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現代日本で聖書を読む意味

希死念慮持ち。内容は個人的解釈です。気持ちに余裕がある時に更新します。

”死んでも生きる、復活とは”コリントの信徒への手紙Ⅰ15章50節、Ⅱ 4章15ー16節、18節

聖書通読と解釈 希死念慮

”死んでも生きる、復活とは”

コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節
15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章15-16節、18節
4:15すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

4:18わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
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こんにちは。
今回はキリスト教で主要な概念のひとつである「復活」について、僕なりに考えてみたいと思います。

僕はキリスト教についてあまり知らないころ、「復活、永遠の命」など死んでも御免だ、と思っていました。
せっかく、死ねば今の考える苦しみ、生きる苦しみから解放されるのに、なんで「死んでも生きないといけないのか」と考えていました。
その頃の私の知識と解釈では、「死んでも生きる」とは、死んでも苦しみ続けろ、と同義だと思っていたのです。

しかし、恩師の牧師先生にこの考えを伝えたところ、「永遠の命とは、そういう意味ではない」と言われました。

それでは、どういう意味なのか。
少しずつ、自分なりの解釈ができてきたので、それをここに記します。

「コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節
15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」


まず、「死んでも生きる」の「生きる」とは、今と同じ血肉のからだとして生きることではないのです。

僕はここでの「生きる」とは、「暖かい想いが、人々の間に繋がっていくこと」という意味だと考えています。

血肉のからだや言葉は、朽ちるものです。
しかし、想いは、人々の間で繋がり続ける限り(思いやりが思いやりを呼ぶように)朽ちずに続いていきます。
それは、ともすれば人間同士だけのことではないかもしれません。
人間と他の動物の間でも言えることかもしれません。

もしそうであるとするならば、生物がいる限り、想いは朽ちません。

私は「永遠の命」「復活」「死んでも生きる」という言葉の「生きる」という意味は「”想い”として生きる」ということなのではないか、と考えています。


「”想い”として生きる」のであれば、悪くありません。
今の考える苦しみ、生きる苦しみから解放された上で、暖かい想いという、純粋に前向きなエネルギーだけを残して逝ける(とともに「想い」として生きる)のですから。

しかし、「”想い”として生きる」とはなんでしょうか。どうすれば、そういうことができるのでしょうか。

「コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章15-16節
4:15すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」

その方法のひとつは、ここの聖句にもあるように、「感謝」だと思います。

できるだけ多くのことに感謝しながら生きていくこと。

できるだけ多くのことに”感謝しながら生きていけるように”、人生のかじを切ること。

もし自分が、そのように恵まれた立場にいるなら、環境と運によってそう思うことができない人に、暖かく接すること。

できるだけ、感謝を生み出す人になること。


もちろん、今は血肉の人間であり、暖かく、優しく、と思っていても、言葉と行動、負の感情によって、人を悲しませること、傷つけてしまうことが、どうしても起こってしまうと思います。
今も、これからも。

それでも「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」

つまり、外なる人(血肉のからだ)は日々朽ちていきますが、内なる人(想い)は日々新たにしていくことができます。

何か人を傷つけることを言ってしまったなら、次に会ったときに謝ることができます。
思いがけず人を悲しませてしまったなら、相手が落ち着くのを待って、心から寄り添い弁明する事ができます。
取り返しがつかないほど大きく、他者を苦しめてしまったなら。もう地上では、どのようにも相手に関わることはできないかもしれません。それでも、相手のため、また自分のために祈ることはできます。

メメント・モリ(死を覚えて)
朽ちていくからだを覚えて、想いを新たに持ち続けることはできます。
その生き方が、”想い”として生き続けるということに繋がるのではないか、と思います。


「コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節
4:18わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

目に見えるもの、人が理解できるものは全て朽ちます。
けれど、全貌を明らかにすることはできなくとも、正のエネルギーである「暖かい想い」は、生物が続く限り朽ちることはありません。
そして、おそらく生物はまだ続いていくのでしょう。

「見えないものは永遠につづくのである。」
もしかしたら、主の復活も、目に見えるかたちでなく、弟子たちの心の中に、復活されたのかもしれません。幻覚となって視えるほどに。
この解釈は、おそらく異端ですし、僕の考えも変わっていくことでしょう。しかしその方が、意義深いと思うのは僕だけでしょうか。

そして、主(平和への想い)は、今現代も、ひとりひとりの心の中にあり、日々新たにされています。(キリスト教でなければ、「主」以外の概念(人間がつくりだした言葉)になるでしょう)


しかし、目の前に見えるものに心を急かされ、日々新たにすることができる「内なる人(想い)」のことを考える余裕がない人も多くいるのではないかと思います。
そのことに良い悪いはありません。
しかし、そこに目を向ける心の余裕がある人は、他者に与えてあげてほしいな、と思います。
その余裕がない人も、受け取る余裕は生まれるように、自分自身を、自分自身の心を、大切にしてほしいと思います。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。」
見えないものに目を注ぐことのできる余裕を保ち、またその見えないもの(想い)を、他者に与えることができるよう、血肉のからだを使いたいものです。
それは私自身の想いと言葉と行動によって必ず達成できることではありません。

見えないもの(主(平和への想い))に頼ることで、自分の目が届かず人を悲しませることがあっても、「4:2できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 4:3平和のきずなで結ばれ」る望みを持ち続けることができるのではないか、と思っています。(エフェソの信徒への手紙4章2-3節から)