死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

生き方、子を持つことについて / ツイッター備忘録

こんにちは。

少し間が開いた更新になってしまいました。

教会関係の集まりに2泊3日で参加していました。

 

今回も、ツイッターからの引用なのですが、また明日からはもう少し分量のある内容の記事を書いていけたらな、と思います。

 

 

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チラッとキモくて金の無いおっさん話が出たので、ついでに。俺は自分のことをそれなりに社会的弱者だと思ってるけど。自分よりしんどい思いをしながら日々生きてる人も当然居るだろうことも想像はしている。

で、その中で「世の中にはもっと辛い思いをしている人が居るんだから、俺なんて」みたいな考え方には意味が無い、と思っている。俺が自分のことを「弱者」と思っていて、時折「虐げられている」と感じていることに嘘はないからだ。そこを自分で否定する必要は無い。

しんどみ、境遇の困難さを相対的に判断して「自分は大したことない」と結論付けると言うことは、自分から見て『相対的に自分より楽な境遇だと感じた相手』を軽んじることになるからだ。俺には俺ののっぴきならない苦労が、その人にはその人の如何ともしがたい苦労がある。

皆しんどいのだ。それを「お前は男だから」「女だから」「お前はモテだから」「リア充だから」「既婚者だから」「お前は白人だから」「高額納税者だから」と相対ランクを付けて、相手のしんどみを否定することには意味が無い。

そう言う相対的しんどみランキングに相手を乗っけた時点で、自分も別の誰かにランキングに乗せられて、己の代え難いしんどさを「お前の苦労などたかが知れている」と否定されることになる。どんな状況の者だろうと上には上が居るし、下には下が居るのだから。

「俺はキモくて金の無いおっさんだから辛いし、あんたは女だから辛い。お互い、もっと生き易い世の中になったらいいですね。作っていけたらいいですね」くらいのスタンスをね、大事にしていきたい。自分の苦しみは自分だけのものなんだから。だからこそ、他人の苦しみも尊重しないと。

猫柳墓場@NM_amidaさん

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いくつもの暖かい出会いに感謝します。

今悩み苦しみ悲しみを抱えている人のもとに、安らぎと慈しみがありますように。 

 

 

 

生きる速度、映画「沈黙」を見て / ツイッター備忘録

 こんにちは。

 

今日は、twitterから、僕のツイートとリツイートを少しだけ記そうと思います。

 

 

本来、自立というのは、自分のために手をかけてもらった、本当に心から安心してくつろげる場所がある、という気持ちをしっかり持てたときにできるのです。安心できる場所、くつろげる場所というのは、そういう居場所を用意してくれる人との安心できる関係が根本にあるということです。

佐々木正美さん名言集@sasakimasamibot

 

今のあなたがしなければいけないのは、偽りの自分も本当の自分も、どれも自分なのだと認める事です。駄目な自分を許し、愛することです。生きることは罪を重ねることだと言います。失敗のない人はいません。欠点のない人はいません。自分をあまり厳しく採点しないことです。

原敬bot@kiiroitori2014

 

がんばってやらないと...!とか急いで努力しないと...!ってなった時は、「どうせ死ぬまでの暇つぶしなんだから、心地よい速度でゆっくりやろう」と思い直す。

羊@Sheltie_s_sheep

 

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以下「沈黙(サイレンス)」を見て、感想。

 

沈黙見た。他にいい言い方が思いつかないが、形に拘りすぎることも愚かだし、他者の考えを捻じ曲げようとするのも愚かだと感じた。言葉も行動も、何をしても何を言っても、必ず間違いが起こるなら、それぞれに信ずる思いと、相互理解の姿勢を持っていれば、それがよいんでないかな...。

 

→信ずる思いっていうのは、今宗教とされているものだけじゃなくて、親友とか、大切だと感じる思い、こう在りたいっていうものも含めて。

羊@Sheltie_s_sheep

 

 

安らぎと慈しみがあることを祈って。

May keep my and your heart calm.

