死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

”あなたがたは消えゆく霧” ヤコブの手紙4:13-14 / ”人を分け隔てしてはならない” 2:1-9 / ”行いを欠く信仰は、死んだもの” 2:14-17 / ”舌は「不義の世界」” 3:5-6

こんにちは。

今日は、新約聖書ヤコブの手紙から引用します。

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「”あなたがたは消えゆく霧”

ヤコブの手紙4章13、14節

4:13
よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
4:14
あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」

 

 

今日のこの箇所は、比較的理解しやすい箇所だと感じます。

明日以降の予定を立てるな、ということではないと思いますが、

僕たちは皆、明日生きているかどうかわからない身です。

 

最近、若い方が亡くなったニュースがいくつかありました。

 

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明日、どうなるかわからぬ身なら、今、自分の心と身体を大切にし、自らの心の声に耳を傾けることが重要なのではないでしょうか。

 

この国では、大震災の死者を軽く越える人数が毎年、自ら命を絶っていると言われています。

 

そのことに対して、なにかできることがあるとするならば、”分け隔てしない”、”多様性に寛容になる”ということくらいではないでしょうか。

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「”人を分け隔てしてはならない”

ヤコブの手紙2章1節から9節

2:1
わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
2:2
たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。
2:3
その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、
2:4
あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
2:5
愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。
2:6
しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。
2:7
あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。
2:8
しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
2:9
しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。」

 

上記箇所を、要約するなら、

物質的、精神的に富む人にも、貧しい人にも、分け隔てなく、”まず自分で自分を大切にできるようにし、またそのように他者にも接しなさい”ということだと思います。

 

社会の構成要素が多様な人々の集合体であることを理解し、それぞれ多様な性質を持つ人々ひとりひとりが、お互いに尊重し合えるよう社会を目指すべきではないでしょうか。

たとえそれが綺麗事(理想的すぎること)でも、なにかを行うことと、行わないことには、大きな隔絶があると思います。

それは、どのような人でも、自分と、自分の大切なひと、またそれに繋がる人々が平和に暮らすために、変わりない目標なのではないかと思います。

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「”行いを欠く信仰は、死んだもの”

ヤコブの手紙2章14節から17節

2:14
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:15
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

2:17
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」

 

信仰者であっても、そうでなくても、”消えゆく”ときに、自分を振り返って、どう感じるのか、考えてみることは無価値なことではないと思います。

就職活動などで人気の自己分析ではないですが、自分の主要な価値観、「自分が死ぬ時ときに、これを行っていれば後悔しないのではないか」、「自分が一週間後死ぬとしても、今していることをし続けるだろう」と思えることを、何年も、何十年もかけて探していくのが、生きていくということなのではないでしょうか。

 

その中にあって、自分の本心と異なる価値観を押し付けられ続けてしまうと、人の心の寿命は簡単に尽きます。

そういった時には、逃げること、休むことだって、立派に”生きること”だと思います。

返って、「自分にとって本当に何が大切な価値観か」に目を向けず、”生きて、死んでいく自分”について考えることから逃げている人の方が、身体は生きていても死んでいるのと同じではないか、というふうにも思ったりもします。(少し前の自分がそうだったので...。ただ、このように思わない、という方は、それも含めあなたの大切な価値観なのだと思います。)

 

ことほど左様に、人の価値観というのは多様なものだと感じます。

 

そして、下の14歳の少年の件などのように、

他者の価値観を圧し潰し、人の心を死に追いやることができるのが”言葉”です。

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「”舌は「不義の世界」”

ヤコブの手紙3章5、6節

3:5
それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
3:6
舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」

 

自殺は、望まれるものではないと、僕は思います。

本人が本当に世を去ること以外を望んでいないなら、その本人の意思を尊重するべきだ、という状況もあるかと思いますが、日本で毎年亡くなっている何万人・十何万人もの方の大部分は、「その人に何の肩書がなくても寄り添う人がひとりいれば」、「生活手段を支え受け入れる場があれば」、「”寄り添う言葉と思いが届き人と暖かく繋がれれば”」、生きていたかった人だったのかもしれません。

ほんとうのところはどうかわかりません。

それでも、そういった場をつくる必要性は、宗教が根差しておらず、内面について語り合う機会の少ない日本だからこそ、より強く感じるのです。

 

そういった場があれば、誰かを救えたかもしれない、などという傲慢なことは思えません。

けれどもし、そういう場があることで、少しでも心を軽く生きられる人が増えることがあるなら、僥倖だと思うのです。

 

そして、”場”をつくることは誰にでもできます。

ある人が、その日を生きるのに必要なモノや気力を持っていない場合、「自己責任だ」「関係ないことだ」と言わず、相手の視点を想像し、言葉と思いによって寄り添おうと取り組むこと。

まったく関係ない人相手でなくとも、今自分と繋がりのある人、身近な人に対して、少なくとも「不義の世界」をつくらないように、相手の心に寄り添えるように、思いと言葉と行いに注意を払うこと。

 

それが、場つくりなのかな、と感じています。

 

そして、僕自身、「行いを欠く信仰は、死んだもの」であることに、思いを留めていられれば、と祈っています。