死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

私が聖書を読む時に気を付けていること (新約聖書マタイによる福音書22章36節から40節)

「最も大切な掟」

マタイによる福音書22章36節から40節

 

22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 

新約聖書マタイ11章28節

11:28 疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。

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こんにちは。

今回は、私が聖書を読む時に、気を付けていることをご紹介したいと思います。

それは、上記聖書箇所の。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」です。

私はこの箇所を以下のように理解しています。

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』。

イエス様は、社会の中で最も弱き人(バカにされていた人、貧しい人、侮辱されていた人)を最も大切にされ、「最も弱き人に行ったことは、私にしたことと同じである」と言われています。また「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」(新約聖書マタイ11章28節)とも仰っています。つまり、イエス様は私たちひとりひとりが、その時その時、どのようであろうと大切に想う、愛すると仰っているのだと思います。そう教えられた時、私は「神が私を無条件で大切に想われたように、私も私自身を大切に想いたい。またそうすることで神の想いにお応えしたい」と思いました。

つまり、「自分自身を大切に想うこと」の大切さを感じました。

 

また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』は、このブログでも何度も書いていますが「あなたの身近な人から始まり、日本中、世界中の人が、心から笑えるように、あなたは隣人(まず身近な人から)を大切に、思いやりをもって接しなさい」ということだと思っています。

 

聖書を読む時に、差別の表現が出てくることもしばしばあります。しかし私はその時、聖書に書かれていればそれが全て正しいとは思いません。なぜなら、聖書は「人が」書いたものであるということ。また、「身近な人を大切に、思いやりをもって接しなさい」という教えが、「最も大切な掟」とされているからです。

女性差別、性的少数派差別などは、聖書の書かれた当時であれば、あまりにも当たり前のことだったのかもしれません。しかし今は違います。差別です。

 

女性は司祭にはなってはいけない(女性司祭にこそ理解し相談に乗れること、男性司祭にこそ理解し相談に乗れることがあると思います)、

女性は正規社員では働かせられない(女性と男性に能力差がないのは最早周知だと思います。また出産が問題だというなら、本当に問題なのは出産を問題にする社会だと思います。)、

ベビーカーは邪魔だからタクシーでも使え(他者に思いやりを持って接する、とは何でしょうか)、

女性は子育てが仕事なんだから大変だとか言うな(子育てが女性の仕事と誰が決めたのでしょうか、またおそらくそう決めた方の子供はどう育つでしょうか。父母が子育てに参加した方が良いのは、お互いの負担軽減の為にも、子供のためにも大切なのは自明ではないでしょうか)、

結婚して子供作って当たり前だ(結婚すること、子供を持つことに価値がありますか?価値があるとすれば、結婚した後、お互いを想い合って幸せに暮らしまわりにも喜びを与えること、また子が、他者に思いやりを持って接することのできるように、子の気持ちに寄り添い、同じ一人の人間として心を開いて話し合いができること、などが価値のあることではないでしょうか。つまり、そのどちらも、結婚してなくとも子供がいなくとも、他者に思いやりを持って接する中でも実現できます。)

 

また、性的少数派を認めるべきでない(認めなければどうなりますか?心から笑えない人がまた一人増えるだけで、何のメリットもないように感じます。無理矢理メリットを考えるとしたら、他者の心を理解しようとしない人が大きな顔をできるということでしょうか)、

子供が作れないじゃないか(子供が増えさえすればなんだって良いのですか?経済的貧困や精神的貧困に陥る子供たちを見ずに、悲しみの再生産を行う気ですか。私たちが言うべきは「生きることで喜びを得ることができる社会をつくっていきましょう。そうすれば出生率は伸びるでしょう」ではないでしょうか。子供が増えることそれ自体を目的にしては、危険だと思います。)

 などなど。

 

私は、上記に通底して「心から笑える人が減る」ということを感じます。

もう一度言いますが、地上において最も大切な掟は「身近な人を始めとして、世界中の人を大切に、思いやりをもって接しなさい」「心から笑える人に溢れる世の中にしなさい」だと思います。

ですので、それに反する行いを私はしたくありません。

 

皆さんの中には、宗教戦争や、キリスト教国であるアメリカやイギリスの行ってきた戦争など、これまでの所業から、キリスト教信者というのは、そういったことをしても良い人々なのか、という疑いを持っている方も、ある程度いらっしゃると思います。

答えは(おそらくお分かりだと思いますが)もちろん「いいえ」です。

私は、争いや戦争は、最も教えから遠いと思ってます。

 
戦争はもちろんですが、「9条改正反対」、「自衛隊派遣反対」と、相互の建設的な話し合いを拒否し、自分の意見だけを訴えることも、ひとつの争いの形だと思うので、教えから遠い行為だと思います。(もちろん、ちゃんと総理や政府と対話の形を取ろうとしているところもあると思いますが、「9条(法律)」「自衛隊派遣」は手段であって目的ではありません。目的は「心から笑える人が増えること」。そのためであれば、9条改正も自衛隊派遣も、人々の協力の形としては、あり得る選択肢ではあると思います。もちろん、平和を蔑ろにすることと、戦争はあり得ないものだと思います。)

 

目的を見失うことなく、行動するために、私は、私なりに解釈した

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

を最も大切な決まりとして、常に覚えておくようにしています。

 

追伸:

この讃美歌461番の動画の、2番の英語歌詞がとても好きです。

www.youtube.com