 

すべて、疲れた人、 重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。 (マタイ 11章28節)

引用:「彼女は『死にたいと思ってた』って言ってるわけでしょ。そういう人に『仕事の責任を取っていないからやめるな』というのは、俺はちょっと違うと思う」

清水富美加への「仕事放棄」批判に異論 伊集院光「『死にたい』と言っている人に...」”
https://t.co/1RFXqogWwJ
headlines.yahoo.co.jp

こんにちは。

今日は心が疲れているので、み言葉を覚えるだけにさせてください。



すべて、疲れた人、 重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。

(マタイ 11章28節)



恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

イザヤ書41章10節より)


わたしの目には、あなたは高価で尊い。

わたしはあなたを愛している。

イザヤ書43章4節より)


兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、 尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

(ローマ人への手紙 12章10節)
互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、 かえって身分の低い者に順応しなさい。

自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

(ローマ人への手紙 12章16節)


みなさまのもとに、安らぎと慈しみがありますように。

”あなたがたは消えゆく霧” ヤコブの手紙4:13-14 / ”人を分け隔てしてはならない” 2:1-9 / ”行いを欠く信仰は、死んだもの” 2:14-17 / ”舌は「不義の世界」” 3:5-6

こんにちは。

今日は、新約聖書ヤコブの手紙から引用します。

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「”あなたがたは消えゆく霧”

ヤコブの手紙4章13、14節

4:13
よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
4:14
あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」

 

 

今日のこの箇所は、比較的理解しやすい箇所だと感じます。

明日以降の予定を立てるな、ということではないと思いますが、

僕たちは皆、明日生きているかどうかわからない身です。

 

最近、若い方が亡くなったニュースがいくつかありました。

 

www.msn.com

 

www.asahi.com

 

 

togetter.com

 

明日、どうなるかわからぬ身なら、今、自分の心と身体を大切にし、自らの心の声に耳を傾けることが重要なのではないでしょうか。

 

この国では、大震災の死者を軽く越える人数が毎年、自ら命を絶っていると言われています。

 

そのことに対して、なにかできることがあるとするならば、”分け隔てしない”、”多様性に寛容になる”ということくらいではないでしょうか。

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「”人を分け隔てしてはならない”

ヤコブの手紙2章1節から9節

2:1
わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
2:2
たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。
2:3
その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、
2:4
あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
2:5
愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。
2:6
しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。
2:7
あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。
2:8
しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
2:9
しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。」

 

上記箇所を、要約するなら、

物質的、精神的に富む人にも、貧しい人にも、分け隔てなく、”まず自分で自分を大切にできるようにし、またそのように他者にも接しなさい”ということだと思います。

 

社会の構成要素が多様な人々の集合体であることを理解し、それぞれ多様な性質を持つ人々ひとりひとりが、お互いに尊重し合えるよう社会を目指すべきではないでしょうか。

たとえそれが綺麗事(理想的すぎること)でも、なにかを行うことと、行わないことには、大きな隔絶があると思います。

それは、どのような人でも、自分と、自分の大切なひと、またそれに繋がる人々が平和に暮らすために、変わりない目標なのではないかと思います。

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「”行いを欠く信仰は、死んだもの”

ヤコブの手紙2章14節から17節

2:14
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:15
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

2:17
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」

 

信仰者であっても、そうでなくても、”消えゆく”ときに、自分を振り返って、どう感じるのか、考えてみることは無価値なことではないと思います。

就職活動などで人気の自己分析ではないですが、自分の主要な価値観、「自分が死ぬ時ときに、これを行っていれば後悔しないのではないか」、「自分が一週間後死ぬとしても、今していることをし続けるだろう」と思えることを、何年も、何十年もかけて探していくのが、生きていくということなのではないでしょうか。

 

その中にあって、自分の本心と異なる価値観を押し付けられ続けてしまうと、人の心の寿命は簡単に尽きます。

そういった時には、逃げること、休むことだって、立派に”生きること”だと思います。

返って、「自分にとって本当に何が大切な価値観か」に目を向けず、”生きて、死んでいく自分”について考えることから逃げている人の方が、身体は生きていても死んでいるのと同じではないか、というふうにも思ったりもします。(少し前の自分がそうだったので...。ただ、このように思わない、という方は、それも含めあなたの大切な価値観なのだと思います。)

 

ことほど左様に、人の価値観というのは多様なものだと感じます。

 

そして、下の14歳の少年の件などのように、

他者の価値観を圧し潰し、人の心を死に追いやることができるのが”言葉”です。

www.asahi.com

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「”舌は「不義の世界」”

ヤコブの手紙3章5、6節

3:5
それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
3:6
舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」

 

自殺は、望まれるものではないと、僕は思います。

本人が本当に世を去ること以外を望んでいないなら、その本人の意思を尊重するべきだ、という状況もあるかと思いますが、日本で毎年亡くなっている何万人・十何万人もの方の大部分は、「その人に何の肩書がなくても寄り添う人がひとりいれば」、「生活手段を支え受け入れる場があれば」、「”寄り添う言葉と思いが届き人と暖かく繋がれれば”」、生きていたかった人だったのかもしれません。

ほんとうのところはどうかわかりません。

それでも、そういった場をつくる必要性は、宗教が根差しておらず、内面について語り合う機会の少ない日本だからこそ、より強く感じるのです。

 

そういった場があれば、誰かを救えたかもしれない、などという傲慢なことは思えません。

けれどもし、そういう場があることで、少しでも心を軽く生きられる人が増えることがあるなら、僥倖だと思うのです。

 

そして、”場”をつくることは誰にでもできます。

ある人が、その日を生きるのに必要なモノや気力を持っていない場合、「自己責任だ」「関係ないことだ」と言わず、相手の視点を想像し、言葉と思いによって寄り添おうと取り組むこと。

まったく関係ない人相手でなくとも、今自分と繋がりのある人、身近な人に対して、少なくとも「不義の世界」をつくらないように、相手の心に寄り添えるように、思いと言葉と行いに注意を払うこと。

 

それが、場つくりなのかな、と感じています。

 

そして、僕自身、「行いを欠く信仰は、死んだもの」であることに、思いを留めていられれば、と祈っています。

 

死について、前向きでも後ろ向きでもなく、考える / 「死をどう生きたか」から、一部書評

こんにちは。
前の記事で引用した「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」の高橋敏雄さんのお話から、僕が感じ、考えた所感を書いていきたいと思います。


(以下「」内は、「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」110頁以降から引用)
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「いや、これは真剣で、真面目な質問なんだよ。近頃考えているのだけれど、人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。とくに、これこれと話をしたわけでないが、毎日の生活を見ていると、明るくて、なにかに支えられて、だれかといっしょにたのしんで仕事をやっているように見えるよ。なにごとにも耐えてゆけそうなところなど、うらやましいほどだ。僕にもすこしわけてもらいたいと思うよ」

なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」
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この部分で高橋さんは、「人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。」と仰っています。

生きる目的。
僕はそれは、死に際して、
”生きている間、自分にとってできるだけのことはやれたのではないか。もともと人間にできることなんて一切何もないのに、それでもあのことは、私にとって唯一、神の御前にあっても誇れることだといえるかな。私の心を支え、生涯共に歩んでくださった方に、諫められることもきっと多いだろうけど、それでもあのことは、喜んでいただけるだろう。”
と思って死ねることなのではないか、と思っています。
神や、人知を超えた存在に、会えることや、救われることが大切なのではなく、そう”思える”ことが、僕にとっては大切なのだと感じています。


人間が、他者の心を100%わかることはあり得ないと感じます。
自分が相手にかけた言葉ひとつ取っても、その言葉が相手にどのように受け止められ、救いとなるか悲しみとなるか、そんなことさえ、人間にはわからないのだと思います。
その時の相手の心の状態、周りの環境、心身の状況、それら全てを鑑みて、行動し、発言できるなら、それはもう人間の能力を超えていると思います。

人間は、他者の気持ち、心を完全に理解することはできません。
つまり、自分が相手を思って言った言葉、相手を罵倒しようとして放った言葉、それらが、真反対に作用することだってあります。
結局、自分の心も他者の心も完全に理解することができない”人間”が、真に理解できることなんて、何もないのだと思います。
科学でも、道徳でも、物質でも、物質以外のものでも。

僕たちは、自分の持つ考え・価値観(心の一部)によって世界を見ています。
その考え・価値観を根底から支える”心それ自体”がはっきりとわからない以上、何かをわかったつもりになっても、それはその時”わかったつもりになっている”それ以上でも以下でもないのだと思います。


人間に、完全に理解できることなんて何もない。
しかしそれでも、理解しようとして、理解に近づくことはできると思います。

そして、人は人に、理解しようとしてもらいたい、と思う生物ではないでしょうか。


なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」

桑原さんのこの言葉は、
”人間には、なにもわからないけれど、絶対的な力がある、と信じて、人知を越えた方の平和を信じて、自分にできることをさせていただこうと、自分のすべてを、自分が信ずる方の御手に委ねている”
ということを意味しているのではないか、と思うのです。
だから彼女は、毎日の生活にあって、心の中でだれかに支えられて、だれかといっしょに、毎日をすごせていたのではないでしょうか。



私たちには、なにもわからない。
けれども、なにもわからないままで生きていくことなんて、とてもつらくてかなしくて、苦しくて、むつかしいことだと感じます。
だから、心の平和に通ずる、自然や、人と人との暖かい繋がりなどから感じることのできる、”人知を越えたなにか”を信じて、自らを委ね、平和に向かって1ミリでも2ミリでも、何かすることができたら、と僕は思うのです。桑原さんも似たお気持ちだったのかな、とここを読みながら感じました。


