死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

読書ログ『どんな時も、人生に”YES”と言う』

人生を肯定的に捉える、という人生哲学の採用メリットについて説かれた本。人生には「想像価値」「体験価値」「態度価値」の3つの価値があり、それらを通じてどのように人生に対して向き合えば人生それ自体を肯定的に捉え意味を見いだせるか説明している。
個人的には少し押しつけがましさを感じなくはなかった。「人生を肯定的に捉える」ではなく「肯定的に捉えようとする」のスタンスで書かれていたらもう少し印象が違ったかもしれない。私自身は「備えられた道にできるだけ応えよう」という考えによる努力と「私がこれほどまでに苦しむことを望まれるだろうか」という諦めの基準線を採用しているが、そのこととほぼ同じ文脈を見いだせた。
本筋から外れるが特に印象的だった項は、日本社会の住民がすべからく何かの奴隷となっている、という言及であった。会社、家庭、親などの奴隷となり自分を確立できていない大半の人々をプレパーソナル、自己を確立しそこから他者への貢献を考えるトランスパーソナルという分類は優れたものだと感じた。プレパーソナルに陥らないためには、自分の思いに自覚的であることと自尊心を保つことが肝要であると考える。

報告 / 覚書

■報告

親愛なる諸兄諸姉、司祭ご夫妻、大学時代の恩師の御三方、遺族会関係者諸氏、そして両親と自分の心との相談の上、下記事由から精神保健福祉士 (PSW)の資格取得を目指すことと相成りました。

・精神保健(mental health)に関する業務を扱うこと

・公的機関、企業、病院等、様々な働き場があること、業務の種類も幅広いこと

・週3から週4勤務の労働形態が選択可能であること

・ブランクあり求人も多いことから、従事後1、2年休むことも視野に入れられること

・資格取得専門学校の求職支援が卒業後もいつでも利用できること

(もちろん精神衛生のために、第2、第3の道(逃げ道)も構想はしています。)

 

■覚書

・過去から現在、通底する興味の主眼

主課題:人の心について、もしくは「感動」について。

 

・遺族支援者研修(Helping Children Cope with Death)に参加して印象的だった言葉

「Grief(グリーフ)を持つ人にとって重要な2つの感覚 」

1,Feeling of "not alone""someone understands me"

  (「一人ではない」「(誰かに)理解されている」という感覚)

2,To express their feelings outside by their own ways (positive or constructive ways)

  (自分の感情を自分らしい方法で表出できること(ポジティブな、もしくは建設的な方法で)

「自殺について話さない方が自殺を誘発する(つらい思いをしている人が孤立する)」

「人は痛みを感じた時それから逃れようとする。それは心の痛みについても同じ。」

自死は弱い人、勇気のない人がするものだと言われることがあるが、勇気のない人にできる行為ではない。人は生きようとする身体を持っている、しかしそれを上回る心の痛みがあったということ」

 

・「”みんなちがってみんないい。”って思ってくれない社会ってイヤだ!~らしさによる死にたいほどのつらさについてみんなでいろいろ考えるシンポジウム~」に参加して印象的だった言葉

「生きる意味について求めること、考えることは、自分らしさを求めることになる(男らしさ、女らしさを求めることからの解放)」

「今の会話のスピードは”会話”ではなく情報のやりとりになってしまっている。”言葉”を使うことができていない。ゆっくり、沈黙も挟みながらお互いの価値観、考えを渡し合うことが”会話”」

「自分に自信のない教育者、親が権威主義(権威を重視し権力者に媚びること)に取り込まれている」

「プライドと自尊心は違う。〜があるから自分を認めるのがプライド。何もなくても自分を認めるのが自尊心」

「頑張らなければいけない、成長しなければいけない、なんてことは一切ない。そう思うのはそれまでの学校や社会からの刷り込み。ただでさえ生きづらいのに、自分で自分を脅迫する必要はない」

「自己肯定できなくなってしまうと、怒りが全て自分に向かう。しかし、自分が全て悪い、なんてことはありえない」

自分がやりたいと思ったことをやるべきと思う理由 / どうすれば幸福に生きることが可能か

先日、もやもやし続けていたものに多少の適切な言葉をつけられたような気がしたので、自戒も込めてそのことについて。

 

もし、自分がやりたい、興味がある、これをすべきだ、と思えることがあるなら、他者の尊厳を損なわず、大きな道義的問題がない限りにはやるべきだと思います。

もし、そのことを話したとき、周りの人に「そんなことでは食べていけない」「あなたのようなタイプには向いていない」「そんなことは夢物語だ、現実を見ろ」「世間体を考えろ、情けない」「社会的地位が低いから認めない」などと言われようとも、です。

