死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

”人々の心を励まし、愛によって結び合ってほしい” / ”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”

こんにちは。

今日は、今日の聖書通読(日課的に聖書を読み進めること)箇所から、コロサイの信徒への手紙を引用します。

 

今回は、キリスト者に大切とされている姿勢について、僕の理解している範囲で書こうと思います。それから、僕自身のことも。

僕は、これから述べることに取り組んでいない方は、キリスト者の在り方としてどうなのか、と感じます。

つまり、牧師、神父、クリスチャン、教会に通っている人々でも、これから述べることについて、少しでも思いに留めていないなら、それは果たしてあるべき姿なのか、という疑問です。

 

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「”人々の心を励まし、愛によって結び合ってほしい”
コロサイの信徒への手紙 第2章1、2節(使徒パウロがコロサイの信徒へ送った手紙)

2:1
わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。
2:2
それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。」

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パウロは、自身の弟子として慕ってくれている人々と、自分ががんばって建てた教会があるラオデキアと、また、”会ったことがない人々(つまり自分が会っていない全ての人々)”のために、牢屋の中から必死で祈っている、と書き送りました。

それは、全ての人々が、心を励まされ、お互いを(理解し)励まし合い、愛(平和への思い)によって結び合わされることを祈ってのことでした。

 

「何を綺麗事を...」と思われる方もいるかもしれません。

実際、僕が似たようなことを学校の付き合いなどで言った時、「もっと現実的なこと言えよ」という反応をされたことがあります。

 

しかし、

「現実」とは何でしょうか。

私は、「今の社会」のことを指していると理解しています。

 

「社会」はどうやって形作られているでしょうか。

「人間が集まることによって」だと思います。

 

であれば、「綺麗事(理想的な社会)」は、大多数が実行しようとすれば可能なのではないでしょうか。

「現実(理想的ではない社会)」を、変えることのできないものと諦めから断定して、「綺麗事(理想的な社会)」を否定する行為に、意味はあるのでしょうか。

 

もちろん、社会の在り方を変えることは、一朝一夕で成るものではないと思います。

それでも、様々な環境、状況から、悩み悲しさ辛さに苦しむ人々を放っておくことは、いずれ全ての人々が苦しむことになる布石だと思います。

なぜなら、今苦しみの中にいない人が、今苦しんでいる人の側に移動することは、時の運や一瞬の偶然によって、いくらでもあり得ることだと思うからです。

であれば、全ての人々がお互いに励まし合い、「優しさを持って接する」ことができる社会を目指し、大目標、中目標、小目標を持って歩んでいくべきではないでしょうか。

 

(例)

大目標

全ての人が心から笑うことができる社会

中目標

自殺者、経済的困難を患う人、遺児・孤児、精神的な苦しみを患う人などへ向けた活動+現在、社会的マイノリティとされている人々への理解・寛容を社会全体で育む

小目標

目の前の人に優しく接する。(コンビニで何か買ったら笑顔でありがとうと言う、道を譲る、相手の気持ちを考える想像力を鍛える(もし自分がこの人だったら、今自分がしているように接されたらどう思うだろう、など))

(自分が、できるだけ多くの人に暖かく接することで「優しさの連鎖」を起こすことは、自分や、自分の大切な人が、その連鎖反応にあずかる可能性が高くなる、ということだと思います。)

 

僕は、相手が誰であろうと、どんな立場であろうと「優しさを持って接すること」が、「神があなたを愛されたように隣人を愛しなさい」というみ言葉を受けたキリスト者の在り方なのかな、と思っています。(もちろん、人間ですから、常にそうあることは難しいですが、そう取り組もうとする在り方)

明らかに違う人(人を軽蔑、侮辱、断罪するなど)からは、キリスト者であるかどうかに関わらず、あなたの心のために、距離を置くことをおすすめします。

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「”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”
コロサイの信徒への手紙第3章12~14節
3:12
だから、あなたがた(全人類)は、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13
互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
3:14
これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」

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キリスト教の価値観では、神に愛されている人とは、全ての人、全人類のことを指します。

以前どこかで、クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、「当選の宝くじを換金しているかしていないかの違い」だ、と仰っているコラムを読んだことがあります。

つまり、全ての人は既に愛されているが、「それに積極的に応えているかいないか」の違いだということです。

 

といっても、そんなことを急に言われても...という方も多いと思います。

僕も、心がほとんど限界にきて、今の教会での礼拝を受けるまでは、同じような思いも持っていました。(礼拝自体は別の場所で幾度も参加していましたが。)

 

僕は、僕の理解で言うなら、(幾分アニミズム的ではあるかと思いますが、)

神を通して、種々に祈ることで与えられる「安らぎ」、

人と人の暖かい繋がりから生ずる、涙さえするような「喜び」や、

自然の美しさが胸に染み入る時の「感動」、

時間や空間を超えて、聴いた人々の心と想いをひとつにしてしまうような音楽に出会った時の浮き立つような「楽しさ」など、

それらの「うつくしさ」が神からの愛の一部なのではないかと思っています。

 

もちろん、自然は牙をむくこともあります。

しかし、それは「死ぬこと」を絶対悪、絶対にあってはならないことと置いているから、ということもあるかもしれません。

僕も苦しいのや痛いのはいやです。

ですが、死ぬのはいやではありません。

 

なぜなら、以前にも書きましたが、「死ぬことで(生きる苦しみから解放され)想いとして生きる」と思うからです。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

この価値観は、合わない方も多いと思います。僕もなかなか普段の会話では言えないことのひとつです。

しかし上記の記事のように考えると、僕にとっては、死ぬことも「うつくしい」ことのひとつとして感じられるのです。

 

とはいっても、兄を亡くしている僕は、死別の悲しさも幾分わかります。

だから、「兄や僕が死にたくなるような社会」を「誰もが楽しく生活し、まあ死んでしまっても周りのみんなが地上で、平和への想いを引き継いでいってくれるよ、と思えるような社会」にしていきたい。

僕が生きる理由は、上記の想いと、「僕に繋がる、心から大切だと思える人たちを悲しませたくない」という二つに尽きます。

 

そして、誰もが心から笑うことができる社会へ舵取りをすることと、死んでも想いとして生きるために、”憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が大切”であり、ゆるし合い、その上に愛(平和への想い)を忘れずに在ることが、大切なのではないかと、思っています。

 

 

祈り

僕の想いをあなたへ捧げます。主よ、私はまだここにいます。私にできることを、私が為し、あなたの御心に沿えるように、どうぞ共に歩んで、導いてください。私と一緒に、居てください。アーメン(そのとおりでありますように)。