死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

"どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならない"新約聖書使徒言行録10章25節から28節

"どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならない"
新約聖書使徒言行録10章25節から28節

10:25ペテロがいよいよ到着すると、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝した。
10:26するとペテロは、彼を引き起して言った、「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」。
10:27それから共に話しながら、へやにはいって行くと、そこには、すでに大ぜいの人が集まっていた。
10:28ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。
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こんにちは。
今日は、キリストによって遣わされた使徒たちの話をまとめた、使徒言行録から引用いたしました。使徒の一人ペテロがコルネリオという異邦人のもとを訪ねる場面です。当時、ユダヤ人はユダヤ人だけが救われる民であり、異邦人は汚れたものという考えに基づいて、異邦人を軽蔑、侮辱、迫害する人が多くいたそうです。
その時、キリストはペテロに啓示を通して、どんなものをも清くないとか汚れているとは言ってはいけない、と伝えられました。

この事を、現代に当てはめるとどうでしょうか。
現代においても、レッテル張りによって軽蔑、侮辱、迫害され、見下され、苦しめられている人が多くいるように私は、思います。

清くないとか、汚れていると言ってはいけない、を現代風に訳すと、「どんな人をも、バカにしたり、見下したり、侮辱してはいけない」ということではないでしょうか。
今、私たちが生きている現代には、お金、地位や、(社会多数派によって作られた、数年単位で真逆にも変わる、まやかしの)常識という概念を根拠にして、誰々は賢い・偉い、誰々は愚かだ・劣っていると言う人々が、悲しいですが居ます。
私は、そういったモノ(地上の宝)に高い価値はないと思っています。お金、権力、優越感をいくら得たからといって何になりましょう。私にとっては、数億の富を得ることや、大企業の社長職を得ること、誰よりも早く出世することなどより、目の前の人が、身近な人が心から笑うことの方が大切です。
地上の宝(お金、権力、優越感)をいくら積んだからといって、それが私の心を満たしてくれることはないと思います。(誤魔化すことはできると思いますが、のちに耐えられないほどの虚無感、罪責感に苛まれることはわかります。)
私に余ったお金があるのなら、不必要な分は、「どう使われるかがわかっている」場所に寄付や献金したいと思います。私に食べきれない程の食べ物や、いらなくなった本やモノがあるなら、誰か求めている人に渡したいと思います。そうできるような人になっていきたいと思います(寄付や献金の情報を仕入れること、譲り合いできるコミュニティを見つけていくことに少しずつ、自分の心に無理のないペースで取り組んでいます。)。
以前、挙げた聖書のみ言葉、「求めなさい、そうすれば与えられる」の与える側に、わたしも、あなたも、成ることができます。

お金や権力は、金銭崇拝教信者、権力崇拝教信者には崇めてもらえるかもしれませんが、それは、お金や権力を持つ、その人自身を見てはいません。言わずもがなですが、お金、権力それ自体を見ています。お金、権力を失ったとき、あっさりと別の人を崇めるようになるでしょう。

しかし、天の宝(暖かい心、思いやり、平和に繋がる思い、言動)はそうではありません。
あなたが強められているとき(自信を持っているとき)にも、あなたが弱められているとき(泣き伏せる程悲しいとき、つらいとき、誰も信じられないとき、自分の心が、自分でも全く理解できないとき)にも、あなたが天の宝を与えた人は、寄り添って、あなたの心を見ながら話をしてくれるでしょう。またその時、あなたの話を聞いてくれる、その人自身が天の宝となるのだと、思います。
私は、イエス様はこのような事を指して、「天の宝を積みなさい」と言われたのではないか、と解釈しています。(もちろん、人の解釈にはすべて多義性があり、何が正しいというものはありません。神様のみ言葉が正しかったとしても、解釈する人間によって、み言葉の意味は変化してしまいます。だからこそ、~~が絶対に正しい!などと言わず、「これは正しいのか、間違っているのか」を考えながら行動しなければならないと感じます。その際、私が指標にしていることは、「その言動で、またその言動が波及した先で、心から笑える人が増えるかどうか」です。)

ペテロはコルネリオに会い、彼のキリスト(平和)への思いをみて、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。」と仰いました。
人に偏り見ない。偏見を持ってみない、ということだと思います。これは非常に難しいことです。
偏見というのは、「ある人が苦しむような、目つきをすること、言葉を発すること、行動をすること」だと思います。つまり、相手の立場に立って、相手のことを考え行動することで、偏見をある程度防ぐことができると思います。しかしそれも不十分ではないでしょうか。
相手が「本当に」どう思うかなど、分かることではありません。
先ほど、どういった言動が100%正しいかどうかなど分からない、と言いました。
同じように、相手がどう感じるか、私たちの誰も、明快には分からないのです。

そういう時、どうすればいいのでしょうか。
私は、「話し合い」しかないと思います。まず、相手の意見を決して否定しない(自分の考えと違うときは、否定はせず「私は~と思う」という)、相手の発言を遮らず必ず受け止める、相手の意見を理解する姿勢を必ず持つ、といった基本姿勢を意識して、話し合うことが大切だと思います。
(私も、気をつけていても、ふとしたときに上記のルールを破ってしまい、悔いる時はまだまだ多くあります。少しずつでも、そういったことを少なくしていきたいと思っています。)

めんどくさい、と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし、このことを蔑ろにすることは、いずれあなたが誰かに蔑ろにされることをも示していると思います。
というのは、地上の宝を求める人の周りには地上の宝を求める人が、天の宝を求める人の周りには天の宝を求める人が集う、と思うからです。(これは私の経験上の話でもありますが、やはり、価値観の近い人たちは集まりますし、何より価値観の違いすぎる人たちの中で、孤独に生きることは、拷問のようなものだと感じます。私は、そこからは逃げました。そして今、天の宝の恵みに感謝しています。一番大切なのは、あなたが、「心を圧し潰してないか」「心を圧し殺してないか」「心から笑えない状態になっていないか」だと思います。私はかつてそうでした。もしあなたが今、そうであれば、下記お問い合わせから、お話をお聞かせください。私は決して、否定は用いません。かつての自分と似ている人の、お話をお聞きしたいのです。)
http://hitsuji-wwjd.hatenablog.com/entry/2017/01/10/093741

心から笑える人が、一人でも二人でも増えるように、誰かを傷つけないために、「相手の立場にたって考えてみること」、また、「自分の考えが絶対に正しいなんてことはないこと」を覚えて、行動してみませんか。
そうすれば、暖かい繋がりや暖かい心を感じられるようになるのではないかと思います。私も、あなたとの繋がりになりたいと思っています。


祈り
主よ、ここ京都では雪が積もりました。この美しい景色を与えてくださったことを感謝します。しかし、この寒さにあって、夜眠る場所も、食べるものもない方が大勢いらっしゃいます。どうかその方々一人一人のそばにあなたがいて、一時でも安らぎをお与えください。心に寄り添ってください。また、「ふとんで年越しプロジェクト」など、クラウドファンディングという、想いのある方々からお金を集め、支援する活動など、多くの支援活動があります。どうかあなたの御心に叶うままに、彼ら彼女らの活動を強め、それらの活動を支える人が一人でも二人でも増え、今日より明日、明日より明後日、一人でも多くの人が心から笑えますように。
闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。また、そのようなことを行える者に、どうぞあなたの御力によって、なることができますように。
この祈りを、わたしたちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりでありますように)