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現代日本で聖書を読む意味

希死念慮持ち。内容は個人的解釈です。気持ちに余裕がある時に更新します。

「Life walk~いのちを想う宗教者の行進~」@京都に参加して / これからの目標、今の手段

希死念慮 日常(カフェや本、音楽、映画など) 牧師の勉強

3月1日、「京都いのちの日」に、Life walk~いのちを想う宗教者の行進~に参加してきました。

 

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どういった活動か、と言いますと、上の画像に書いてあるように

自死・自殺の問題に対して関心をもち、苦悩を抱える方に寄り添う気持ちを育むことを目的とした、」広報活動です。

 

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最近は、うつ等の心の苦しみ、自殺に関する関心も以前よりは高まってきました。

しかし、依然として「自死・自殺」に関する話題はタブー視されがちです。

私はそれは、昔の人が差別・偏見の根拠としていた「穢れ」の思想と同じではないかと思います。

らい病やハンセン病などの病気は、「穢れ」や「神の罰」などではなく、「病気」でした。

であれば、本人に100%の責があるわけではないことはこの科学全盛の時代にあって自明だと思います。(もし本人の責が少しでもあれば、その人自身が悪い、ということになるならば、健康的でない生活を一瞬でもして病気になった人も、その人自身がすべて悪いとなってしまいはしませんでしょうか。)

心の病が「穢れ」でなく病気であれば、何故自身や身近な人の心の病をきっかけとして「死について考えること」をタブー視するのでしょうか。

人は100%死にます。

そのことを踏まえて、死ぬことについてみんなで考え、どう死ぬか(どう生きるか)について語り合うこと、それは、生きる人すべてに大切なことなのではないでしょうか。

 

精神的苦しみは、死に直結します。

それが、病いでなくてなんでしょう。

気の持ちよう、気のせい、根性がない、と仰ること、それは「足の骨が折れている人に”自力で歩け!”と言っていることとなんらの変わりはないと思うのです。

 

自分に厳しくして、人に厳しくして、何になりましょう。

 

 

みなさんは暇つぶしをするとき何をしますか?

人を貶しますか?

自分を虐めますか?

喧嘩をしますか?

差別・偏見を持って人に接しますか?

 

生きることもひとつの暇つぶしだと思うのです。

死を前にして、誰かと争いたいと思われますか?

そうでなくても世の中には悲しいことつらいことがたくさんあります。

それを増やして何になりましょう。

 

悲しいのは、つらいのは、大切なひとが死んだときだけで十分だと、感じるのです。

 

僕は、生きる上で、希死念慮持ちのひとりとして、うつ等の精神的しんどさを抱える人や自死・自殺問題に関わっていきたいと考えています。

世間一般とされる価値観が合わない人びと(自分含む)やしんどさを抱える人びとが、自分の思いを素直に吐き出すことができ、否定・偏見・差別なく相互の想いを受け止めることのできる人が集うコミュニティをまもりたい(できれば増やしたい、繋げたい)と思っています。

そのために何ができるのか。

・コミュニティの管理人(今目指しているものは牧師)を目指すこと

・共同体として機能しているコミュニティを見つけるため、否定・偏見・差別に意識を向けているコミュニティを探すこと(ネットコミュニティ含む)、そしてできれば繋げること

・昔から死生について考える役割を担ってきた宗教の、様々な宗教の垣根を越えて、死ぬことと生きることについて考えることのできる場に参加すること(そのことによって、それぞれの多様な価値観を知り、お互いの内面について語り合い、お互いによりよく生きるために考え、理解し合うこと)[Life walkはこのひとつでした。]

・精神的なしんどさを抱える人が集う場所へ、当事者として、また関わって生きたいひとりとして参加し、ひとつひとつの悲しみを知り、ひとつひとつに寄り添う努力をすること

・多様性をより知るために、様々な国から来ている人々と交流する場に出ること

(・他国で、自分がより社会の少数派とされる環境で過ごしてみること)

 

そして、上記の目標へ向かう今の手段は

・神学館で学ぶこと

・死ぬこと生きることについて考える集まり、自死遺族会、国際交流サークルなどを探し参加していくこと

・価値観の押し付けを行う人とは距離を置くこと、

・自分の心、自分のしんどさを受け止めること 。ぼちぼち諦めつつ、休みつつ、やりたいと思うことがなくならないようにゆっくり、生きるという暇つぶしをすること。

 

これまで述べてきたことは、自分の力だけでどうにかなることではありません。

私の力ではむりです。

だから、祈ります。

 

P.S.

