死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

死をどう生きたか / "この世を去ることの方がはるかに望ましい" フィリピの信徒への手紙 第1章21~23節

 

こんにちは。

 

今日は、京都市役所の少し北にあった古本屋で見つけた「死をどう生きたか_私の心に残る人々_」(日野原重明著)という本の紹介をしたいと思います。

それから、フィリピの信徒への手紙 第1章21~23節を引用します。

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まだ途中なのですが、今日読んだ箇所から、p97の

「”私は、本当に神様に恵まれているものは、自分に力はない、財力はない、地位はない、ということであきらめないで、その中でも人にできることをして行くことが、やはり神様の恵みをいただくことであると思います”(「キリスト新聞」昭和五十七年五月二十九日号)」

という賀川豊彦氏夫人の言葉が心に残りました。

 

神様に恵まれてるとは、何なのでしょうか。

僕は、理解者に恵まれることだと思っています。

神様も含め。

 

キリスト教に限らず、信仰や道徳観のあり方、それらに見出す意義、意味は、人それぞれ違いがあると思います。

同じ信徒であっても、ひとりひとりが、多様な視点から信仰・道徳を考えています。

そのことについて、話し合い、違いを受けとめ、理解し合うこと。それこそが他者を理解する「多様性への寛容」を育む土台となるのではないでしょうか。

そのような、自分の内面について語り合う場は、日本には現状ほとんどないですが、とても大切なものだと感じています。

僕にとって、その場は、親友と話をする時、教会の説教を聞く時、繋がりの深い人と話をする時、です。

 

賀川豊彦氏夫人は、「力はない、財力はない、地位はない、ということであきらめないで、その中でも人にできることをして行くことが、やはり神様の恵みをいただくこと」と仰っています。

けれど僕は、少し違う意見を持っています。

力があること、財力があること、地位があること、が生きる理由になり得ると、あまり思えません。

もちろん、お金や地位があれば、死なないでいることは出来るかもしれませんが、それは生きているといえるのでしょうか。

その一方、「人にできることをして行くこと」は、仄かながら生きる糧になることがある、と感じています。

 

生きている中で、あきらめることがあってもいいと思うのです。それも、うつくしい選択のひとつだと思います。

生きることはしんどいことです。その中で、少しでも、自分が心やすらぐことやものがあるのなら、それに心を向けて、他のことからは距離を取ってもいいと思うのです。

「自分に力はない、財力はない、地位はない、ということで(生きることと、この世界をあきらめたくなるけれど、)あきらめないで、その中でも人にできること(自分に対してできること、自分を褒めることなども含む)をして行くことで、神様の恵み(理解者との出会い)をいただくこと」ができるのかもしれません。

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「”この世を去ることの方がはるかに望ましい”

フィリピの信徒への手紙1章21~23節(パウロとテモテが、フィリピの信徒へ書き送った手紙)

1:21 わたしにとっては、生きることはキリスト(平和を行うこと)であり、死ぬことは益である。

1:22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。

1:23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。」

 

この箇所を読んで、パウロにも希死念慮があったんだな、という、考えてみれば当たり前なことに気づきました。

僕は、希死念慮持ちは、タブー視されるべきことではないように思います。

上記のようにキリスト教でもこのように述べている箇所があり、仏教でも「四苦八苦」「一切皆苦」などの”生きることは苦しみ”という思想があります。

 

すべての人ではなくとも、多くの人が生きる意味に悩み、ひとりひとり考えているなら、みんなで落ち着いて、生きる意味について話し合うことには大きなメリットがあるのではないでしょうか。

僕のように、「悩み苦しみ悲しみを感じる人を減らしたい」ということに生きる価値を見出す人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。

 

人はそれぞれ違うものです。(キリスト教的言い方をするなら、違う賜物をいただいてるものです。)

それぞれに考え方と在り方があると思います。であれば、そのことに対して、誰かに「間違っている」「おかしい」と言われるいわれはないと思います。

 何より、生きるだけでも十分大変なのに、それ以上に何かを強制する権利が誰にあるでしょうか。

僕は、誰にもないと思います。

だからこそ、どのような形で生きていても、助け合い、繋がり合えるように、「多様性への寛容を持つコミュニティ」をひとつでもまもり、できるなら広げていきたいと思っています。

 

大言壮語ですし、僕自身にそのような”力”があるとは信じきれません。

だからこそ、主の御力に頼って、支えていただきながら、行けるところまで歩んでみようかな、と思うのです。

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「コリントの信徒への手紙Ⅱ

4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 

祈り

悲しみのあるところに喜びを、闇のあるところにあなたの光を置かせてください。主よ、慰められるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。あなたの御力によって。父と子と聖霊に、感謝します。アーメン(そのようでありますように)。