「はい、私ではなにもできませんが、ごいっしょに聖書をすこしずつお読みいたしましょう」

この部分にも、人間存在の絶対的な無力性について、述べられていると感じました。
”私ではなにもできませんが”、それでも導き・巡り会わせ・御力によって、あなたの心に寄り添うことができたら、それは天の宝(人と人との暖かい繋がり / treasures on high)になるかもしれないと、信じたく思うのです。
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「桑ちゃん、おれはこのごろとても淋しいんだ。なんともいいようがないが、とても淋しくて不安だ。いてもたってもいられない気持だよ。ひょっとすると、僕は気がくるうかもしれないよ、どうにかして生きている意義を知りたい。いま死ということに真剣にとりくむ必要を感じだしたんだ。どうしたらよいのか、どうしたら神を知ることができるのだろう。このあいだから思っているのだが、人間の業とはなんだろうか。あきらめというか、悟りという言葉を正確に自分のものにしたいから、しらべてみてくれたまえ。なんとかしてこの不安な気持からぬけだしたい。もし病気で死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ


ここで高橋さんが仰られていることを僕は、振り返ってみれば物心ついたときから、ぼんやりとではありますが意識していました。

生きることとはなにか。
考えずにはいられないけれど、それについて考え続けることは、無限の寂寥感と対峙することでした。
本当に、気が狂ってもおかしくない、といいますか、気が狂ってしまったほうが楽なのではないか、と思うことは、今もたびたびあります。

死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ

確固とした”生きる意義”となるもの(感動や心の暖かさを感じることと、同義の部分もあるかもしれません)は、
目に見えるもの、人間に理解できると感じられるものにはない、と思うのです。

僕は、なんらかの導き・巡り会わせ(偶然とも呼ばれているもの)のちからを近くに感じることによって、今の道を選ぶことができ、生きつづけることに、多少の意味を見いだせるようになりました。
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「私は何のために生まれて生活して来たのだろうか。こうして静かに、過ごして来た人生を思い出してみると、みんな利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しいよ。生涯を顧みて、これといって何一つよいことは出来なかった。」


何のために生まれて生活してきたのか、と感じることは、ほとんど僕の常といってもよいことです。
何か楽しいことや嬉しいことがあったとき、確かに喜ぶ自分がいます。しかし、それは一過性のものであって、ひとりになったり、つかれたりすると、”生きていく必要は、どこにあるんだろうか”と、切なさと寂寥感に包まれることがたびたびあります。

僕は、死ぬことは、安らぎと近似の事象だ、と思う価値観を持っています。(キリスト教的に言いますと、死は御許に帰る故に安らぎであると考えられています。けれど、僕はキリスト教に触れる前から、生きるつらさゆえに死は安らぎと近似だ、と感じていました。)
しかしそれでも、死ぬに際して、できれば「利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しい」ではなく、”自分に与えられたことに、ひとつでもふたつでも応えることができた”と感じて死ぬことができたらな、と今の道を知ってから、思うようになりました。
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「いろいろ考えると、自分の生きているのが申訳ないのだよ。多くの人のぎせいによって、今の私は生かされているのだから、そのことから考えても、真実を探り出して、より正しく生きねば皆に申しわけないのだよ。」


僕は今日もこうして、電車に乗り、帰って、屋根のある家で暖かいご飯を食べて、暖かい布団で眠ることができます。
けれど、そうではない、理不尽な暴力や圧力に苦しみ続けている人も多くいます。

そのすべてに寄り添うことは、不可能です。
けれど、僕の人生において、ひとりでも、”あなたが居てくれてよかった”と言っていただくような、僥倖中の僥倖があれば、僕もまた、生きていたことはその時点では無駄ではなかったのかもしれない、と感じられると思うのです。
そういうことを続けていけるか、うまくいくかはわかりません。けれど、その為のみに、生きていてもよいかもしれないなと、今は思っています。
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「今迄は仕事がいそがしくて、庭の木々や草花に目をくばる心の余裕がなかったけれど、病気をしてとくしたことのひとつは草花の美しさを通して、そのたくましい生命力にはげまされ、おどろかされ、人間の力の及ばぬ世界があることを教えられ、花を見ながら、よろこびが溢れるのを覚えることですよ。」

理解できないものが多いが、私が知らない大きな世界がいくらでも広がっている。私が知らなかっただけで、自分を超えた大きな力がいくらでも広がっている。なぜもっと早く心を開かなかったのだろうかと思い残念でたまらないよ」


僕は、自然や音楽、自分の内面、神様に向き合うとき、死の求心力から少し距離を置くことができます。
考えてみると、自分は何のために生きて来たのか」という思いから少し距離を置くことができます。

