機会をいただいたこともあって、このテーマにしました。

多様な論説のある部分であり、圧倒的な知識不足ではあると思うのですが、今の自分の考えを書き留めます。

今回は、ルカによる福音書10章29~36節、ヤコブの手紙ヤコブの手紙1章19~27節、ヨハネの第一の手紙3章17節、4章20節を引用します。

 

 

まず、なぜ洗礼をテーマとして扱おうとしたのかと言いますと、「洗礼を受けたらそれによって、その時点で救われる」という理解をしている人が、キリスト教にあまり触れていない人、また触れている人でも、多いように感じるからです。

僕はそうは思っておらず、「洗礼」というのは、「行い」を伴ってはじめて意義深くなると思っています。

 

この「行い」について示しているのは、「善きサマリア人」としても知られる、以下の箇所だと考えています。

 

「”信仰は行いによって”

新約聖書ルカによる福音書10章29~36節

10:29
すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
10:30
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
10:31
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
10:32
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
10:33
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
10:34
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
10:36
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」」

 

ここで、はじめにイエスに質問しているのは律法学者です。ユダヤ教の律法を管理する社会的地位の高い人々でした。(注釈:イエス・キリストユダヤ教徒として生き、死んだ、と考えられています。)

また、祭司はユダヤ教祭司です。

そして、レビ人もまた、ユダヤ教神殿の管理をしている部族でした。

しかし反対に、サマリア人は、当時異教を信じているとして迫害されていた社会的地位の低い人々でした。

しかし、ここの例えでは、最も信仰に近いはずの祭司やレビ人ではなく、サマリア人が最も高くされた者として扱われています。

つまり、行いを伴わなければ、どのような肩書があったとしても、価値があるとはされない、ということではないでしょうか。

 

この事を現代に当てはめると、~~教徒であろうとなかろうと、自分自身と他者を大切にし、相手を思いやることのできる人が、善き人とされるといえると思います。

 

キリスト教だろうと、他宗教だろうと、無宗教だろうと、人と人が共に生きていくためには、それぞれの人間が、お互いの「思い(考え方)と行い(行動)」を偏見・差別することなく受け止め、相互理解しようとすることが、大切だと感じます。

 

僕は「キリスト教における洗礼」は、「教会(信徒の集まり)に繋がる儀式」であるとともに、「「信仰にもとづいた行いをしていきます」という”形の上”での信仰告白」だと思っています。

つまり、「洗礼」を受ければそれで全てが解決するのではなく、「思いと行いを伴って」、「生きるとはなにかを考え続け、試行錯誤し、実践し続けて」はじめて、信仰として生きてくるのだと考えています。

 

 

ヤコブの手紙1章26節の箇所にも、「行いをともなわない信仰は死んだもの」だとする箇所があります。

 

「”他者や自分の心を傷つけることは不信仰”

ヤコブの手紙1章26節
1:26

もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。」

 

僕もそのようであると思います。

また、上に記した、「善きサマリア人」の教えは、以下のような箇所にも表されていると感じます。

 

「"人を大切に思わない言葉と行いは不誠実”

ヨハネの第一の手紙3章17節

3:17
世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」

ヨハネの第一の手紙4章20節

4:20
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」

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 ヤコブの手紙1章19~27節を引用します。

「”語るにおそく、怒るにおそく”

ヤコブの手紙1章19~27節

1:19

愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

1:20

人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

1:21

だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(平和への想い)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

1:22

そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

1:23

おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。

1:24

彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

1:25

これに反して、完全な自由の律法(自分を愛し隣人を愛せ)を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

1:26

もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。

1:27

父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

 

僕はこの箇所の「御言(みことば)」という言葉を、「平和に向かう想い・言葉・行い」だと考えています。

そして「平和に向かう想い・言葉・行い」とは、「自分の価値観をしっかり大切にした上で、他者の価値観を受けとめ、互いを尊重して話すこと・動くこと」だと思っています。

 