これから述べることは、生きることが「そもそもつらい人間」と「そうでない人間」の差があるとは思いますが、もしあなたが前者で、

1、やりたい道を選んだ場合、人生を多少でも楽しめる可能性は5分5分です。

しかし、

2、周りの意見を中心に据えてやりたくない道を選んだ場合、人生を楽しめる可能性はほぼなくなってしまうと思います。

 

私も、一時は、周りがそれだけそう言うのなら、、と2番を選ぼうとした過去がありますが、一瞬で後悔しました。

おそらくは、「やりたいことがある人間」、「やりたいことはそんなにない人間」が居て、後者のタイプであれば、2番の選択でもその選択がよく働くことがあるのかもしれません。

しかし、「生きることがそもそもつらく」「やりたいと思える事は漠然とあった」自分にとって2番の選択肢は消極的自殺となんら変わらないものでした。

 

〇〇はどうせ自分には務まらない、向いていないだろうから(周りもそう言ってくるし)と、自分の思いをスルーして、やりたくない仕事のなかから、お金や世間体を気にして仕事を選ぶ必要はないと思います。あなたがやりたくはないけど仕方なしで選んだ仕事も、その仕事をやりたいと思っている人はきっといます。

やりたくないけど世間の圧力があるし、で仕事を選んでしまっては、やりたくもない仕事をしている人が増えていくだけで誰も幸せにならない世界が出来上がっていくと思います。

 

やりたい仕事に取り組んだ方がよい、といっても、それだけで生活費を作ることは難しいかもしれません。それでも、生活費を別で作りながらでもやりたいことはやめない方がいいと思うのです。なぜなら、あなたがやりたいことというのは、あなたをあなたならしめている、あなた自身のライフワークに他ならないからです。

もし、ある手段を選んでやりたいことに取り組んでみた結果、その手段は向いていなかった、自分にはとてもこの手段はきびしい、と思っても、それまでに得た経験、知識、人的資本(人の繋がり)から、自分の思い(漠然とした方向性を持つ意思)に多少でも応えることのできる、違う手段を探していくことが容易になります。そこから別の手段(仕事)に繋げていくこともまた、できるかもしれません。

 

特に「生きるのがつらい」人は、どうせ生きる選択肢を取るなら、現在的にでも、将来的にでも、自分と、自分にとって大切な人たち(いま思い浮かばなくとも、取り組みたいことに取り組んでいればいつか出会えると思います)が幸せに生きれる可能性の高い方に賭けた方がよいと思います。生きることそのものが割りの悪い賭けではありますが、それでも生きるなら、「幸福に生きよ、ということより以上は語り得ない(ウィトゲンシュタイン『草稿』)」と思います。

 

そして私は、幸福に生きる指標は、

「自分を生きることができているか」(これは上記したこととほぼ同義です)

「大切な人との繋がりを保てているか」

が占める部分が大きいのではないかと考えています。

 

これまで、いわゆる一般企業に勤め続けてきた4,50代の方も、飲食や派遣で勤め続けてきた4,50代の方も少ないながら見てきましたが、後者の方が幸せに見える人が相対的に多かったのは、上記した指標を意識して生きているかいないかの違いが大きく出ているように思いました。

上記の指標は、

「主体的に(世間様に屈さずに)選択できているか」

「お互いに尊厳を持って接し、お互いの幸福を願う関係をいくつ大切にし、保てているか」

 とも言い換えられると思います。

 

それぞれに、それぞれの方法と思想があるとは思いますが、やはり「幸福に生きよ、ということより以上は語り得ない」に収斂してしまうかと思います。

自分の考えもそのうち少しずつまとまっていくだろーと思っていたら、とりあえずここまでは纏まりましたので、ご査収ください。笑

 

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・自分の考えの後ろ盾となっている言葉と思想たち

「幸福に生きよ、ということより以上は語り得ないと思われる」ウィトゲンシュタイン『草稿』

「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消え行く霧に過ぎません」ヤコブの手紙4:14

「兄弟愛を持って互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思いなさい」ローマの信徒への手紙12:10

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」マタイによる福音書6:19

 

Objective of Lifetime(生涯の目的)/お客さんに問われた「何故その道を行くのか」に対する応答、備忘録

こんにちは。
今回は、ゲストハウスで働く中で、お客さんに聞かれたことへの応答シリーズの1つ目です。
2つ目をいつ書くかは未定ですが。笑
Hello.
This time, the first article of answer series to question from customers staying the Guesthouse I'm working at.
When I write the second article is not decided. lol

聞かれたときに応えた内容に、一部加筆修正を加えています。自分自身の備忘録+こういう事を考えている人がいます、という発信として書き記します。
纏まりきってはいないですが、ご容赦下さい。
I added some revision from the what i said when i was asked by the customer. This is my memorandum and the expression that there is the person who think like those things.
The sentences are not gathered up, pls forgive.