青いブレスレット運動という活動に参加しています。


青いブレスレット運動



あるサイトの呼びかけ文を
一部引用させてもらっています


青いブレスレット運動は
今、自分自身が自傷してる人
または自傷に関係のある人
(友達、恋人、家族…など大切な人が自傷している)
過去に自傷経験があった人

上記にあてはまる人
あてはまらなくても
共感してくださる人は
左手に青いブレスレットを
つけて下さいと言う運動です

ミサンガでもブレスレットでも
時計でもヘヤゴムでも
青系なら何でもOKなんだそうです


青いブレスレットの意味は
『一人じゃない』

同じブレスレットを付け
自分と闘う人や
そんな人を理解をしてくれる人
応援してくれる味方がいる

だから『一人じゃない』よと

そんな運動です。



もし参加していただけるのなら
左手に一緒に青いブレスレットを
つけていただけませんか?

それだけでいいんです


闘う人たちをどうか突き放さず
静かに見守っていてあげて下さい


そしてこの運動も
広めて下さると嬉しいです

 

青いブレスレット運動

P_20170402_163457_vHDR_On_1.jpg を表示しています

このブレスレットは組み紐で作ったものですが、紐がめちゃくちゃ余っているので、欲しい方がいらっしゃったらご連絡くださいませ。作りますので。

 

祈り 祈祷書から 

すべての国の人びとに/互いに尊敬する心を与え、ともにすべての人の幸いを求めさせてください/

悩む人、悲しむ人、病気の人、貧しい人、その他災いの中にある人びとを顧み、/導いてください

(祈祷書p1688 聖餐式 代祷から)

主よ、主よ、主よ。 

足跡 / Footprints

暗闇を這う時、光を見出すのは、自分の心の深奥。
あなたと、あなたの心の奥底に在る想いを無視しては、生きていくことはむつかしい。

・生きることと死ぬこと
生者とは、”自分の想いを探すために、死の直前まで心を尽くして、時間を使う者”。
死者とは、”死ぬ直前まで自分の想いを省みず、心を騒がせる言動によって、自分の心から目を背け続ける者”。肉体的死の直前に、「私はこれまで生きてきて、結局何をしてきたのだ」と思う可能性が高い者。
肉体的に死んだものが死者ではなく、肉体的に生きるものが生者でもない。
もしそうだとするならば、ここに在って存在する意味を見いだすことはむつかしい。
想いとして、人の間に生きる。
その瞬間を重ねることで、肉体に頼らず、身体が動かなくなっても、誰かが私を思い出して、満たされることがあるならば。
私の行動の辻褄を合わせるのは偶然(ひとりひとりの想い、人の力の及ばないところ、御力)の集い。
驕り高ぶるよりは、自分自身と目の前の人に、向き合って。否定・拒絶・偏見をできるだけ用いることなく、思い、行動し、話せますように。

自分ひとりの力ではなく、想いの支えを求めます。

・"足跡”という詩
”足跡”
マーガレット・F・パワーズ
「ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負っていた。」
マーガレット・F・パワーズ
translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association

/原文
"Footprints"
Margaret Fishback Powers
「"One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
"Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I'm aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don't understand why, when I needed You most,
You leave me."

