死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」マタイによる福音書25章35節‐36節、40節

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

マタイによる福音書25章35節‐36節、40節

 

25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

25:40 そこで、王(イエス)は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟(姉妹)であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

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こんにちは。

マタイによる福音書25章35節‐36節、40節を引用しました。38、39節を飛ばしているので、気になる方は以下のURLからご覧になれます。

マタイによる福音書 25, Colloquial Japanese (1955) (JA1955) | 章 25 | 聖書アプリ | Bible.com

 

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

平和(すべての人が心から笑える状態)に向けて、一番大切な教えは、これではないかと感じています。

 

現代において「自分さえよければそれでいい」という考えを感じることがあります。私が以前いた会社では、「製品が売れればそれでいい、後から向こうが後悔しようが、雇われる人が減ろうが、うちにお金が入ってこなきゃ暮らせないんだからそれでよい」という意見が「普通」でした。そういう場所は案外多いのかもしれませんが。

また、本来は「自分も他人も幸せが一番である」とわかっていながらも、それが歪んで「自分が不幸なんだからお前も不幸になれ」となってしまう状況も散見します。公務員バッシング、生活保護バッシングもそういった背景があるのではないでしょうか。

 

しかし、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」。つまり、「最も弱められている人に寄り添い、行動すること」が最も価値のあることだと教えているのです。

 

わたしは、これは、「天の宝(人との暖かい繋がり、心の交流、平和)」の概念においても大切なことだと感じます。

もし、あなたが、顔も挙げられないほど、眠ることも食べることもできないほど、死にたいとおもうほどつらい時、心通わせてくれる方が居たら、これ以上ないほどの恵みだと感じるのではないでしょうか。

そんな風に、深く心を通わせる機会は、生きる中で、多くはないと思います。もし、あなたが助けられる側であれば、深い慈悲の心を持ったとても大切な友を得るでしょう。そして、大きな喜びを感じるでしょう。わたしはその心の交流を指して「天の宝」だと思っています。

またあなたが助ける側であれば、相手はあなたに、これ以上ないほどの「心からの感謝」を与えてくれるでしょう。わたしは「心からの感謝」ほど美しい天の宝はないと思います。あなたが「小さき(弱められている)者」を助ける時、あなたは「天の宝」を頂いており、またその人と人との関係性の中に、神(平和)への想いが現前するのだと思っています。

神、という語に抵抗感があるのでしたら、人の心の暖かさと言い換えてもいいと思いますが、私は、生きる上で、「心の暖かさ」の恵みを受けることより価値あることはないと感じています。そして、それは、人間が全て操作できる事象ではないと思います。

人の感知できる部分以外の空白にこそ、神とされるもの、人の力と考えが及ばぬものが在り、また、その部分に思い至る時、全ては無いことと等しいのだと思います。

 

「天の宝(心の暖かさ、心の交流)」の為に、身体的、精神的に飢えている人、渇いている人、居場所を求めている人、暖かさを求めている人、病気の人、抑圧されている人に寄り添うことができ、また私自身も小さき者として、寄り添って下さる方に恵まれますように。

 

「25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

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『はっきり言っておく。わたしの兄弟姉妹であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」