1,Q: Why are you studying Christian theology in seminary school? / 何故神学校でキリスト教神学を学んでいるのですか?

A:
I would like to be the person who can help the people feeling mental pain, no matter how little it will be.
Because I, myself, am feeling same pain and I bacame to think about mental disease more deeper by the death of my dear one and Friends's, Family's and the two Pastors's help when I had grief.
When I think about jobs treating mental disease, the one choice opening in front of me broader was a pastor.
Because the very precious opportunity to raise my face up was the encounter with the community in the church and in addition, I had already the connection with some pastor in Uni. One of them is former teacher at the club of Uni, I knew him and he cared about me, I was given the opportunity to talk with him over 3 hours for me. Talk theme was mainly "how to live".
And after I tied the Anglican communion(one of christian community), I joined the National Assenmbly of Japan Anglican Youths.
By all of people in the community I met and experiences I had, I knew there are the communities in the Japanese society which people can talk about their internal aspects of personality.
And then I thought I want to keep those communities and if I can, spread those places where people can talk internal personality regardless of religion or belief.
The communities where they who have mental pain can talk frankly without to be denied and the place where all diversity are accepted are very important for all people to lighten mind and live with comfort, and also important to make the society better.
I want to keep, (if I can) make and connect those communities, for better world(where more people, even 1 or 2 than now, can smile from the bottom of their hearts) and also for that myself can live with comfort.
To deal with above things, I am learning theology or pastoral care.

A:
わたしは、たとえそれがどれだけささやかであっても、精神的なしんどさを抱える人の助けとなれるような人になりたいと思っています。
というのも、私自身がそのような苦しみを感じて生きていること、そして、親愛なる人の死と、グリーフを抱えた私に与えられた友人たち、家族、ある2人の牧師さんの助けによって、精神的な苦痛ということをより深く考えるようになったからです。
私が、精神的苦痛を扱う職業について考えを巡らせたときに、最も自分の前に大きく開けている道は牧師でした。
というのも、私自身が顔を上げられるようになるために与えられた、本当に貴重なきっかけも教会の中でのコミュニティに出会ったことでしたし、加えて、私は大学時代に何人かの牧師さんと繋がりをすでに持っていました。そのうちのお一人は、大学時代の部活の顧問の先生で、私は彼のことを知っていましたし、彼は私のことを気にかけてくださいました、そして私のために、3時間以上も話をしていただく機会にも恵まれました。話したテーマは主に、”どう生きるか”でした。
そして私が聖公会キリスト教の一宗派)のコミュニティに繋がれた後、私は日本聖公会青年有志が行っている全国青年集会に参加しました。
それらのコミュニティやそういった経験の中で出会った人々によって、私はこの日本社会の中に、人々がお互いの内面的性質について語り合える場があることを知りました。
そして私は、そういった、人々が互いの宗教、信条に関わりなく内面的なことについて語り合える場を保持したい、出来る事ならば広げたいと思うようになりました。
そのような、精神的しんどさを持つ人々がすなおに、否定されることなく話し合える場所、そして全ての多様性が受け入れられるコミュニティは、あらゆる人が心軽くし、快適に生きていく為に非常に肝要だと思います。また、それらはより良い社会の実現のためにも大切なことだと考えます。
私は、より良い世界(今より1人でも2人でも多くの人が心から笑える)のために、そういったコミュニティを保持し、(もしできるなら)つくり、そういったコミュニティを繋げていきたいと考えています。私自身が生きやすい世の中に近づけるためにも。
これらのことに取り組むために、神学校で神学や臨床牧会を学んでいます。

何をして生きていきたいのか / なぜ生きるのか

こんにちは。

何をして生きていきたいのかと考えて、自分のやりたいと感じること(やってみたいかなと思えること)を見つけ、行動する時に、周囲との関わりから精神的なしんどさを感じることがあります。