He whispered, "My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you."」
copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers


http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_footprints.htm

・"My precious child,"
私にとって大切なあなた。

祈祷書 詩編第25編から

聖書通読と解釈 希死念慮

”慈しみ”

祈祷書 詩編第25編から 6,9,16,17,18,21節

 

6主よ、あなたの憐みと慈しみを思い出してください|| それは昔から変らないもの

9神は貧しい人を正義に導き||  へりくだる人にその道を授けられる

16神よ、わたしを顧み、慈しんでください|| わたしはただ独り苦しんでいます

17わたしの悩みを和らげ|| 苦悩の淵から救ってください

18喘ぎ苦しむわたしを顧み|| すべての罪(和することに反する言動)を赦してください

21とがなく正しく生きるように守ってください|| わたしはあなたを待ち望む

 

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

 

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

 

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

”神を見た者はいない。私達が互いに大切にし合うことで神の愛が顕れるのではないか” / 「予告編」ぼくのりりっくのぼうよみ

音楽紹介 聖書通読と解釈 希死念慮 他記事紹介 ツイッター

こんにちは。

今回は、「予告編 / ぼくのりりっくのぼうよみ」という曲の歌詞を紹介いたします。

生き方、希死念慮の感覚についての歌詞とも取れるもので、共感しつつ考えさせられました。

また純粋に、曲が好きで最近ループして聞いているので、ご紹介したいと思って選びました。

 

ーーーー

予告編 ぼくのりりっくのぼうよみ

 

昔からこの世界が

誰かが脚本を書いてる映画

みたいに思ってた

決められた線路をごろごろ進んでく

与えられた役割をこなすだけの毎日

生きるために生きる なんて退屈で意味が無い

だからぼくらキリがない 答え求め知りたがる

その先に何も無いと 実は気付きながら

 

もう言葉の紡ぎ方も分からないよ

何を歌えば 何を歌えばいい?

「それすらも言葉にすればいい」皮肉的メタ構造

意味不明な言葉に救われるの?

いずれ来たる救いに手を伸ばす 皮肉的メタ構造

 

何も変わらない同じ明日を

降り続く雨が塗り潰して

 

いっそ狂えたら楽になれるよ

またこうして僕は勘違う

 

ああ、ふざけた言葉じゃ

搔き消せない思いが

胸の中虚ろに響き渡る1人の夜

 

例えば 望みがなんでも叶うなら

一生満たされたままでいられるのかな

必要なのは何 power? color?

器には何を入れればいい?

訊いてばっかじゃ嫌われちゃうなぁ

少しは自分で考えてみるよ

あの時の傷も役に立ちそうだ

 

回らない地球に幕降ろそうか

ひたすら募る後悔 やあどうも

今回もまた駄目でした

これは何周目なんだろう

繰り返しに頭をやられました

for what? これを失いました

ひとまず今回これでおしまい

 

次回作にご期待下さい!

 

何も変わらない同じ明日を

降り続く雨が塗り潰して

 

いっそ狂えたら楽になれるよ

またこうして僕は勘違う

 

ああ、ふざけた言葉じゃ

搔き消せない思いが

胸の中虚ろに響き渡りまだ消えぬまま

ーーーー

 

「生きるために生きる なんて退屈で意味が無い
だからぼくらキリがない 答え求め知りたがる
その先に何も無いと 実は気付きながら」

 

生きる意味に明快な答えなんてない。つまり、正解がない以上何も無い(とも言える)。

でもそう気づきながらでも”生きるために生きる”には人生は長すぎる。

その時その時の自分にとって、価値がある、と信じられる価値観によって、その時信じられる”生きる意味”を見出して生きるしかないのかな、と思います。

  僕にとっては、趣味の楽しさや、意義あること、価値あることをできたという喜び、暖かい繋がりを愉しむことなのかなと思っています。

 

「いっそ狂えたら楽になれるよ

またこうして僕は勘違う

 

ああ、ふざけた言葉じゃ

搔き消せない思いが

胸の中虚ろに響き渡る1人の夜」

 

いっそ狂えたら(人生の意味も何も考えなくて済む、考える苦しみから解放されるから)楽になれる。

でもそれは、”生きる意味を持って、充足感を持って生きたい”の裏返しなのかもしれません。

胸の中虚ろに(心も身体も生かしたいという声が)響き渡る1人の夜。

こうしなきゃいけない、こうするのが普通だ、幸せだ(とされていること)に惑わされず、自分自身の心の健康、身体の健康を大切にすることを、行動基準とすることが大切なのではないでしょうか。

”世間様”は自分を幸せにしてくれるものではありません。むしろ逆です。

 

 

 

 

「例えば 望みがなんでも叶うなら

一生満たされたままでいられるのかな

必要なのは何 power? color?