これは、言うのはすごく簡単ですが、完全に実践することは不可能だと、僕は思っています。

なぜなら、自分の価値観・考え方・心を100%理解することは不可能だと思いますし、その十分には理解できていない「自分の心」を通して見る、「他者の価値観・考え方・心」に対する理解も、(どれだけその人に向き合い、長い時間を過ごし、話を聞いたとしても)不十分なものであると思うからです。

 

だからといって、他者を理解することを放棄していては、コミュニティ(”社会”もそのひとつ)は崩壊してしまいます。

自分や他者を100%理解することは不可能であっても、理解に近づくことは可能だと思います。

 

そのためには「多様性への寛容」という姿勢が大切だと思っています。

「相手の考えを否定しないこと」

「話し合いをしているときにお互いが感情的にならないよう努力すること」

「相手の人種・性別・文化その他あらゆる違いに対して偏見・差別をもって見ないこと」

「他者の多様性を理解するために、まず自分がどういった価値観であるか理解するよう努め続けること

(自分にとって生きる上で何が大切か、何に精神的負荷を感じるか、など。それらを理解することで、多様な価値観が存在する世界の中で、自分の立ち位置をある程度測り、客観的視点(他者の価値観への理解)を獲得しやすくなると思います。)。」

 

上記したもの以外にも、大切なことはきっとたくさんあると思います。

けれど、「自分の価値観をしっかり大切にした上で、他者の価値観を受けとめ、互いを尊重して話すこと・動く事」の具体的なむずかしさについて、書きたくて、一例として挙げました。

 

今の社会は、一時的であれ慢性的であれ、心弱められた人の存在を見ないように見ないように、必死でしている(してきた)ような気がします。

けれど、人と人は、助け合った方が生きやすいんではないでしょうか。

心弱められた人を見ないようにした結果が、自殺大国の称号であり、また、内面について語り合う場が極端に少ない環境をつくりだしてしまったのではないでしょうか。

 

僕は、宗教であろうとなかろうと、(すべての人が、人生においておそらく一度以上味わう)心弱められる出来事・現象があったとき、安心して集い、自分の心の内(本音)について話すことができる場がもっと増えたらいいなと思っています。

 

toianna.hatenablog.com

 

 

www.nikkansports.com

 

こういった記事を読んでいますと、何が「善い」のか、考えさせられます。

けれど僕は、少なくとも、価値ある指標は「人の心」であって、「金銭」ではないと思うのです。

 

okite.hatenadiary.jp

 

行いを伴う信仰を。

行いを伴う生き方を。

 

 

祈り

思いと言葉と行いをすべて「善い(自分の心、他者の心を大切にする)」とされるようにすることは、とてもできないと思います。それでも、自分自身を、他者を、否定することができるだけ少なく、生きていけるようにさせていただけますように。見えるもの(金銭など)ではなく、見えないもの(人の心、人との繋がり)に目を注げますように。あなたによって慰められ、慰められるよりも慰めるものであれますように。

生き方、子を持つことについて / ツイッター備忘録

こんにちは。

少し間が開いた更新になってしまいました。

教会関係の集まりに2泊3日で参加していました。

 

今回も、ツイッターからの引用なのですが、また明日からはもう少し分量のある内容の記事を書いていけたらな、と思います。

 

 

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チラッとキモくて金の無いおっさん話が出たので、ついでに。俺は自分のことをそれなりに社会的弱者だと思ってるけど。自分よりしんどい思いをしながら日々生きてる人も当然居るだろうことも想像はしている。

で、その中で「世の中にはもっと辛い思いをしている人が居るんだから、俺なんて」みたいな考え方には意味が無い、と思っている。俺が自分のことを「弱者」と思っていて、時折「虐げられている」と感じていることに嘘はないからだ。そこを自分で否定する必要は無い。

しんどみ、境遇の困難さを相対的に判断して「自分は大したことない」と結論付けると言うことは、自分から見て『相対的に自分より楽な境遇だと感じた相手』を軽んじることになるからだ。俺には俺ののっぴきならない苦労が、その人にはその人の如何ともしがたい苦労がある。

