死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

死について、前向きでも後ろ向きでもなく、考える / 「死をどう生きたか」から、一部書評

こんにちは。
前の記事で引用した「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」の高橋敏雄さんのお話から、僕が感じ、考えた所感を書いていきたいと思います。


(以下「」内は、「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」110頁以降から引用)
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「いや、これは真剣で、真面目な質問なんだよ。近頃考えているのだけれど、人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。とくに、これこれと話をしたわけでないが、毎日の生活を見ていると、明るくて、なにかに支えられて、だれかといっしょにたのしんで仕事をやっているように見えるよ。なにごとにも耐えてゆけそうなところなど、うらやましいほどだ。僕にもすこしわけてもらいたいと思うよ」

なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」
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この部分で高橋さんは、「人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。」と仰っています。

生きる目的。
僕はそれは、死に際して、
”生きている間、自分にとってできるだけのことはやれたのではないか。もともと人間にできることなんて一切何もないのに、それでもあのことは、私にとって唯一、神の御前にあっても誇れることだといえるかな。私の心を支え、生涯共に歩んでくださった方に、諫められることもきっと多いだろうけど、それでもあのことは、喜んでいただけるだろう。”
と思って死ねることなのではないか、と思っています。
神や、人知を超えた存在に、会えることや、救われることが大切なのではなく、そう”思える”ことが、僕にとっては大切なのだと感じています。


人間が、他者の心を100%わかることはあり得ないと感じます。
自分が相手にかけた言葉ひとつ取っても、その言葉が相手にどのように受け止められ、救いとなるか悲しみとなるか、そんなことさえ、人間にはわからないのだと思います。
その時の相手の心の状態、周りの環境、心身の状況、それら全てを鑑みて、行動し、発言できるなら、それはもう人間の能力を超えていると思います。

人間は、他者の気持ち、心を完全に理解することはできません。
つまり、自分が相手を思って言った言葉、相手を罵倒しようとして放った言葉、それらが、真反対に作用することだってあります。
結局、自分の心も他者の心も完全に理解することができない”人間”が、真に理解できることなんて、何もないのだと思います。
科学でも、道徳でも、物質でも、物質以外のものでも。

僕たちは、自分の持つ考え・価値観(心の一部)によって世界を見ています。
その考え・価値観を根底から支える”心それ自体”がはっきりとわからない以上、何かをわかったつもりになっても、それはその時”わかったつもりになっている”それ以上でも以下でもないのだと思います。


人間に、完全に理解できることなんて何もない。
しかしそれでも、理解しようとして、理解に近づくことはできると思います。

そして、人は人に、理解しようとしてもらいたい、と思う生物ではないでしょうか。


なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」

桑原さんのこの言葉は、
”人間には、なにもわからないけれど、絶対的な力がある、と信じて、人知を越えた方の平和を信じて、自分にできることをさせていただこうと、自分のすべてを、自分が信ずる方の御手に委ねている”
ということを意味しているのではないか、と思うのです。
だから彼女は、毎日の生活にあって、心の中でだれかに支えられて、だれかといっしょに、毎日をすごせていたのではないでしょうか。



私たちには、なにもわからない。
けれども、なにもわからないままで生きていくことなんて、とてもつらくてかなしくて、苦しくて、むつかしいことだと感じます。
だから、心の平和に通ずる、自然や、人と人との暖かい繋がりなどから感じることのできる、”人知を越えたなにか”を信じて、自らを委ね、平和に向かって1ミリでも2ミリでも、何かすることができたら、と僕は思うのです。桑原さんも似たお気持ちだったのかな、とここを読みながら感じました。


「はい、私ではなにもできませんが、ごいっしょに聖書をすこしずつお読みいたしましょう」

この部分にも、人間存在の絶対的な無力性について、述べられていると感じました。
”私ではなにもできませんが”、それでも導き・巡り会わせ・御力によって、あなたの心に寄り添うことができたら、それは天の宝(人と人との暖かい繋がり / treasures on high)になるかもしれないと、信じたく思うのです。
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「桑ちゃん、おれはこのごろとても淋しいんだ。なんともいいようがないが、とても淋しくて不安だ。いてもたってもいられない気持だよ。ひょっとすると、僕は気がくるうかもしれないよ、どうにかして生きている意義を知りたい。いま死ということに真剣にとりくむ必要を感じだしたんだ。どうしたらよいのか、どうしたら神を知ることができるのだろう。このあいだから思っているのだが、人間の業とはなんだろうか。あきらめというか、悟りという言葉を正確に自分のものにしたいから、しらべてみてくれたまえ。なんとかしてこの不安な気持からぬけだしたい。もし病気で死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ


ここで高橋さんが仰られていることを僕は、振り返ってみれば物心ついたときから、ぼんやりとではありますが意識していました。

生きることとはなにか。
考えずにはいられないけれど、それについて考え続けることは、無限の寂寥感と対峙することでした。
本当に、気が狂ってもおかしくない、といいますか、気が狂ってしまったほうが楽なのではないか、と思うことは、今もたびたびあります。

死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ

確固とした”生きる意義”となるもの(感動や心の暖かさを感じることと、同義の部分もあるかもしれません)は、
目に見えるもの、人間に理解できると感じられるものにはない、と思うのです。