器には何を入れればいい?

訊いてばっかじゃ嫌われちゃうなぁ

少しは自分で考えてみるよ

あの時の傷も役に立ちそうだ」

 

例えば望みがなんでも叶うなら、

”全ての人に「互いに尊敬する心を与え すべての人の益となることを求めさせてください」

「体・心・霊において苦しむすべての人々を慰め癒し その困難」を取り去ってください”

と望むと思います。(祈祷書の代祷の部分から引用)

そのことによって、私自身も生きやすく、親愛を多く感じて生きていくことができると思うからです。

しかし、どう作用するかわからない僕の望みをなんでも叶えてくれることはないので、自分で考えますと、

この望みのために必要なのは、「理解力、多様性への寛容、客観視する力、それぞれの苦しみはそれぞれに”苦しみ”であることを忘れずにいること」などだと考えています。

また、それらはpower(理解するための思考力)でもあり、color(個性・違いを認めること)でもあると思います。

 

「あの時の傷」(おそらくすべての人がいつか受ける傷)ー親愛なる人の死、裏切り、自分の思いが無下にされる悲しさ、人間が行う不条理、自然が行う不条理、無理解に囲まれるつらさ、等々。

そういう経験が良いものであるとは思いません。

減らしていきたいことだと思います。

しかし、そういったものは、苦しむ人や、似た立場にある人の気持ちを想像する手助けにはなり得ると思います。

 

 

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残念ながら、今回ご紹介した「予告編」はyoutubeに音源がないので、同じアルバムの「be noble」のMVを下記に貼っておきます。

www.youtube.com

 

 

聖書引用

「”神を見た者はいない。私達が互いに大切にし合うことで神の愛が顕れるのではないか”

新約聖書 ヨハネの第一の手紙4章11,12節

4:11
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
4:12
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」

 

 

祈り

私が、この生の中で、目に見えるモノよりも目に見えないものに目を注ぎ、価値を見出していることができますように。

まず私自身があなたによって慰められ、理解され、愛されることによって、他者に慰められるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛する者となることができますように。

信仰の死んだキリスト教徒 / ”行いを伴わない信仰は死んだもの” 新約聖書 ヤコブの手紙2章13~17節

他記事紹介 希死念慮 演説

こんにちは。

忙しさと考えることの多さにしんどくなって、しばらくぶりの更新となってしまいました。

今日は、この記事が面白いと思ったので、ご紹介します。

 

jp.reuters.com

 

※注釈:上記の「」内の文言は、ローマ法王が言ったわけでなく、そのように言われることがこれまで何度あったか、という形で他者の言及を引用しています。タイトルのつけ方と内容の書き方に難がありますが、「」内にローマ法王が理解を示していることだけでも十分面白い記事だと思い、ご紹介しました。

 

記事内に以下の文言があります。

「自分が熱心なカトリック信者で、いつもミサに行き、いろいろな団体にも所属していると言う人がいるが、そうした人の中には従業員に適切な賃金を支払っていないとか、他人を搾取しているとか、汚い仕事をしているなど、自分の生活がキリスト教徒的でないと言うべき人もいると指摘した。」

"There are those who say 'I am very Catholic, I always go to Mass, I belong to this and that association'," 
”these people should also say "'my life is not Christian, I don't pay my employees proper salaries, I exploit people, I do dirty business, I launder money, (I lead) a double life'."

