死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

”牧師、僧侶、神職などの関係性” 「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章18節)

”牧師、僧侶、神職などの関係性”

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記一九・一八)

「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章18節)

 

祭司、レビ人がたとえ話に登場し、善行を行わない姿で描かれるのは、行いを伴わない称号・職位は神の前に何の意味も持たない事を示している。「司祭職の尊貴も、行為において優るところなからば無意味なり」(アレクサンドリアのキュリロス)。

善きサマリア人のたとえ - Wikipedia から引用

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こんにちは。

 

昨日、下賀茂神社比叡山延暦寺が出てくるテレビを見ていました。

その中で、最澄伝教大師が、「この世の中をよくしたい」「今まさに苦しんでいる人々のために祈りたい」という思いで”現在”を司るとされる薬師如来様を特にお祀りし、祈りに励んだ、というお話がありました。

 

それを見て、「平和を祈る人々に優劣などはないはずだ、だから、キリスト教だろうと仏教だろうと、本当の信仰者・信仰職といえる人々同士は、相手の信仰を尊重し合いながら、協力し合った方がいいのではないだろうか」と思いました。

と言いますのも、キリスト教仏教イスラム教もヒンドゥー教も、あらゆる宗教は全て、「人間の考えの及ぶ範囲で理解されたもの」です。けれど、どの宗教も「人の力の及ばない、なにか偉大なもの」の存在を信仰しています。

「言い知れぬ存在に畏敬の念を持ち、平和を祈る」というスタンスは「平和を祈る人々」に共通する姿勢なのではないかと思うからです。

 

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西行(さいぎょう)法師が伊勢神宮を詣でたときに歌った。
「何ごとのおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という歌は大変有名ですけれども、何がそこにいるのかはわからないけれども、なんともかたじけなくて、涙してしまうという心。」

「キリスト教信仰が大切にしている事」 から引用

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キリスト教でも、神の存在を感じられるほどに、自分の内面に向き合い、隣人(他者)のために祈るという行為が大切なものとされていると思います。

 

実際に宗教の垣根を超えて協力している例では、最近、神社の宮司さんと教会の牧師さんが協力して、「神社のコンサートで、キリスト教の幼稚園の子供たちが讃美歌を歌う」ということがあったそうです。

日本聖公会「つのぶえ」694号から)

 

その神社の宮司さんは「地域の人々と一緒に、皆が平和に暮らせるように願ったステージを企画したいので、ぜひ幼稚園児のご協力を」というお声かけを為さったそうです。

 

僕は、これが本当の信仰者の姿なのではないか、と思いました。

 

「お金や権力のために、本来の信仰を忘れている信仰者・信仰職の人」

「自分は神から力を与えられている、と傲慢になる人」(トランプさんを思い浮かべてしまいます...)

「自分の思いに固執するあまり、教理を絶対視し、平和を行うとは何か、を見失ってしまう人」

 

どの宗教に置いても、平和は大切であり、またその「平和」の概念には相通ずる部分が多いのではないでしょうか。(平和を掲げない宗教は、宗教として機能しているのか疑問です。)

わたしたちはそれぞれの信仰や道徳観を持っています。

しかしその信仰・道徳観、その他すべての考えは、「人間の考えの及ぶ範囲のもの」です。

間違っていること、曲解していること、一方には真実で他方には真実でないこと、意見の合わないことがあって当然だと思います。

でもその中で、「平和」という概念において、おおまかな一致を見るなら、その方向(キリスト教的表現で言えば「的」)に向かって、協力する、ということだけが、唯一変えてはならない大切なことなんではないでしょうか。

 

仏教キリスト教においても、「愛」という言葉について、これだけの相違があるそうです。

「・仏教の「愛」は、異性、お金、名声などへの「執着心」の意味

・(キリスト教の)愛とは「人を思いやることだ」「人生において最も大切なものだ」。

仏教徒は、「慈悲」とは"苦を抜き楽を与えること"である、と説明しています。

キリスト教の「愛」と比べられるものは、仏教においては、「慈悲」でしょう。」

仏教の「慈悲」キリスト教の「愛」  から引用

 

本当の信仰(平和を追い求める心)は、概念(特定の宗教・宗派(無宗教も含む)や、価値観)によって、疎外されたり妨害されたりするべきではないと思います。

ローマの信徒への手紙12章18節に「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」とあるように、平和に過ごすために、自分の信仰や道徳心について考え、異なる他者の信仰や道徳観を尊重し、対話し、協力していくことがより良いことなのだろうと感じました。

 

異なる宗教同士の関わり方は、様々難しい問題がありますが、上記したようなスタンスが、肝要なものとして考えられることを祈ります。

ここにもまた「多様性への寛容」という社会(人間の集まり)の課題が現れているのだと思います。