そして自分の内面や意識、価値観や考え方などに、しっかりと向き合い、少しだけ自分について理解した上で、自分の心を他者に開き、恵まれて”人と人との暖かい繋がり”を感じることができたとき、「よかったよかった。こんな良い日を迎える事が出来て、やっぱり生きていてよかった。」という思いが、僅かながら湧いてきます。

今の道を志してから、そのように自分の内面の声を聞くことで、上記のような想いを感じられることが格段に増えました。
これまでは自分が、希死念慮を併せ持つ自分の心に真剣に向き合うことから逃げていたので、当たり前と言えば当たり前なのですが。

僕には、特になにもできることはありません。
けれどふたつのこと、自分と似た苦しみを覚える人に寄り添う努力をすることと、場を作る努力をすることは、(常に全力で取り組むことはきっと不可能ですが)、生きていく上で唯一、主(絶対的ななにかの存在)の御力に縋っておこなってみたいと思えることです。
生きていく上、生きていく目的に取り組む上で、まず自分の心と身体を護ること、それから、他者に平和の御旨を為せるよう考えて、思いと言葉と行いに注意を払うことが、僕にとって大切なことだと感じています。

人にはそれぞれ、”これが大切だ”と思えるものが、たとえ気づいていなくとも、なにかあるのではないかと感じています。
それは、それぞれ多様に、大切なものです。
けれどもそれが、平和(和合)を壊す要素をはらんでいるかどうかについて、ちょっとだけでも、想いを馳せてくださる方が増え、それぞれの人が、それぞれに大切なものを抱き、尊重し合いながら生きてゆける社会に、一歩でも二歩でも、近づいていくことを、心から祈りつつ、動けるときに動いていきたい、と思っています。

「”高橋さんが受洗されたときに読まれた箇所”
ヨハネによる福音書第三章十六節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

死ぬときに、自分はどう感じるのかを想像し、その際後悔しないように生きることは、すべての人にとって主要な命題ではないでしょうか。
自分自身にとって大切な価値観はなにか、真剣に考え続ける必要を感じています。




祈り
多様な心を持つ人々ひとりひとりが、理不尽な悩み苦しみ悲しみを感じることなく、お互いに尊敬し合いながら生きていくことができますように。私自身のためにもお祈りします。アーメン(そのようでありますように)

「死をどう生きたか」 - 生涯公務に奔走した高橋敏雄さんと、付添い婦の桑原末子さんとの手記

こんにちは。

少しずつ読み進めています「死をどう生きたか」の中で、今日は特別うつくしいと思うと同時に、僕の想いと重なる部分があった箇所を、かなり長いですが、引用したいと思います。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」日野原重明先生著、p111から引用いたします。とても長いですが、この部分を全部引用したくなるほどに、僕はこの手記のうつくしさと人の心の交流に心打たれました。

 

注釈)高橋敏雄さんは、東京帝国大学を卒業した後、内務省宮内省、厚生省などで働かれた方で、逝去の2週間前までは無宗教だった方です。桑原末子さんは、目が見えづらくなり、身体の自由も利きづらくなっていた高橋さんの最後を付添いお世話された付添い婦で、クリスチャンの方です。

 

(以下、「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」日野原重明先生著、p110から引用)---------------------------------

高橋さんが受洗されたきっかけについては、節夫人は私との人間的な交りのためといわれていたが、お宅や病院で世話をされた付添い婦の桑原末子さんの影響が大きかったことが、死後一年たって出された高橋敏雄さんの追悼録にかかげられた「看護覚え書」と題する、桑原末子さんの手記によってわかった。次の文がその内容である。

「桑ちゃん、私(高橋さん自身のこと)は前から一度聞いてみたいと思っていることがあるんだよ」

「なんでしょうか。私にお答えできることでしたらよいのですが」

「僕は、桑ちゃんをつくづく見てきて思うのだけれども、毎日毎日、家事いっさいをくるくるやって、病人の世話から庭の草花の手入れ、猫や犬や、みんなあなたの手をとることばかりつづいているのに、一日も休みもせず、外出するでもなく、疲れもみせず、ぐちもいわず、毎日明るくすごしているのには、なにか秘密でもあるのだろうか。一度あなたとゆっくり話してみたいと思っていたんだよ」

「あら、秘密なんてとんでもありませんわ」

「いや、これは真剣で、真面目な質問なんだよ。近頃考えているのだけれど、人が生きるというのは、なにか目的があって、そのことのために生きる人生なら最高にしあわせなんだね。桑ちゃんを見ているとそんな気がするよ。とくに、これこれと話をしたわけでないが、毎日の生活を見ていると、明るくて、なにかに支えられて、だれかといっしょにたのしんで仕事をやっているように見えるよ。なにごとにも耐えてゆけそうなところなど、うらやましいほどだ。僕にもすこしわけてもらいたいと思うよ」