(英文は下記記事から引用)

news.abs-cbn.com

 

「自分の生活がキリスト教徒的でないと言うべき人」

僕は、これは「キリスト教徒を自称しながら結局、経済主義(資本主義)に隷属してしまっている人」を例として挙げられているのだと思いました。

生きること・人生を、キリスト教義的に解釈した場合、「賃金の支払いを誤魔化す、他者を搾取する、不正なビジネスをする」ことに価値を見出すことは困難です。

つまりは、二重生活"double life"を送っている人、というのは、(日本では想像しにくいかもしれませんが、)キリスト教信者を自称することで得られる信頼や社会的地位を利用して、その実自分の利益のために他者を痛めつけることのできる人、と言うことができるのではないかと思います。

そして、意図的に他者を痛めつける人は、全く、微塵も、キリスト教徒的でないと思います。

 

しかし、~~教徒であろうとなかろうと、「自らの利益のために他者を痛めつけることのできる人」は、存外多くいるようです。

反対の視点から見れば、そういった人たちの何倍も、痛めつけられる側の人間がいるということです。

 

下記のA1理論さんの記事を読んで、

近年の「痛めつける側の人間」が作った教義が「経済を回せ」なんじゃないかなと感じました。

 

okite.hatenadiary.jp

 

「人間がよりよい生活をするための経済社会であって、その経済を回すために心身を壊して働くなんて、僕から言わせればどう考えてもおかしい。」

 

ひとりひとりの人間が、生きやすい生活環境を得るための「社会」であって、一部の人間が贅沢するために多数を痛めつけてよいという「社会」ではないんですよね。

もしそうであれば、支配層の人数が違うだけで独裁国家と大差なくなってしまいます。

僕は、どんな肩書を持つ人間だろうと、他者の苦しみを生み出すことは、人間として最も善くない行為のひとつではないかと思います。

全くしないことはむずかしいでしょうが、積極的に他者の苦しみを生み出す人が増えないことだけを願います。

 

メメント・モリ(死を意識せよ)。

どうせ人生は死ぬまでの時間つぶしです。

であれば、お金や名誉なんていう、一瞬自分が気持ちよくなるだけの虚しいものにこだわらず、可能なだけでも、みんなで仲良く楽しく暇つぶししたいな、と思ったりしています。

 

 

 キリスト教義的な在り方の一例として以下の聖書箇所を引用します。

「”行いを伴わない信仰は死んだもの”

新約聖書 ヤコブの手紙2章13~17節

2:13
あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。
2:14
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:15
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

2:17
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」

 

 

祈り

坂爪さんの言葉がとても良いと感じたので、言葉をお借りして祈ります。

 

神を信じる強さ、親愛の存在を信じる強さを僕に。

この取るに足らぬ生の中で、あなたの御力によって、”いい仕事”をさせてくださいますように。

 

ibaya.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

生き方、話し方、歩み方 / ツイッター備忘録

ツイッター 他記事紹介 希死念慮

 

自分を愛し、人を愛す。

目の前の一人を大切に。

ゆるく楽しく温かく生きる。

しみ@shimi_yurutabi

 

 

「自分の弱さを相手に打ち明けることは、信頼関係を築くための通過儀礼ですよ」

れん@ren_hi_chan

 

何かを他人に強制することの恐ろしさがそこら中にあって、そこに無自覚の人の言葉は基本益がないように感じる。「あなたはそう考えるんですね、僕はそうではないです」と言っても強制してくるようなら対話ができない。

羊@Sheltie_s_sheep

 

しんどいと能力落ちるなぁ。けどそれを無理に保つのは自壊の道だからほどほどに。

羊@Sheltie_s_sheep

 

 

 

 

俺「母に言わせると私、苦労が足りないって。わかるんですよ。20歳で男と離婚して女手一つで子どもを育てた人なんで…」

カウンセラー「そんなん、オカンが勝手にセックスして勝手に苦労しただけじゃん」

切れ味抜群かよ。

チンコ見せろ妖怪@iroha1966

 

わたし自分の身に起きてよっくわかったんだけどさ。

「自分はまだいける」「自分は大丈夫、折れてない」こういうワードを考えるようになったらもう危険水域に方まで突っ込んでる状態だからね! 人生は長いんだからおぼれ死ぬ前に、自分のサインに素直になろう。

