なぜ今の生き方を選んだか
コリントの信徒への手紙Ⅰ(使徒パウロと兄弟ソステネがコリントの信徒たちへ送った手紙)から
”他者の喜びから自らの喜びを生む”
10:33
わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。
”人がひとり苦しむなら、それは社会全体が苦しむ”
12:25
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
12:26
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
12:27
あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
”見せかけの行為、心からの行為の価値”
13:1
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
”宗教を持つ人への差別の生じやすさ”
14:23
もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたを気違いだと言うだろう。
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こんにちは。
僕が、前の仕事を辞めた理由は、「他者が悲しむことをしたくなかったから」です。
僕が耐えられなかったのは、
業界の中で3番手、4番手の製品を売るために、相手を騙すこと、
1番手、2番手の製品を知らない人を探して、優れた製品を教えず売り込むこと、
売るためにこれまでの、また現在の不具合を隠すこと。
製品の開発が、遠因的に環境破壊を助け、現地住民の住む場所を壊していること
そして周りにそのことに反対する人がいないばかりか、その開発が推し進められることを前提としていること、
自分たちの利益のために(もちろん各々の生活があるとは思います)、開発を推進している業界を顧客とすること。
自動化機械を売ることで、現地の雇用が確実にひとつは減り、十分な教育を受けられていない人の仕事が無くなること、
実績が多くなく、課題や問題も多いのに、顧客に対しては弱い部分は隠して強気で売り込むこと。
それら全てが僕には耐えがたかった。
向いてない、と言えばそれまでですし、そのとおりではあると思います。
けれど、こういう状況が、「普通」でいいんでしょうか?
1週間後、1ヵ月後、死ぬとして、何をしたいと思うでしょうか。
僕は、自分が価値があると感じることをしたいと思います。
僕にとってはそれが、多様性を受け入れる場をつくりたい、ということでした。(あとひとつ加えるなら、音楽と)
”今の”社会では、~~には価値がある、~~には価値がないという「常識」とも呼ばれる差別の温床があると思います。
日常でも、ニュースでも、バラエティでも、
「結婚はして当たり前」
「子どもはつくって当たり前」
「30、40歳超えてるなら、分かりやすい職業についていて当たり前」
「女性が家事をして当たり前、男性は分かりやすい職業についていて当たり前」
という価値観を垣間見ることがあります。
でも、そうじゃなかったらなんなのでしょうか。
ちょっと価値観が合わないから距離を置く、心配する、ということはあると思います。
しかし、「自分の価値観の方が、少し古い社会的常識に適合しているから、自分は価値がある」と信じて、そうでない人の価値観を蔑ろにすることには、かなり問題があると思います。
「差別や偏見を持たない」ということは、「自分と異なる価値観の人間を想像し、その人が自分の友人だったとしても傷つけないような態度をとる」ということではないでしょうか。
ー
この記事を読んで、考えさせられたことがありました。
自分の周りの人たちが、自分を高く評価してくれた。だから、社会(人間全員)が自分をそう扱ってくれるに違いない。と考えるのはどうなのでしょうか。
もちろん、これまでの古い社会の中での価値観として、そういう人が多数派だとは思います。
しかし、それが、これから10年後、20年後、そのままでしょうか。
僕は、自分が、「~~な自分は凄い」と言うことは、その反対の立場の人を少なからず不快にする行為だと思います。(突き詰めると何も言えなくなるのですが、言論弾圧をする気はありません。そういった想像力を持つことは、多様な人がいる社会生活の上で大切だと思うのです。)
なので、「~~な自分は凄い」「だから~~なやつは間違っている」と公に言う行為には常に、異なる他者を不愉快にする可能性(差別・偏見の可能性)を秘めていると思います。
上記の「社会的評価」に関する記事を読んで、さらに思った事は、「自分が何に価値を感じているか」を精査することが大切だな、ということでした。
自分にとって何が価値があるか、とは、
「自分にとって、何が楽しいか」「何がやりたいか」
「何はやりたくないか」「何をすると自分の心を殺すことになるか」
を考えることです。
僕は「結婚・子育て」をしたいとは思えません(そこに価値を置いていません)。
ですが、これまでの少し古い社会的常識においては、結婚・子育ては羨ましがられることだったのだと思います。
その中にあって、「なんかみんなが羨ましがってるし誉めているから、あれはきっと価値があることなんだ。羨ましいな」と思うよりも、「何人かのひとにとっては価値があるのだろうけど、僕にとってはそうでもないことのひとつだな」と、距離を置いて眺めた方が、負の感情が弱められ、また、自分の気持ちに素直でいられるのではないかな、と思います。
それに、自分の価値観を無視し、周りの価値観に流されて生活すると、当たり前のことですが、自分と異なる価値観・考え方を持った人々に囲まれていくことになると思います。
そうすると、自分本来の価値観を抑圧するしかなくなるため、本記事冒頭の僕のように、「やりたくない、逃げたい」となってまうのではないでしょうか。
もし、「結婚」するにしても、「自分と価値観・考え方が近いか」、「話し合いがちゃんとできるか」の方が、「社会的に評価されるか」より大切だと思います。
”今の”社会的に羨ましがられる結婚をするよりも、自分と価値観の近い人々を探して、コミュニティをつくり(もしくは参加し)、これからも一緒に過ごしていきたいな、と思える人が、もしいたら結婚する、いなかったら自分にとって居心地の良いコミュニティでわいわい楽しくやって、笑いながら死ねるようにしよう、くらいでいいんじゃないでしょうか。
と、僕は思います。
これらの価値観に基づいて、行動した結果が今です。
「今を死んだように生きて、老後に備えてもしょうがねえだろ」
しんどい時期を通り過ぎて、今は本当にそう思います
「心を殺して長生きするか、心を活かすために今を生きるか」
どちらがいいのでしょう。
僕は後者の人が増えたらいいな、と祈っています。