自分が生きやすくなるためのコミュニティとはなにか。
"共有"
使徒行伝 4章32節
4:32 信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。
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こんにちは。
今日は、これからの生き方の選択肢のひとつとして注目されている、3つ目のコミュニティを作ることについて、書きたいと思います。
私は、”コミュニティ”は、思い、モノ、言葉を「共有」する集団だと思います。日本語で言うなら「共同体」。
なぜ現代において、家庭、仕事以外の3つ目のコミュニティが注目されているのでしょうか。
僕はこれまでの、閉じたコミュニティで死ぬまで暮らす時代が終わりかけているのではないかと思います。これまでは、コミュニティが家庭、仕事といった単位で、ある程度閉じていたため、そのコミュニティ内で問題が起こった時に重症化しやすいという問題を、これまで多くの人が見てきました。
問題が起こった時には、「感情的にならず」「お互いの意見を否定せず」話し合うことが大切です。しかし、閉じたコミュニティ内だと、お互いの心理的距離が近すぎて話し合いの場が成立しない状況が多々あります。
その時に、多様な価値観、考え方の人々と日常的に親しく交わっていれば、広い視野が育まれると共に、話し合いの場をつくる際の協力者となってくれるかもしれません。そこまででなくとも、親身に相談に乗ってくれると思います。
閉じたコミュニティ最大の問題点は、「思いを吐き出すことさえできない」ところだと思います。そういう時に吐き出し、受け止めてくれる場があれば、心理的負担はかなり減るのではないでしょうか。
僕の場合は、多様な価値観を認めることのできる能力を持った人々に出会い、共に生きていくために、コミュニティ探しをしています。
現在は、twitterやブログ、これまでの友人・恩師の先生、教会、UM(union of minimalist)などの繋がりがあります。
これから時間をかけて、深い繋がりを持てるように生きていきたいですし、さらに繋がりを増やしていきたいとも思っています。
自分にとって信頼できる人がいてくれるコミュニティを増やすことは、生きていく中で、つらいことやしんどいことがあった時に生きる糧となります。つらいことやしんどいことが全くない人生を歩む方は、ほとんどいないと思います。
そういった観点から、複数の(信頼の置ける)コミュニティを探すこと、持つことは大切だと思います。
また、その中にあって、つらさやしんどさが上限を超えていて、吐き出す場があっても吐き出すことさえできないときに、祈るという行為があるのだと思います。
複数のコミュニティは、話し合うべき時には話し合いながら、平和に暮らしていくために、とても重要です。
同じように、自分の思いや願いを超えて、悩み・苦しみ・悲しみに苛まれるときに、祈りの場を持つということは、ひとつの救いとして機能するのではないでしょうか。
どちらも大切に、過ごしていきたいと思っています。
祈り
主よ、あなたがともに居て、私を支えてください。闇の中、あなたが光でいてください。アーメン(そのようでありますように)