シン・ハルコ@tamalovepoaro

 

コレ割とまじめに思う。私はこういうワードを繰り返した結果ダメになったから、こういう言葉のドーピングを繰り返してる人は1回切り離す、っていうのも必要な自己救済だと思うんだ。

シン・ハルコ@tamalovepoaro

 

悩むのも不安になることも当たり前のこと、弱さも、淋しさも、全部それでいいのだと思う。元気な時に「このままで行こう」と思うことは簡単だけど、元気のない時も、元気のないままで「このままで行こう」と生きる姿勢が、自分の中心を生きる芯になる。どんな時も、自分を責めてはいけないのだと思う。

坂爪圭吾@KeigoSakatsume

 

お金を使うこと以外にストレスを解消する方法を大人になるまでに見つけられたらすごく心強いと思う、お金のない学生時代にしておきたかったことのひとつです。

sleep@sleep111

 

これが誰にとっても最も良い、理想的だなんてものは、ない

羊@Sheltie_s_sheep

 

 

将来の夢は?

と聞くと大抵の日本人は職業の話をする。

アメリカ人に将来の夢は?

と聞くとどんな人生を歩みたいか話す。

日本人は人生の手段の話しをして

アメリカ人は人生の目的の話しをする。

この差はすごく大きい。

だーまん@旅好き@7DAMAN7

 

 

 祈り

あなたがともに居る安らぎを。

洗礼、信仰とは何か/ ”語るにおそく、怒るにおそく”

聖書通読と解釈 牧師の勉強 希死念慮 他記事紹介

こんにちは。

今回は、洗礼、信仰について考えたいと思います。

先日参加した青年キャンプの集いで、人々の考え方や在り方の多様さを改めて感じました。また、身近な人に洗礼について考える機会をいただいたこともあって、このテーマにしました。

多様な論説のある部分であり、圧倒的な知識不足ではあると思うのですが、今の自分の考えを書き留めます。

今回は、ルカによる福音書10章29~36節、ヤコブの手紙ヤコブの手紙1章19~27節、ヨハネの第一の手紙3章17節、4章20節を引用します。

 

 

まず、なぜ洗礼をテーマとして扱おうとしたのかと言いますと、「洗礼を受けたらそれによって、その時点で救われる」という理解をしている人が、キリスト教にあまり触れていない人、また触れている人でも、多いように感じるからです。

僕はそうは思っておらず、「洗礼」というのは、「行い」を伴ってはじめて意義深くなると思っています。

 

この「行い」について示しているのは、「善きサマリア人」としても知られる、以下の箇所だと考えています。

 

「”信仰は行いによって”

新約聖書ルカによる福音書10章29~36節

10:29
すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
10:30
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
10:31
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
10:32
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
10:33
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
10:34
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
10:36
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」」

 

ここで、はじめにイエスに質問しているのは律法学者です。ユダヤ教の律法を管理する社会的地位の高い人々でした。(注釈:イエス・キリストユダヤ教徒として生き、死んだ、と考えられています。)

また、祭司はユダヤ教祭司です。

そして、レビ人もまた、ユダヤ教神殿の管理をしている部族でした。

しかし反対に、サマリア人は、当時異教を信じているとして迫害されていた社会的地位の低い人々でした。

しかし、ここの例えでは、最も信仰に近いはずの祭司やレビ人ではなく、サマリア人が最も高くされた者として扱われています。

つまり、行いを伴わなければ、どのような肩書があったとしても、価値があるとはされない、ということではないでしょうか。

 

この事を現代に当てはめると、~~教徒であろうとなかろうと、自分自身と他者を大切にし、相手を思いやることのできる人が、善き人とされるといえると思います。

 

キリスト教だろうと、他宗教だろうと、無宗教だろうと、人と人が共に生きていくためには、それぞれの人間が、お互いの「思い(考え方)と行い(行動)」を偏見・差別することなく受け止め、相互理解しようとすることが、大切だと感じます。

 