「なにもわからないけれども、幼な子のように素直に十字架の救いだけを信じて、主の御手にゆだねきって生きるだけなんですよ」

「それなんだよ。どうしたらそういう気持になれるのか、そればかりこのごろ考えるようになったんだよ。それでね、いまからではおそすぎるかもしれないが、僕の理解できるところまで究めつくしてみたいと思うのだ。どうしたら神を知ることができるのだろうか。たのむからすこしずつ教えてくれないか」

「はい、私ではなにもできませんが、ごいっしょに聖書をすこしずつお読みいたしましょう」

「ううん、たのむよ。それから、ミレーの絵で、農夫が夕べの祈りをしているのがあるでしょう。あの敬虔な祈りの姿に心をひかれるから、ぜひあの絵を買ってきて部屋にかけてくれ」

私は、だんな様に神様の導きと祝福を祈りつつ、静かに寝についた。

 

その後数ヶ月、私たちは聖書を少しずつ読んですごした。ある日、だんな様は、悲しみをこめて話しかけられた。

「桑ちゃん、おれはこのごろとても淋しいんだ。なんともいいようがないが、とても淋しくて不安だ。いてもたってもいられない気持だよ。ひょっとすると、僕は気がくるうかもしれないよ、どうにかして生きている意義を知りたい。いま死ということに真剣にとりくむ必要を感じだしたんだ。どうしたらよいのか、どうしたら神を知ることができるのだろう。このあいだから思っているのだが、人間の業とはなんだろうか。あきらめというか、悟りという言葉を正確に自分のものにしたいから、しらべてみてくれたまえ。なんとかしてこの不安な気持からぬけだしたい。もし病気で死ぬことになったとき、満足とまではいかなくても、なんとか自分で納得して、生きてきた意義をつかんでから死にたいと思うよ。体中が痛んで苦しいし、不安だし、できるならなにか絶対的な力にすがりたいよ

「そうですか。そうでしたら私どもの教会の長老で林道夫さんという方ですが、長いあいだ病床で苦痛と戦いながら、なお主の愛を証され、病気を神様にゆだね、み言葉をとりついでいらっしゃる方がありますよ。聖路加病院に入院していらっしゃるのですが、看護婦さんがその明るい闘病におどろいているそうです。一度お便りでもさしあげて、その明るさを教えていただきましょうか」

「うん、ぜひたのむよ。できるならばキリスト教のイロハから教えてもらいたいよ」

「はい、私が洗礼を受けたとき、とても喜んでくださった方で、安田銀行につとめた方です」

「ほう、ぜひ教えを受けたいね」

「短歌もよくなさる方だそうですから、そのほうからもよい友人になっていただけますよ。この方こそほんとうのクリスチャンと思いますから、ぜひ導いていただきましょう」

「うん、僕はとてもクリスチャンにはなれないかもしれないが、なんとかして一歩でも神の救いに近づきたいよ。もう間に合わないかもしれないけれどね」

「とんでもない、救いとは信ずることなのですよ。信ずるということは、信頼するということ、よりたのむということ、幼児のように素直に神によりかかることです」

「そうかい、でもこれからでは時間がたりなくて、そんなに素直に神を受け入れられないだろう。なんとか元気になって救われたいね」

「大丈夫ですよ。だんな様と大どろぼうをごいっしょにして申訳ないのですが、キリストが十字架につかれるときに、ともに死んだ罪人が、主よ私を覚えてくださいとたのんだ、そのたった一つの言葉、その信頼心をよしとされて、”よくいっておくが、あなたはきょう、わたしといっしょにパラダイスに入るであろう”とおっしゃったほどです。時間にしたら一分か二分。キリストの救いは時間の長短ではありません。信頼することが信仰ですよ」

「そうかい、ぜひたのむから、いろいろ教えてくれ、一歩一歩道を進む心でいるよ。あなたの教会の渡辺牧師にもお便りして、いろいろ教示をたのんでみたいと思うよ」

「はい、お電話して、お願いしてみましょう。きっと喜んでくださいますよ」

 

高橋さんの告白

このような会話のあったあと、何日かして、高橋さんと桑原さんとのあいだには次の言葉が交わされたことを、桑原さんは、彼女の所属する中野教会の月報「証人」に寄稿している。