皆しんどいのだ。それを「お前は男だから」「女だから」「お前はモテだから」「リア充だから」「既婚者だから」「お前は白人だから」「高額納税者だから」と相対ランクを付けて、相手のしんどみを否定することには意味が無い。

そう言う相対的しんどみランキングに相手を乗っけた時点で、自分も別の誰かにランキングに乗せられて、己の代え難いしんどさを「お前の苦労などたかが知れている」と否定されることになる。どんな状況の者だろうと上には上が居るし、下には下が居るのだから。

「俺はキモくて金の無いおっさんだから辛いし、あんたは女だから辛い。お互い、もっと生き易い世の中になったらいいですね。作っていけたらいいですね」くらいのスタンスをね、大事にしていきたい。自分の苦しみは自分だけのものなんだから。だからこそ、他人の苦しみも尊重しないと。

猫柳墓場@NM_amidaさん

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いくつもの暖かい出会いに感謝します。

今悩み苦しみ悲しみを抱えている人のもとに、安らぎと慈しみがありますように。 

 

 

 

生きる速度、映画「沈黙」を見て / ツイッター備忘録

 こんにちは。

 

今日は、twitterから、僕のツイートとリツイートを少しだけ記そうと思います。

 

 

本来、自立というのは、自分のために手をかけてもらった、本当に心から安心してくつろげる場所がある、という気持ちをしっかり持てたときにできるのです。安心できる場所、くつろげる場所というのは、そういう居場所を用意してくれる人との安心できる関係が根本にあるということです。

佐々木正美さん名言集@sasakimasamibot

 

今のあなたがしなければいけないのは、偽りの自分も本当の自分も、どれも自分なのだと認める事です。駄目な自分を許し、愛することです。生きることは罪を重ねることだと言います。失敗のない人はいません。欠点のない人はいません。自分をあまり厳しく採点しないことです。

原敬bot@kiiroitori2014

 

がんばってやらないと...!とか急いで努力しないと...!ってなった時は、「どうせ死ぬまでの暇つぶしなんだから、心地よい速度でゆっくりやろう」と思い直す。

羊@Sheltie_s_sheep

 

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以下「沈黙(サイレンス)」を見て、感想。

 

沈黙見た。他にいい言い方が思いつかないが、形に拘りすぎることも愚かだし、他者の考えを捻じ曲げようとするのも愚かだと感じた。言葉も行動も、何をしても何を言っても、必ず間違いが起こるなら、それぞれに信ずる思いと、相互理解の姿勢を持っていれば、それがよいんでないかな...。

 

→信ずる思いっていうのは、今宗教とされているものだけじゃなくて、親友とか、大切だと感じる思い、こう在りたいっていうものも含めて。

羊@Sheltie_s_sheep

 

 

安らぎと慈しみがあることを祈って。

May keep my and your heart calm.

 

すべて、疲れた人、 重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。 (マタイ 11章28節)

引用:「彼女は『死にたいと思ってた』って言ってるわけでしょ。そういう人に『仕事の責任を取っていないからやめるな』というのは、俺はちょっと違うと思う」

清水富美加への「仕事放棄」批判に異論 伊集院光「『死にたい』と言っている人に...」”
https://t.co/1RFXqogWwJ
headlines.yahoo.co.jp

こんにちは。

今日は心が疲れているので、み言葉を覚えるだけにさせてください。



すべて、疲れた人、 重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。

(マタイ 11章28節)



恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

イザヤ書41章10節より)


わたしの目には、あなたは高価で尊い。

わたしはあなたを愛している。

イザヤ書43章4節より)


兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、 尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

(ローマ人への手紙 12章10節)
互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、 かえって身分の低い者に順応しなさい。

自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

(ローマ人への手紙 12章16節)


