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現代日本で聖書を読む意味

希死念慮持ち。内容は個人的解釈です。気持ちに余裕がある時に更新します。

"だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。" コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章6節

聖書通読と解釈 希死念慮

"だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。"

コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章6節

4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、私自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。

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こんにちは。

 

今日は、"だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。"という言葉について考えてみたいと思います。

先日、私がフォローさせて頂いているglocal lifeさんが以下のようなことをツイートされていました。

 

 

以前の記事でも書きましたが、私は各々が持っているそれぞれの判断基準が、宗教と呼ばれるに値するものであると思っています。つまり、何に価値を置くか、です。キリスト教徒やイスラム教徒など、自覚的な教徒であっても、個々人で少しずつ"何に価値を置いているか"は異なります。(ゆえに曲解した人々が過激派、などに成り得ます。ザ・バイオハザード ファイナルもそんな映画でした。)

 

以前の記事:

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

 

私も、世間様教の盲目的な(無自覚的な)信者からの意見に反発を覚えたことがあります。下記はその時のツイートです。

「他人の幸せを願いたい的な話してると、いやでもお前自分の幸せのために他人犠牲にしてるじゃん的な批判を受けるときがあるけど、自分の幸せも大切なわけであって。漸進的にしか進まないにしろ、100できないから1やらない理由にはならないでしょ、と思う。 https://t.co/IvXnTuUYzT— 羊 (@Sheltie_s_sheep) 2017年1月24日」

 

でもglocalさんのツイートを見て、これって要は、”世間様”から外れるような変わったことするな、っていう事なのかな、と思いました。

私は、例え”世間様”から外れようが、自分の考えに常に確信を持たずに見直し続け、心から笑える人が一人でも増えるように、思いと言葉と行動によって実行できるよう、生きていきたい、と思っています。しかし、私は神でないので、その中で思いがけず誰かを悲しませることも、残念ながらあると思います。しかしそれでも、100できないから1やらない人間にはなりたくないなと思っています。

怒りを行動原理に置かず、人々ひとりひとりが、小さな慈しみを重ねていけば、より良い社会に繋がると、信じたいと思っています。

 

行動原理を怒りに置く例:

www.huffingtonpost.jp

 

www.huffingtonpost.jp

 

「宗教が争いを起こすくらいなら宗教など無い方が良い」

と仰る方がいます。確かに、宗教が争いを起こす"だけ"のものであればその通りだと思います。

しかし現実は、自覚的な宗教者が少ない日本においても、他国と同じかそれ以上に深刻な争いも起こっていると思います。私は、日本において最も大きな課題は、「多様性への不寛容」であると思っています。

"世間様"、"普通"、”社会の常識(とされているもの)"から外れてる人々は蔑んで問題ない、(と本気で思っている方は少数派だと信じたいですが)、それら"世間様"の価値観にあまり深く考えることもなく迎合している人が多いのもまた事実なのではないかと思います。

日本社会では、「”世間様”は絶対に正しい」と、あの手この手の表現で発言・表明している方が多いと感じています。

「そんなの社会人としてダメだよ」

「常識ないね」

「君は普通じゃないんだね」

「言ってることはわかるけど、現実的じゃないよ」

「そんなの通用しないよ」

with軽蔑の目つき。

 

これら全て”世間様”からの「お前の心を滅ぼせ」という有難いご神託だと思います。(これらを言っている方々にはそのつもりはなく、善意から、なのかもしれませんが、自分の言葉がどういった形で波及するかまで考えられないようでは、人と心からの暖かい繋がりを作っていくことが難しいと思います。)

これら”世間様”の言葉に捕られ、呪われ続けた結果として人は、「心の寿命」を迎えるのだと思います。

先日読んだ、「うつヌケ」というマンガにこのような表現がありました。

 

 

この表現はとても腑に落ちました。

うつは、心の風邪、とか言いますが、正しい表現は、「心のガン」なのだと思います。

 

少し不思議なようでいて、当たり前のことかもしれませんが、私の見た中では、キリスト教側、仏教側双方から、「自殺は社会の罪」である、と言われています。下記のサイトと本にその記述を認めることができます。

 

キリスト教側から(webサイト)

下世話なQ&A「キリスト教では自殺は罪なんですよね?」

仏教側から(本)

「なくしたものと繋がる生き方」尾角光美さん

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私も、自殺は「社会の罪」であり、本人や遺族が責を負うべきではなく、「多様性への寛容」「身近な人の心を大切にすること」について社会全体で考えるべきことを、「一人の人が、命を投げ出して訴えてくれた」のだと思います。

 

心のガンを予防する方法として「多様性への寛容」という”優しさ、理解力”を身に着けていく必要があり、心から笑える人を増やすために、お互いの考え方、在り方を大切にして尊重し合うことが必要なのだと考えています。

つまり、心から笑える人が一人でも二人でも増える道へ進むためには、”一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにし”てはいけない。

あなた自身含め、ひとりひとりに対して「感謝」と、自分が絶対に正しいなんてことは絶対にあり得ないという「謙遜」を持って、生きていくこと。その生き方自体が、喜びを生み出し、満足して生きて、死ねる流れなんではないかな、と思います。

 

 

 

祈り

主よ、あなたの御力によって私を、慰めるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛することを求める者としてください。つまづくことが多い私ですが、あなたの優しさとみ言葉によって、立たせ、また共に居て、安らぎをお与えください。また今も悩み苦しみ悲しみの中にいる人が大勢います。その方々、ひとりひとりの上に、あなたからの恵みと慈しみがあり、あなたが共にいて、安らぎを与えてください。

死ぬことと生きることとはなんでしょう。何を遺していけるでしょう。わかりません。それでも喜ぶ人が一人でも二人でも増えるために、100の行動ができなくとも、1の思いだけでも実行できますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン(そのとおりでありますように)。