「私(高橋さん自身のこと)も長いこと、いろいろの仕事をしてきたけれども、今こうして病床で思い出してみると、何一つ満足できることはしてこなかった。私は何のために生まれて生活して来たのだろうか。こうして静かに、過ごして来た人生を思い出してみると、みんな利己のために、せっかくの肉体をいたずらに消耗して来たように思われて淋しいよ。生涯を顧みて、これといって何一つよいことは出来なかった。それどころか、とりかえしのつかない罪を犯したということを思うとたまらない。仕事の上でいろいろ自分の意思に反して、国家的見地と官吏という立場から、多くの罪を犯して来た事も反省しているのだ。特に島田君にはすまないと思って、今でも遺族に申し開きができないのだよ。昭和二十年私が人事課長の時、もちろん私個人の意思でなく、上司の命令だったが直接には、私が数ヶ月後には死なねばならぬ任地であることを充分知りながら、最後の沖縄県知事として、島田君に発令したのだよ。まるで死んでくれといったのも同然だったが、”命令ならば受けます。どうしても誰かが行かねばならないとすれば、私が”と言って赴任してくれたのだ。僕はつらくてとても苦しんだ。死にに行けと命令を下したんだから。いろいろ考えると、自分の生きているのが申訳ないのだよ。多くの人のぎせいによって、今の私は生かされているのだから、そのことから考えても、真実を探り出して、より正しく生きねば皆に申しわけないのだよ。しかし、今度病気をしたことによって、自分の進むべき道がみつかりそうです。病気という近道をして、神様の救いにあずかれると思うよ。今迄は仕事がいそがしくて、庭の木々や草花に目をくばる心の余裕がなかったけれど、病気をしてとくしたことのひとつは草花の美しさを通して、そのたくましい生命力にはげまされ、おどろかされ、人間の力の及ばぬ世界があることを教えられ、花を見ながら、よろこびが溢れるのを覚えることですよ。今まで西洋音楽など大きらいだったのに、私が眠れない時、桑ちゃんが、ステレオで聞かせてくれるシューマン、バッハ、ベートーベン。トロイメライ、アベマリア、オラトリオ、など。理解できないものが多いが、私が知らない大きな世界がいくらでも広がっている。私が知らなかっただけで、自分を超えた大きな力がいくらでも広がっている。なぜもっと早く心を開かなかったのだろうかと思い残念でたまらないよ

「そうですか、いつか私と庭仕事をして、枯れたランの植木の鉢を五、六個、うら庭にかたづけた時、新しい生命のいぶきにおどろかれたことがありましたね、そして二人で何かの歌をつくったでしょう」

「そうそう、そんな事があったね。あの歌はどのようだったかな。

  枯れはてし ランを鉢より取り出せば 思ひかけずも 新芽ふきをり

 というものだったと思うが、桑ちゃんのは、最後が”神の声きく”といったようだったね。私がうっかり枯らしてしまったランの鉢にも、ゆずり葉のように新しい命が生きている。そこに神の摂理を見るという意味を含んだ歌だったように思うよ。僕は桑ちゃんのように信仰を持っていないから、神の声とは気がつかなかったね」

(このあとに、桑原さんがたまたま同席してメモした高橋さんと水池亮氏との会話の記録がつづく。水池さんは高橋さんとは一高、東大の同級生、内務省も同期生で、無二の親友。)

「よう、水池君。よく来てくれた。もっとよく顔を見せてくれ」(だんだん視力がおとろえてきた)

「どうしたんだい、高橋。おれはここにいるぞ」

「水池君、君に話しておかなければならないことがあるのだよ。それは、今度キリスト教を信ずることにしたよ。いろいろ君も知っている通り、ずいぶん苦しんだんだよ。そうだなぁ、純粋な気持になって生命の糧として聖書を学び、これだと確信がもてたから信仰にふみきったよ。一切を神にゆだねるよ。心の底からキリストにひきつけられたよ。考えてみると、自分は何のために生きて来たのか、自分の人生はつまらないものだった。何一つよいこともできなかったね」

「そんなことはないぞ。君は日常、他人の陰口をいっさい口にしなかったろう。それは厳しいほど僕の心をうったよ。君は他人の短所をいわず、自分の長所も語らぬ人間だった。人にいやみを感じさせない積極性をもって仕事に打ち込む。君はすばらしかったよ」

「なあに、心の悩みは自分だけのもので、自分にしかわからないものさ」

「そうかい」

「今はね、真実が何かはっきりわかったから、神に己れの生と死をすべてゆだねるよ。人間に一番必要なものは何かということがわかったよ」

 

高橋さんの受洗

高橋家の宗旨は仏教であったが、高橋さんは仏教はむつかしくてわからないといわれていた。また以前に、宮内省勤務となったときには、神道を勉強されたという話も聞いたことがある。その高橋さんが洗礼をうけられることになったのであるが、昭和四十二年十月二十九日の受洗のあと、節夫人とのあいだの会話を、桑原さんはこう書いている。

 