みなさまのもとに、安らぎと慈しみがありますように。

”あなたがたは消えゆく霧” ヤコブの手紙4:13-14 / ”人を分け隔てしてはならない” 2:1-9 / ”行いを欠く信仰は、死んだもの” 2:14-17 / ”舌は「不義の世界」” 3:5-6

こんにちは。

今日は、新約聖書ヤコブの手紙から引用します。

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「”あなたがたは消えゆく霧”

ヤコブの手紙4章13、14節

4:13
よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
4:14
あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」

 

 

今日のこの箇所は、比較的理解しやすい箇所だと感じます。

明日以降の予定を立てるな、ということではないと思いますが、

僕たちは皆、明日生きているかどうかわからない身です。

 

最近、若い方が亡くなったニュースがいくつかありました。

 

www.msn.com

 

www.asahi.com

 

 

togetter.com

 

明日、どうなるかわからぬ身なら、今、自分の心と身体を大切にし、自らの心の声に耳を傾けることが重要なのではないでしょうか。

 

この国では、大震災の死者を軽く越える人数が毎年、自ら命を絶っていると言われています。

 

そのことに対して、なにかできることがあるとするならば、”分け隔てしない”、”多様性に寛容になる”ということくらいではないでしょうか。

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「”人を分け隔てしてはならない”

ヤコブの手紙2章1節から9節

2:1
わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
2:2
たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。
2:3
その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、
2:4
あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
2:5
愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。
2:6
しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。
2:7
あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。
2:8
しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
2:9
しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。」

 

上記箇所を、要約するなら、

物質的、精神的に富む人にも、貧しい人にも、分け隔てなく、”まず自分で自分を大切にできるようにし、またそのように他者にも接しなさい”ということだと思います。

 

社会の構成要素が多様な人々の集合体であることを理解し、それぞれ多様な性質を持つ人々ひとりひとりが、お互いに尊重し合えるよう社会を目指すべきではないでしょうか。

たとえそれが綺麗事(理想的すぎること)でも、なにかを行うことと、行わないことには、大きな隔絶があると思います。

それは、どのような人でも、自分と、自分の大切なひと、またそれに繋がる人々が平和に暮らすために、変わりない目標なのではないかと思います。

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「”行いを欠く信仰は、死んだもの”

ヤコブの手紙2章14節から17節

2:14
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:15
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

2:17
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」

 

信仰者であっても、そうでなくても、”消えゆく”ときに、自分を振り返って、どう感じるのか、考えてみることは無価値なことではないと思います。

就職活動などで人気の自己分析ではないですが、自分の主要な価値観、「自分が死ぬ時ときに、これを行っていれば後悔しないのではないか」、「自分が一週間後死ぬとしても、今していることをし続けるだろう」と思えることを、何年も、何十年もかけて探していくのが、生きていくということなのではないでしょうか。

 

その中にあって、自分の本心と異なる価値観を押し付けられ続けてしまうと、人の心の寿命は簡単に尽きます。

そういった時には、逃げること、休むことだって、立派に”生きること”だと思います。

返って、「自分にとって本当に何が大切な価値観か」に目を向けず、”生きて、死んでいく自分”について考えることから逃げている人の方が、身体は生きていても死んでいるのと同じではないか、というふうにも思ったりもします。(少し前の自分がそうだったので...。ただ、このように思わない、という方は、それも含めあなたの大切な価値観なのだと思います。)

 

ことほど左様に、人の価値観というのは多様なものだと感じます。

 

そして、下の14歳の少年の件などのように、

他者の価値観を圧し潰し、人の心を死に追いやることができるのが”言葉”です。

www.asahi.com

ーーーー

 

「”舌は「不義の世界」”

ヤコブの手紙3章5、6節

3:5
それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
3:6
舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」

 

自殺は、望まれるものではないと、僕は思います。

本人が本当に世を去ること以外を望んでいないなら、その本人の意思を尊重するべきだ、という状況もあるかと思いますが、日本で毎年亡くなっている何万人・十何万人もの方の大部分は、「その人に何の肩書がなくても寄り添う人がひとりいれば」、「生活手段を支え受け入れる場があれば」、「”寄り添う言葉と思いが届き人と暖かく繋がれれば”」、生きていたかった人だったのかもしれません。

ほんとうのところはどうかわかりません。

それでも、そういった場をつくる必要性は、宗教が根差しておらず、内面について語り合う機会の少ない日本だからこそ、より強く感じるのです。

 

そういった場があれば、誰かを救えたかもしれない、などという傲慢なことは思えません。

けれどもし、そういう場があることで、少しでも心を軽く生きられる人が増えることがあるなら、僥倖だと思うのです。

 

そして、”場”をつくることは誰にでもできます。

ある人が、その日を生きるのに必要なモノや気力を持っていない場合、「自己責任だ」「関係ないことだ」と言わず、相手の視点を想像し、言葉と思いによって寄り添おうと取り組むこと。

まったく関係ない人相手でなくとも、今自分と繋がりのある人、身近な人に対して、少なくとも「不義の世界」をつくらないように、相手の心に寄り添えるように、思いと言葉と行いに注意を払うこと。

 

それが、場つくりなのかな、と感じています。

 

そして、僕自身、「行いを欠く信仰は、死んだもの」であることに、思いを留めていられれば、と祈っています。

 

死について、前向きでも後ろ向きでもなく、考える / 「死をどう生きたか」から、一部書評

こんにちは。
前の記事で引用した「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」の高橋敏雄さんのお話から、僕が感じ、考えた所感を書いていきたいと思います。


(以下「」内は、「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」110頁以降から引用)
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「いや、これは真剣で、真面目な質問なんだよ。近頃考えているのだけれど、人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。とくに、これこれと話をしたわけでないが、毎日の生活を見ていると、明るくて、なにかに支えられて、だれかといっしょにたのしんで仕事をやっているように見えるよ。なにごとにも耐えてゆけそうなところなど、うらやましいほどだ。僕にもすこしわけてもらいたいと思うよ」

なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」
ーーーー

この部分で高橋さんは、「人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。」と仰っています。

生きる目的。
僕はそれは、死に際して、
”生きている間、自分にとってできるだけのことはやれたのではないか。もともと人間にできることなんて一切何もないのに、それでもあのことは、私にとって唯一、神の御前にあっても誇れることだといえるかな。私の心を支え、生涯共に歩んでくださった方に、諫められることもきっと多いだろうけど、それでもあのことは、喜んでいただけるだろう。”
と思って死ねることなのではないか、と思っています。
神や、人知を超えた存在に、会えることや、救われることが大切なのではなく、そう”思える”ことが、僕にとっては大切なのだと感じています。


人間が、他者の心を100%わかることはあり得ないと感じます。
自分が相手にかけた言葉ひとつ取っても、その言葉が相手にどのように受け止められ、救いとなるか悲しみとなるか、そんなことさえ、人間にはわからないのだと思います。
その時の相手の心の状態、周りの環境、心身の状況、それら全てを鑑みて、行動し、発言できるなら、それはもう人間の能力を超えていると思います。

人間は、他者の気持ち、心を完全に理解することはできません。
つまり、自分が相手を思って言った言葉、相手を罵倒しようとして放った言葉、それらが、真反対に作用することだってあります。
結局、自分の心も他者の心も完全に理解することができない”人間”が、真に理解できることなんて、何もないのだと思います。
科学でも、道徳でも、物質でも、物質以外のものでも。

僕たちは、自分の持つ考え・価値観(心の一部)によって世界を見ています。
その考え・価値観を根底から支える”心それ自体”がはっきりとわからない以上、何かをわかったつもりになっても、それはその時”わかったつもりになっている”それ以上でも以下でもないのだと思います。


