死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

悲しいのは人が死ぬ時だけで十分じゃないか。-映画「天使にショパンの歌声を」を観てー

こんにちは。

今日は、映画「天使にショパンの歌声を」を鑑賞してきました。感想を書こうと思います。(ネタバレも含みます。といっても別にミステリーじゃないですが。笑)

映画「天使にショパンの歌声を」公式サイト

 

廃校の危機に陥る、音楽教育に特化した寄宿学校において、修道院長オーギュスティーヌが音楽と信仰の力で廃校の決定を覆そうとする物語です。

美しいカナダ・ケベックの風景もさることながら、私はこの作品に出てくるシスター、生徒たちがそれぞれ、強さも弱さも受け入れて生きている、またその事が受け入れられる環境をつくっていることを、美しく感じました。もちろん、人間同士のいる環境なので、対立がおこることもあります。しかしそれでも、対立した時、良心の傷つかぬ人なんていないと思います(傲慢、不遜の状態に陥り、とても鈍くなっている事はあり得るかもしれませんが)。この物語の中で、例えば、思い違いで怒られる、自分の思いを伝えることができず悲しく思う、自分が大切にしてきたモノ・考えを奪われる、という状況があらわれます。そういった時に、この映画の登場人物は、明快に解決されることはなくとも、他者に頼り、話し、寄り添ってもらうことを求め、そしてお互いが、心に寄り添う人となろうとしていると感じました。

その姿勢は、何においても美しいものだと思います。

音楽の授業中、緊張して歌うゴーティエに、寄り添うようにピアノの旋律を重ねるアリス。

授業中、過度の緊張感により泣きそうになってしまったゴーティエを理解できず、執拗に答えを言わせようとするシスターリーズに対して、「もうやめて!」とゴーティエの気持ちを理解するアリス。

変化していく環境によって混乱していく心と、自分の居場所を守りたいという思いから生徒に強く叱責してしまい、混乱しているシスターリーズの訴えに、同意することはできなくとも耳を傾け、リーズの苦しみに向き合う姿勢を見せるシスターオーギュスティーヌ。

後先を考えない行動によって、シスターたちとの関係を悪化させてしまい、苛立ちと不安、相互に理解し合えていない悲しみに苦しむアリスのもとを訪れ、どうすることもできなくとも、「感謝してる」ということを伝えるゴーティエ。

自暴自棄に、恋に走ろうとするアリスに、自分の全てをさらけだしてでも寄り添おうとし、話し合える関係になろうとするシスターオーギュスティーヌ。

人と人の間に生まれる美しさは、これらの思いやり、理解しようとする姿勢、寄り添う姿勢によって生まれると思いました。

 

しかし、同時に、相互理解不足、無理解、多様性への不寛容、価値観の押し付け、といった人間関係上の重要課題を、この映画の中で感じました。

人前でうまく話すことができない人に、無理矢理にでも話させようとすること。

規律、ルール、つくられた常識、自分の価値観(クラシックはよい、ジャズ・ロックはダメなど)に縛られすぎて、「音楽を楽しむ」ことを奪い去ろうとすること。

相手の想いを受けとめることもせず、自分の考えと異なるから、というだけの理由で「お前の言っていることは間違っている。やめろ。」と平気で否定できるということ。

制服や規律などの形骸的なルールに囚われ、個々人の違い・思い・考えをお互いに受け入れ尊重する、価値観の押し付けを行わないという、最も大切で育むべきものを蔑ろにすること。

そして、相互理解の不足によって生ずる悲しさ、つらさ。

この物語の登場人物はたびたび、相互の無理解を克服できず、強い敵意・悪意を生み出してしまい、また、受けてしまい、悲しさ・つらさを感じます。また、人の死にも悲しさ・つらさを感じることになります。

それを見る中で私は思いました。

「悲しいのは、人が死ぬ時だけで十分じゃないか」と。

死は避けれぬことです。どのような人であってもいつ命を神に召し取られるかはわかりません。私は死ぬことを、痛み以外は怖いとは思いませんが、周囲の人たちを悲しませることは知っています。もし、私が死んでも誰も悲しまないよ、という方がおられたら、お近くの教会かこのブログのお問い合わせでもよいので連絡を取って、お話を聞かせてください。あなたが亡くなった時、悲しめなかったことに、私たちは悲しみます。何ができるわけでもない無力な私ですが、話をお聞きすることはできるかもしれません。また、祈ることはできます。何かさせてください。未熟に過ぎて大きなことは何も言えませんが、悲しみに寄り添うことをしたいと思うのです。

お問い合わせ (ご相談)

 

人が生きる中で、死は避けられません。

でも、相互の理解不足は回避することができると思うのです。誰も悲しさを、つらさを、押し付けず、押しつけられないなら、それが一番ではないでしょうか。 そのために、多様性への柔軟性、あらゆる意見をまず受け止めること、 価値観の押しつけを絶対に行わないこと、心に余裕を持つことを覚えておくことから始めたいと思います。

ふとした時に上記と異なった言動をとってしまうことがありますが、どうせ生きていくなら、そういったことを減らし、自分の心も含め、人の心に寄り添うことができるようになっていきたいのです。

 

この映画の中では、悲しさや嬉しさの中で、音楽がそこに寄り添うシーンがいくつか出てきます。

私は音楽が何よりも好きです。というのは、音楽がなければ今まで生きてこれていないからです。何がなくとも悲しさ、孤独感、無力感、つらさ、切なさ、虚無感に襲われるとき、わたしはいつも音楽に頼っていました。Queenにはじまり、邦楽やクラシック、讃美歌。聴きながら、時には歌いながら泣くことで、私のなかにある希死念慮を吐き出してきました。音楽に対して真っ直ぐ向き合うとき、音楽は私の心に寄り添い力づけてくれました。(もちろん、そうでない性質の方もいて当たり前ですが、私はそういった性質なのです。)

音楽は「何かを指し示す」意味を持たぬ言語だと思います。

純粋に概念を超えてコミュニケーションを取ることができる。

それは、言葉の多義性に恐れを抱く私のような人間にとって一つの救いです。

作中で、アリスが悲しみをピアノにぶつけるシーンがありました。私はそれを見て、「ああ、私と同じだ」と感じました。感情を吐き出させてくれる、感情を吐き出す力を与えてくれる、そういった力が音楽にはあるのではないかと感じます。

この映画は、そういった「音楽の性質」を感じさせてくれるものであると、私は感じました。人の心に寄り添うことができるのは、目の前の人間だけではなく、これまで生きてきた人の想いもまた、人の心に寄り添うことができるのだと思います。何かを遺したいと思うのなら、人の心を力づけることのできる"想い"を遺していくのはいかがでしょうか。むずかしいことではありません。道を譲ってもらったら感謝を伝えること、買い物をしたとき店員さんに感謝を伝えること、敵意がないことを示すために微笑むこと。

そういった小さな優しさは、広がっていくと思うのです。小さな優しさを受け取った方は、また別の方に小さな優しさを渡していくかもしれません。そうするうちに、あなたが死んでも、その連鎖は続いていくかもしれません。いばや通信の坂爪さん的に言えば、「贈与の霊」でしょうか。

ibaya.hatenablog.com

私は、命を取っていただけるその時まで、小さな優しさを続けていき、1mmでも2mmでも和することに貢献できたなら、それ以上に求めることはないと感じています。それ以外に求めたいとするなら、音楽技能の上達でしょうか...。笑

 

多様性や相互理解について考えさせられ、また、美しい音楽を堪能することもできる「天使にショパンの歌声を」、よろしければ見てみてはいかがでしょうか。