死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

「社会的少数者(マイノリティ)」 / ”憩いの水際” 詩編 第23編

”憩いの水際”

詩編 第23編

23:1
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
23:2
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こんにちは。

今日は自分のツイートから、「思想的少数者の在り方」について考えてみたいと思います。

 

 ー

 

上に述べたものが私の主張の骨子です。

僕のような希死念慮持ちなどの思想的少数者(社会区分でマイノリティとされる人々)は、これまでの社会では異端とみなされ、抑圧されてきたのではないかと思います。

 

しかし、現在および、これからの社会はそうではないと思います。

なぜなら、ツイッターやブログといったツールが、物理的距離を無視できるツールとして機能していると思うからです。

 

これまでの村社会的文化の中では、それぞれの集団の中で、「多数派である人々の常識」に適応することができない者は、抑圧され、迫害され、軽蔑されても、声をあげて助けてくれる人がいない環境だったと思います。

「多数派である人々」が、自分達の価値観を保守し、自分達に反対する人間を黙らせるために。

それは「すべての人が心から笑えるようになるため」には、是正されなければならないと思います。

 

・「白人主義」(白人であり、キリスト教徒である人々が持つ価値観だけをマジョリティとして保守しようとする運動)を進めるドナルド・トランプさん

www.huffingtonpost.jp

上記のような行為は、多数派と少数派、権力者と非権力者が理解し合えるようになるためには、悪手だと思います。(分かったうえで、やっているのでしょうが...。)

しかし、記事の通り、現代は保守層側にも複雑な思いが入り混じっています。

 

ツイッターやブログのある現代にあって、僕達のような思想的少数者も、一人や二人ではなく、同じ気持ちを持つ人が多くいるということを、かつてより随分多くの人が理解するようになりました。

そのことによって、理屈の伴わない言葉で、少数者を弾圧することは難しくなりました。(このことは何より素晴らしいことだと思います。)

現代にあって、生きづらさや息のしにくさを感じている人は、ツイッターやブログなどの、物理的距離を無視できるツールなどを使って連帯し、

社会的多数派に「社会的少数者の存在」と「一人の多数派側だった人間が、少数派側になる可能性は生きていく上でとてもたくさんある」ということを知ってもらう必要があるのではないでしょうか。

 

そうすることで、お互いが、「話し合いの場」に「対等な立場」で立つことができると思います。

その中で、互いの理解を深めることで、「お互いをひとりの人間として尊重し、理解し合いながら暮らしていくことができる」と信じたいと思います。

 

僕にとって、ツイッターの機能は、”憩いの水際”として機能しています。

(といっても、ツイッターが無くなってしまったら、同じような場が別に作られるとは思いますが。)

 

「自分自身の考えが、自分ひとりのものでないこと」

「同じ苦しみを覚えている人がいること」

「その苦しみの解消の為に動いている団体があること」

「そこに携われる希望があること」

 

それらを、ツイッターやブログ、教会などを通して理解できたことが、僕の生きる糧・理由になっています。

 

「トランプ大統領の命令にストップをかける連邦地裁」

news.tbs.co.jp

 

けれど、当然ですが、思想的少数者側も、多数派を断罪するのではなく、「話し合いの場」において理解し合う努力をしていかねばならないと思います。

その上で、上記記事のように、少数派(マイノリティ側)を迫害する考えや行動には、反対し続けていかなければならないと考えます。

”憩いの水際”を守り、広げていくために。