人間に、完全に理解できることなんて何もない。
しかしそれでも、理解しようとして、理解に近づくことはできると思います。

そして、人は人に、理解しようとしてもらいたい、と思う生物ではないでしょうか。


なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」

桑原さんのこの言葉は、
”人間には、なにもわからないけれど、絶対的な力がある、と信じて、人知を越えた方の平和を信じて、自分にできることをさせていただこうと、自分のすべてを、自分が信ずる方の御手に委ねている”
ということを意味しているのではないか、と思うのです。
だから彼女は、毎日の生活にあって、心の中でだれかに支えられて、だれかといっしょに、毎日をすごせていたのではないでしょうか。



私たちには、なにもわからない。
けれども、なにもわからないままで生きていくことなんて、とてもつらくてかなしくて、苦しくて、むつかしいことだと感じます。
だから、心の平和に通ずる、自然や、人と人との暖かい繋がりなどから感じることのできる、”人知を越えたなにか”を信じて、自らを委ね、平和に向かって1ミリでも2ミリでも、何かすることができたら、と僕は思うのです。桑原さんも似たお気持ちだったのかな、とここを読みながら感じました。


「はい、私ではなにもできませんが、ごいっしょに聖書をすこしずつお読みいたしましょう」

この部分にも、人間存在の絶対的な無力性について、述べられていると感じました。
”私ではなにもできませんが”、それでも導き・巡り会わせ・御力によって、あなたの心に寄り添うことができたら、それは天の宝(人と人との暖かい繋がり / treasures on high)になるかもしれないと、信じたく思うのです。
ーーーー

「桑ちゃん、おれはこのごろとても淋しいんだ。なんともいいようがないが、とても淋しくて不安だ。いてもたってもいられない気持だよ。ひょっとすると、僕は気がくるうかもしれないよ、どうにかして生きている意義を知りたい。いま死ということに真剣にとりくむ必要を感じだしたんだ。どうしたらよいのか、どうしたら神を知ることができるのだろう。このあいだから思っているのだが、人間の業とはなんだろうか。あきらめというか、悟りという言葉を正確に自分のものにしたいから、しらべてみてくれたまえ。なんとかしてこの不安な気持からぬけだしたい。もし病気で死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ


ここで高橋さんが仰られていることを僕は、振り返ってみれば物心ついたときから、ぼんやりとではありますが意識していました。

生きることとはなにか。
考えずにはいられないけれど、それについて考え続けることは、無限の寂寥感と対峙することでした。
本当に、気が狂ってもおかしくない、といいますか、気が狂ってしまったほうが楽なのではないか、と思うことは、今もたびたびあります。

死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ

確固とした”生きる意義”となるもの(感動や心の暖かさを感じることと、同義の部分もあるかもしれません)は、
目に見えるもの、人間に理解できると感じられるものにはない、と思うのです。

僕は、なんらかの導き・巡り会わせ(偶然とも呼ばれているもの)のちからを近くに感じることによって、今の道を選ぶことができ、生きつづけることに、多少の意味を見いだせるようになりました。
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「私は何のために生まれて生活して来たのだろうか。こうして静かに、過ごして来た人生を思い出してみると、みんな利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しいよ。生涯を顧みて、これといって何一つよいことは出来なかった。」


何のために生まれて生活してきたのか、と感じることは、ほとんど僕の常といってもよいことです。
何か楽しいことや嬉しいことがあったとき、確かに喜ぶ自分がいます。しかし、それは一過性のものであって、ひとりになったり、つかれたりすると、”生きていく必要は、どこにあるんだろうか”と、切なさと寂寥感に包まれることがたびたびあります。

僕は、死ぬことは、安らぎと近似の事象だ、と思う価値観を持っています。(キリスト教的に言いますと、死は御許に帰る故に安らぎであると考えられています。けれど、僕はキリスト教に触れる前から、生きるつらさゆえに死は安らぎと近似だ、と感じていました。)
しかしそれでも、死ぬに際して、できれば「利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しい」ではなく、”自分に与えられたことに、ひとつでもふたつでも応えることができた”と感じて死ぬことができたらな、と今の道を知ってから、思うようになりました。
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「いろいろ考えると、自分の生きているのが申訳ないのだよ。多くの人のぎせいによって、今の私は生かされているのだから、そのことから考えても、真実を探り出して、より正しく生きねば皆に申しわけないのだよ。」