いろんな本当の思いを表すことばが否定され尽くして、ネガティブなイメージを貼り付けられてることで、言葉を選びづらくなり、しゃべりづらいと感じることがあります。(一生これをやって生きていきたくない。自分のやりたいことはこれではない、本当にやりたいことをしたい、生きる意味を知りたいetc)

被害妄想的になっている部分や、人の均質性同一性を求めるある種日本的思想の刷り込みに呪われている部分もあるのかもしれません。
それでも、話しやすい(ことばをあまり歪曲せず捉えてくれる)と思う相手と、話しにくい(ことばに世間様的偏見(今の常識)を織り交ぜて理解しようとする))と思う相手がいます。

人に精神的に虐げられて暮らしたいと思う人はいないと思います。
ですが、
1,精神的に虐げられないけれども、死ぬ前に後悔するような生き方をすること
2,精神的に虐げられることもあるけども、明日や1週間後死ぬとしても、今と同じ事に取り組み続けると言える生き方をすること

この2つでは、後者が本当に生きるということではないか、と感じます。
前者は、生きていても死んでいる、と感じます。(感じていました。)

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ヨハネの黙示録3:1から
すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。
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エフェソ人への手紙5:16から
今の時を生かして用いなさい。
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人と違っちゃいけない? 海が好きすぎる「人魚男」 (AFPBB News) - LINEアカウントメディア http://news.line.me/issue/oa-afpbb/318eb43e56a5?utm_source=Twitter&utm_medium=share&utm_campaign=none&share_id=vQX95527107163 #linenews via @news_line_me
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会社員、フリーター、アルバイト、学生、休職中、休憩中、など、肩書きが何であっても肩書きで判断されることなく、その人が快楽によってではなく人との関係によって、もっとも心地よく在れる在り方を求めること。それ自体が最も意義深いのではないかと感じます。
知らず知らずのうちに多くの人が世間的偏見や価値観を刷り込まれ、それが大きな社会的圧力になり、苦しまなくてもいい人びとが苦しんでいるのであれば、まず自分が、その圧力を否定する存在として生きていきたいと今は思っています。自分自身のためにも。

"慈悲深い者となれ"

"慈悲深い者となれ"

ルカによる福音書6章31から36節

 

6:31[編集]

人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。

6:32[編集]

自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。

6:33[編集]

自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。

6:34[編集]

また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。

6:35[編集]

しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

6:36[編集]

あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

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私はこの箇所を読む時、「情けは人の為ならず(情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ)」ということわざを思い起こします。

敵を愛すことはむずかしいことだと思います。いつもそうすることはとてもできず、時には距離を置くことも、お互いの平安のためによいこともまたあるのではないでしょうか。

それでも、自分を愛してくれる人を愛し、よくしてくれる人によくすることを充分おこなっていくことで、そうでないひとびとにも暖かく接する余裕を持つことができるのではないでしょうか。

苦難にひたすら耐え忍ぶ必要はないと思います。まず自分の心を大切にし、身近にいる大切な人の心を大切にし、それから繋がる人々に波及させていく。そうすることで、慈悲(暖かい人と人との繋がり)を乗数のように増やしていくことができるのではないか、と思います。

そのようでありますように。

”人のいのち(存在・価値)は、持ち物によらない”

久しぶりの更新となってしまいました。

新生活の中で騒がしく、記事を書く時間と気持ちの余裕がない日々を送っていました。しかし、今までのところ有難いことに、充実した良い時間を過ごすことができています。

昨日は、瑠璃光院、ルイ・イカール美術館というところにお邪魔し、新緑と豊かな大気、アール・デコの絵画に心落ち着く体験をしてきました。

自らの心を充足させるような”体験”(うつくしいと思う体験との出会い、心落ち着く場所・人、大切に思う人との繋がり、人の暖かさ、など)を大切にしたいと、改めて思うことができました。

 

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”人のいのち(存在・価値)は、持ち物によらない”

ルカによる福音書12章15節

12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

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持ち物(お金、肩書き、名誉、注目、物質資産)が、手の内を豊かにすることはできても、持ち物そのものによって心の内を豊かにすることはできないのではないか、と思います。

心の内を豊かにする、言い換えれば、「肉体のいのちが終わる時、満足して死ぬことができる」ためには、天の宝(自身の穏やかさ、人との暖かい繋がり、繋がりという資産)が大切なのではないか、と思います。

 

まず自分と、次に大切な人々、さらにその大切な人々から繋がる人々が、心穏やかに在れるために、ゆったりと過ごすことに総力を挙げたい所存です。

 

1日1日、自分を大切に甘やかす。

そして柔らかな思いをつなげていく。

 

そう、あれますように。