死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

洗礼、信仰とは何か/ ”語るにおそく、怒るにおそく”

こんにちは。

今回は、洗礼、信仰について考えたいと思います。

先日参加した青年キャンプの集いで、人々の考え方や在り方の多様さを改めて感じました。また、身近な人に洗礼について考える機会をいただいたこともあって、このテーマにしました。

多様な論説のある部分であり、圧倒的な知識不足ではあると思うのですが、今の自分の考えを書き留めます。

今回は、ルカによる福音書10章29~36節、ヤコブの手紙ヤコブの手紙1章19~27節、ヨハネの第一の手紙3章17節、4章20節を引用します。

 

 

まず、なぜ洗礼をテーマとして扱おうとしたのかと言いますと、「洗礼を受けたらそれによって、その時点で救われる」という理解をしている人が、キリスト教にあまり触れていない人、また触れている人でも、多いように感じるからです。

僕はそうは思っておらず、「洗礼」というのは、「行い」を伴ってはじめて意義深くなると思っています。

 

この「行い」について示しているのは、「善きサマリア人」としても知られる、以下の箇所だと考えています。

 

「”信仰は行いによって”

新約聖書ルカによる福音書10章29~36節

10:29
すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
10:30
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
10:31
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
10:32
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
10:33
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
10:34
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
10:36
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」」

 

ここで、はじめにイエスに質問しているのは律法学者です。ユダヤ教の律法を管理する社会的地位の高い人々でした。(注釈:イエス・キリストユダヤ教徒として生き、死んだ、と考えられています。)

また、祭司はユダヤ教祭司です。

そして、レビ人もまた、ユダヤ教神殿の管理をしている部族でした。

しかし反対に、サマリア人は、当時異教を信じているとして迫害されていた社会的地位の低い人々でした。

しかし、ここの例えでは、最も信仰に近いはずの祭司やレビ人ではなく、サマリア人が最も高くされた者として扱われています。

つまり、行いを伴わなければ、どのような肩書があったとしても、価値があるとはされない、ということではないでしょうか。

 

この事を現代に当てはめると、~~教徒であろうとなかろうと、自分自身と他者を大切にし、相手を思いやることのできる人が、善き人とされるといえると思います。

 

キリスト教だろうと、他宗教だろうと、無宗教だろうと、人と人が共に生きていくためには、それぞれの人間が、お互いの「思い(考え方)と行い(行動)」を偏見・差別することなく受け止め、相互理解しようとすることが、大切だと感じます。

 

僕は「キリスト教における洗礼」は、「教会(信徒の集まり)に繋がる儀式」であるとともに、「「信仰にもとづいた行いをしていきます」という”形の上”での信仰告白」だと思っています。

つまり、「洗礼」を受ければそれで全てが解決するのではなく、「思いと行いを伴って」、「生きるとはなにかを考え続け、試行錯誤し、実践し続けて」はじめて、信仰として生きてくるのだと考えています。

 

 

ヤコブの手紙1章26節の箇所にも、「行いをともなわない信仰は死んだもの」だとする箇所があります。

 

「”他者や自分の心を傷つけることは不信仰”

ヤコブの手紙1章26節
1:26

もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。」

 

僕もそのようであると思います。

また、上に記した、「善きサマリア人」の教えは、以下のような箇所にも表されていると感じます。

 

「"人を大切に思わない言葉と行いは不誠実”

ヨハネの第一の手紙3章17節

3:17
世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」

ヨハネの第一の手紙4章20節

4:20
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」

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 ヤコブの手紙1章19~27節を引用します。

「”語るにおそく、怒るにおそく”

ヤコブの手紙1章19~27節

1:19

愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

1:20

人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

1:21

だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(平和への想い)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

1:22

そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

1:23

おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。

1:24

彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

1:25

これに反して、完全な自由の律法(自分を愛し隣人を愛せ)を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

1:26

もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。

1:27

父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

 

僕はこの箇所の「御言(みことば)」という言葉を、「平和に向かう想い・言葉・行い」だと考えています。

そして「平和に向かう想い・言葉・行い」とは、「自分の価値観をしっかり大切にした上で、他者の価値観を受けとめ、互いを尊重して話すこと・動くこと」だと思っています。

 

これは、言うのはすごく簡単ですが、完全に実践することは不可能だと、僕は思っています。

なぜなら、自分の価値観・考え方・心を100%理解することは不可能だと思いますし、その十分には理解できていない「自分の心」を通して見る、「他者の価値観・考え方・心」に対する理解も、(どれだけその人に向き合い、長い時間を過ごし、話を聞いたとしても)不十分なものであると思うからです。

 

だからといって、他者を理解することを放棄していては、コミュニティ(”社会”もそのひとつ)は崩壊してしまいます。

自分や他者を100%理解することは不可能であっても、理解に近づくことは可能だと思います。

 

そのためには「多様性への寛容」という姿勢が大切だと思っています。

「相手の考えを否定しないこと」

「話し合いをしているときにお互いが感情的にならないよう努力すること」

「相手の人種・性別・文化その他あらゆる違いに対して偏見・差別をもって見ないこと」

「他者の多様性を理解するために、まず自分がどういった価値観であるか理解するよう努め続けること

(自分にとって生きる上で何が大切か、何に精神的負荷を感じるか、など。それらを理解することで、多様な価値観が存在する世界の中で、自分の立ち位置をある程度測り、客観的視点(他者の価値観への理解)を獲得しやすくなると思います。)。」

 

上記したもの以外にも、大切なことはきっとたくさんあると思います。

けれど、「自分の価値観をしっかり大切にした上で、他者の価値観を受けとめ、互いを尊重して話すこと・動く事」の具体的なむずかしさについて、書きたくて、一例として挙げました。

 

今の社会は、一時的であれ慢性的であれ、心弱められた人の存在を見ないように見ないように、必死でしている(してきた)ような気がします。

けれど、人と人は、助け合った方が生きやすいんではないでしょうか。

心弱められた人を見ないようにした結果が、自殺大国の称号であり、また、内面について語り合う場が極端に少ない環境をつくりだしてしまったのではないでしょうか。

 

僕は、宗教であろうとなかろうと、(すべての人が、人生においておそらく一度以上味わう)心弱められる出来事・現象があったとき、安心して集い、自分の心の内(本音)について話すことができる場がもっと増えたらいいなと思っています。

 

toianna.hatenablog.com

 

 

www.nikkansports.com

 

こういった記事を読んでいますと、何が「善い」のか、考えさせられます。

けれど僕は、少なくとも、価値ある指標は「人の心」であって、「金銭」ではないと思うのです。

 

okite.hatenadiary.jp

 

行いを伴う信仰を。

行いを伴う生き方を。

 

 

祈り

思いと言葉と行いをすべて「善い(自分の心、他者の心を大切にする)」とされるようにすることは、とてもできないと思います。それでも、自分自身を、他者を、否定することができるだけ少なく、生きていけるようにさせていただけますように。見えるもの(金銭など)ではなく、見えないもの(人の心、人との繋がり)に目を注げますように。あなたによって慰められ、慰められるよりも慰めるものであれますように。