僕は、なんらかの導き・巡り会わせ(偶然とも呼ばれているもの)のちからを近くに感じることによって、今の道を選ぶことができ、生きつづけることに、多少の意味を見いだせるようになりました。
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「私は何のために生まれて生活して来たのだろうか。こうして静かに、過ごして来た人生を思い出してみると、みんな利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しいよ。生涯を顧みて、これといって何一つよいことは出来なかった。」


何のために生まれて生活してきたのか、と感じることは、ほとんど僕の常といってもよいことです。
何か楽しいことや嬉しいことがあったとき、確かに喜ぶ自分がいます。しかし、それは一過性のものであって、ひとりになったり、つかれたりすると、”生きていく必要は、どこにあるんだろうか”と、切なさと寂寥感に包まれることがたびたびあります。

僕は、死ぬことは、安らぎと近似の事象だ、と思う価値観を持っています。(キリスト教的に言いますと、死は御許に帰る故に安らぎであると考えられています。けれど、僕はキリスト教に触れる前から、生きるつらさゆえに死は安らぎと近似だ、と感じていました。)
しかしそれでも、死ぬに際して、できれば「利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しい」ではなく、”自分に与えられたことに、ひとつでもふたつでも応えることができた”と感じて死ぬことができたらな、と今の道を知ってから、思うようになりました。
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「いろいろ考えると、自分の生きているのが申訳ないのだよ。多くの人のぎせいによって、今の私は生かされているのだから、そのことから考えても、真実を探り出して、より正しく生きねば皆に申しわけないのだよ。」


僕は今日もこうして、電車に乗り、帰って、屋根のある家で暖かいご飯を食べて、暖かい布団で眠ることができます。
けれど、そうではない、理不尽な暴力や圧力に苦しみ続けている人も多くいます。

そのすべてに寄り添うことは、不可能です。
けれど、僕の人生において、ひとりでも、”あなたが居てくれてよかった”と言っていただくような、僥倖中の僥倖があれば、僕もまた、生きていたことはその時点では無駄ではなかったのかもしれない、と感じられると思うのです。
そういうことを続けていけるか、うまくいくかはわかりません。けれど、その為のみに、生きていてもよいかもしれないなと、今は思っています。
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「今迄は仕事がいそがしくて、庭の木々や草花に目をくばる心の余裕がなかったけれど、病気をしてとくしたことのひとつは草花の美しさを通して、そのたくましい生命力にはげまされ、おどろかされ、人間の力の及ばぬ世界があることを教えられ、花を見ながら、よろこびが溢れるのを覚えることですよ。」

理解できないものが多いが、私が知らない大きな世界がいくらでも広がっている。私が知らなかっただけで、自分を超えた大きな力がいくらでも広がっている。なぜもっと早く心を開かなかったのだろうかと思い残念でたまらないよ」


僕は、自然や音楽、自分の内面、神様に向き合うとき、死の求心力から少し距離を置くことができます。
考えてみると、自分は何のために生きて来たのか」という思いから少し距離を置くことができます。

そして自分の内面や意識、価値観や考え方などに、しっかりと向き合い、少しだけ自分について理解した上で、自分の心を他者に開き、恵まれて”人と人との暖かい繋がり”を感じることができたとき、「よかったよかった。こんな良い日を迎える事が出来て、やっぱり生きていてよかった。」という思いが、僅かながら湧いてきます。

今の道を志してから、そのように自分の内面の声を聞くことで、上記のような想いを感じられることが格段に増えました。
これまでは自分が、希死念慮を併せ持つ自分の心に真剣に向き合うことから逃げていたので、当たり前と言えば当たり前なのですが。

僕には、特になにもできることはありません。
けれどふたつのこと、自分と似た苦しみを覚える人に寄り添う努力をすることと、場を作る努力をすることは、(常に全力で取り組むことはきっと不可能ですが)、生きていく上で唯一、主(絶対的ななにかの存在)の御力に縋っておこなってみたいと思えることです。
生きていく上、生きていく目的に取り組む上で、まず自分の心と身体を護ること、それから、他者に平和の御旨を為せるよう考えて、思いと言葉と行いに注意を払うことが、僕にとって大切なことだと感じています。

人にはそれぞれ、”これが大切だ”と思えるものが、たとえ気づいていなくとも、なにかあるのではないかと感じています。
それは、それぞれ多様に、大切なものです。
けれどもそれが、平和(和合)を壊す要素をはらんでいるかどうかについて、ちょっとだけでも、想いを馳せてくださる方が増え、それぞれの人が、それぞれに大切なものを抱き、尊重し合いながら生きてゆける社会に、一歩でも二歩でも、近づいていくことを、心から祈りつつ、動けるときに動いていきたい、と思っています。

「”高橋さんが受洗されたときに読まれた箇所”
ヨハネによる福音書第三章十六節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

死ぬときに、自分はどう感じるのかを想像し、その際後悔しないように生きることは、すべての人にとって主要な命題ではないでしょうか。
自分自身にとって大切な価値観はなにか、真剣に考え続ける必要を感じています。




祈り
多様な心を持つ人々ひとりひとりが、理不尽な悩み苦しみ悲しみを感じることなく、お互いに尊敬し合いながら生きていくことができますように。私自身のためにもお祈りします。アーメン(そのようでありますように)