「桑ちゃん、前からそういってたから、私(節夫人)もパパはその頃に受洗するかと思っていたのよ」

「きっと日野原先生が病気を見ていて、洗礼を受ける日を早められたのかも知れませんから、これからは、ゆだんなく、一生懸命に看病しなければいけませんね」

「そうね、パパがいつも、永遠の生命に間に合うことを気にしていたから、いそいでしていただいてよかったのでしょう。先生が一ばん良い日を選んで下さったのでしょう」

「はじめに日野原先生の所属の教会の田口牧師がお祈りして下さって、聖書のヨハネ福音書三章十六節を読んで下さって、洗礼を受けたの。パパはとても喜んで、その洗礼盤を手に受けて、しばらくなででみていたのよ、そして”これで僕も、ほんとうの神の子になったのですね”と何度も田口牧師に念をおして、あいづちをもとめてました。そして涙で目が見えないから、私に涙をふいてくれと言ってね、日野原先生が”さあ、永遠の命につながりましたよ。私と兄弟になりましたよ”といわれると、”よかったよかった。こんな良い日を迎える事が出来て、やっぱり生きていてよかった。桑ちゃんが来たら、新しい讃美歌をならうぞ”と言って眠ってしまったの」

「そうですか、大事な時にいなくてすみません」

「いいえ、あなたには九月以来無理ばかりしてもらってるから、すこしずつパパが落ち着いたので、日曜日の半日ぐらい私がかわろうと思ったのよ。だけど急に呼び出して、かえってわるかったわ、あっお目が覚めましたよ」

「だんな様、受洗おめでとうございます」

「ありがとう。桑ちゃんが帰って来たのなら、もう安心だ。洗礼を受けさせてもらったよ。みんなあなたのおかげだよ。あらためてお礼を言うよ。これからもよろしく頼むよ。なにも知らないから、1つずつ教えておくれ。お祈りの仕方もわからなくてはならないし」

「はい、少しずつ、ごいっしょに学んでまいりましょう」

「ほんとうに頼むよ。何しろ今日生れたばかりの赤ん坊だからね」

受洗の喜びと、新しい生命を与えられたという喜びがいっぱいで、高橋様は夜になっても眠ることができず、いろいろの抱負を夜おそくまで語られておりました。

・・・・・・

「桑ちゃんの顔がよく見えないのだけれど、どうしたんだろう、私はもう死んでしまったのか、たのむからもう一度見えるようにしておくれ、今は朝かな夕かな、何時ですか」

「ハイ、今は夜中で真暗なのですよ。暗いから見えないのですよ。安心してお休み下さい。朝になったらきっとゆり起こしますから、安心してねてください」

「そうか、そんならよいが、何も見えなくなったと思ったよ。じゃあ大丈夫だね。神様はいるんだものね」

「ハイ、そうですよ」

「枕の下に林さんのハガキがあったね。もし僕が天国へ先に行くようになったら、林さんに、あとから来て先に行くのはすまないと伝えておくれ」

「ハイ、きっとつたえます。そんなこと、お考えにならず、静かにやすみましょう」

「うん、そうするよ。右のほうに向けてくれないか」

「ハイ」

「桑ちゃん、いろいろありがとうよ、なにもしてあげられなくてすまなかったね」

・・・・・・

それから二時間ぐらい静かに眠ったまま、自然にといって良い程やすらかに召天されました。受洗十七日後、夕日が少しずつ山の端に沈むのと同じように、静かに、安らかに召天されました。

(引用終わり。「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」真摯に生き抜いた高橋敏雄さん)---------------------------------

 

 

「”高橋さんが受洗されたときに読まれた箇所”

ヨハネによる福音書第三章十六節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 

_次の記事で、僕が「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」から、この箇所を引用した理由を書いていきたいと思います。

 

 

ココロとストレスとうつ / "私の目には、あなたは高価で尊い”

 こんにちは。

 

今日は書くことが思い浮かばないので、記事紹介と本紹介をしたいと思います。

以下はNPO法人ぷるすあるはという団体の記事です。

 

・うつやんズ

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kidsinfost.net

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この「アガペーの言葉」という本は、大学時代の恩師である牧師先生がかつて通っていた教会の管理牧師さんである、山崎先生から直接いただいたものです。

目次だけご紹介します。

 

Ⅰ、あなたがいなければ

Ⅱ、暗い小道を照らす灯

Ⅲ、大いなる贈りもの

Ⅳ、さわやかな風に吹かれて

Ⅴ、愛の道しるべ

Ⅵ、新しい希望の船出

あとがき

 

「"私の目には、あなたは高価で尊い”

旧約聖書 イザヤ書第43章4節から

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」」