僕は今日もこうして、電車に乗り、帰って、屋根のある家で暖かいご飯を食べて、暖かい布団で眠ることができます。
けれど、そうではない、理不尽な暴力や圧力に苦しみ続けている人も多くいます。

そのすべてに寄り添うことは、不可能です。
けれど、僕の人生において、ひとりでも、”あなたが居てくれてよかった”と言っていただくような、僥倖中の僥倖があれば、僕もまた、生きていたことはその時点では無駄ではなかったのかもしれない、と感じられると思うのです。
そういうことを続けていけるか、うまくいくかはわかりません。けれど、その為のみに、生きていてもよいかもしれないなと、今は思っています。
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「今迄は仕事がいそがしくて、庭の木々や草花に目をくばる心の余裕がなかったけれど、病気をしてとくしたことのひとつは草花の美しさを通して、そのたくましい生命力にはげまされ、おどろかされ、人間の力の及ばぬ世界があることを教えられ、花を見ながら、よろこびが溢れるのを覚えることですよ。」

理解できないものが多いが、私が知らない大きな世界がいくらでも広がっている。私が知らなかっただけで、自分を超えた大きな力がいくらでも広がっている。なぜもっと早く心を開かなかったのだろうかと思い残念でたまらないよ」


僕は、自然や音楽、自分の内面、神様に向き合うとき、死の求心力から少し距離を置くことができます。
考えてみると、自分は何のために生きて来たのか」という思いから少し距離を置くことができます。

そして自分の内面や意識、価値観や考え方などに、しっかりと向き合い、少しだけ自分について理解した上で、自分の心を他者に開き、恵まれて”人と人との暖かい繋がり”を感じることができたとき、「よかったよかった。こんな良い日を迎える事が出来て、やっぱり生きていてよかった。」という思いが、僅かながら湧いてきます。

今の道を志してから、そのように自分の内面の声を聞くことで、上記のような想いを感じられることが格段に増えました。
これまでは自分が、希死念慮を併せ持つ自分の心に真剣に向き合うことから逃げていたので、当たり前と言えば当たり前なのですが。

僕には、特になにもできることはありません。
けれどふたつのこと、自分と似た苦しみを覚える人に寄り添う努力をすることと、場を作る努力をすることは、(常に全力で取り組むことはきっと不可能ですが)、生きていく上で唯一、主(絶対的ななにかの存在)の御力に縋っておこなってみたいと思えることです。
生きていく上、生きていく目的に取り組む上で、まず自分の心と身体を護ること、それから、他者に平和の御旨を為せるよう考えて、思いと言葉と行いに注意を払うことが、僕にとって大切なことだと感じています。

人にはそれぞれ、”これが大切だ”と思えるものが、たとえ気づいていなくとも、なにかあるのではないかと感じています。
それは、それぞれ多様に、大切なものです。
けれどもそれが、平和(和合)を壊す要素をはらんでいるかどうかについて、ちょっとだけでも、想いを馳せてくださる方が増え、それぞれの人が、それぞれに大切なものを抱き、尊重し合いながら生きてゆける社会に、一歩でも二歩でも、近づいていくことを、心から祈りつつ、動けるときに動いていきたい、と思っています。

「”高橋さんが受洗されたときに読まれた箇所”
ヨハネによる福音書第三章十六節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

死ぬときに、自分はどう感じるのかを想像し、その際後悔しないように生きることは、すべての人にとって主要な命題ではないでしょうか。
自分自身にとって大切な価値観はなにか、真剣に考え続ける必要を感じています。




祈り
多様な心を持つ人々ひとりひとりが、理不尽な悩み苦しみ悲しみを感じることなく、お互いに尊敬し合いながら生きていくことができますように。私自身のためにもお祈りします。アーメン(そのようでありますように)