僕は「キリスト教における洗礼」は、「教会(信徒の集まり)に繋がる儀式」であるとともに、「「信仰にもとづいた行いをしていきます」という”形の上”での信仰告白」だと思っています。

つまり、「洗礼」を受ければそれで全てが解決するのではなく、「思いと行いを伴って」、「生きるとはなにかを考え続け、試行錯誤し、実践し続けて」はじめて、信仰として生きてくるのだと考えています。

 

 

ヤコブの手紙1章26節の箇所にも、「行いをともなわない信仰は死んだもの」だとする箇所があります。

 

「”他者や自分の心を傷つけることは不信仰”

ヤコブの手紙1章26節
1:26

もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。」

 

僕もそのようであると思います。

また、上に記した、「善きサマリア人」の教えは、以下のような箇所にも表されていると感じます。

 

「"人を大切に思わない言葉と行いは不誠実”

ヨハネの第一の手紙3章17節

3:17
世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」

ヨハネの第一の手紙4章20節

4:20
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」

ーーーー

 

 ヤコブの手紙1章19~27節を引用します。

「”語るにおそく、怒るにおそく”

ヤコブの手紙1章19~27節

1:19

愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

1:20

人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

1:21

だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(平和への想い)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

1:22

そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

1:23

おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。

1:24

彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

1:25

これに反して、完全な自由の律法(自分を愛し隣人を愛せ)を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

1:26

もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。

1:27

父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

 

僕はこの箇所の「御言(みことば)」という言葉を、「平和に向かう想い・言葉・行い」だと考えています。

そして「平和に向かう想い・言葉・行い」とは、「自分の価値観をしっかり大切にした上で、他者の価値観を受けとめ、互いを尊重して話すこと・動くこと」だと思っています。

 

これは、言うのはすごく簡単ですが、完全に実践することは不可能だと、僕は思っています。

なぜなら、自分の価値観・考え方・心を100%理解することは不可能だと思いますし、その十分には理解できていない「自分の心」を通して見る、「他者の価値観・考え方・心」に対する理解も、(どれだけその人に向き合い、長い時間を過ごし、話を聞いたとしても)不十分なものであると思うからです。

 

だからといって、他者を理解することを放棄していては、コミュニティ(”社会”もそのひとつ)は崩壊してしまいます。

自分や他者を100%理解することは不可能であっても、理解に近づくことは可能だと思います。

 

そのためには「多様性への寛容」という姿勢が大切だと思っています。

「相手の考えを否定しないこと」

「話し合いをしているときにお互いが感情的にならないよう努力すること」

「相手の人種・性別・文化その他あらゆる違いに対して偏見・差別をもって見ないこと」

「他者の多様性を理解するために、まず自分がどういった価値観であるか理解するよう努め続けること

(自分にとって生きる上で何が大切か、何に精神的負荷を感じるか、など。それらを理解することで、多様な価値観が存在する世界の中で、自分の立ち位置をある程度測り、客観的視点(他者の価値観への理解)を獲得しやすくなると思います。)。」

 

上記したもの以外にも、大切なことはきっとたくさんあると思います。

けれど、「自分の価値観をしっかり大切にした上で、他者の価値観を受けとめ、互いを尊重して話すこと・動く事」の具体的なむずかしさについて、書きたくて、一例として挙げました。

 

今の社会は、一時的であれ慢性的であれ、心弱められた人の存在を見ないように見ないように、必死でしている(してきた)ような気がします。

けれど、人と人は、助け合った方が生きやすいんではないでしょうか。

心弱められた人を見ないようにした結果が、自殺大国の称号であり、また、内面について語り合う場が極端に少ない環境をつくりだしてしまったのではないでしょうか。

 

僕は、宗教であろうとなかろうと、(すべての人が、人生においておそらく一度以上味わう)心弱められる出来事・現象があったとき、安心して集い、自分の心の内(本音)について話すことができる場がもっと増えたらいいなと思っています。

 

toianna.hatenablog.com

 

 

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こういった記事を読んでいますと、何が「善い」のか、考えさせられます。

けれど僕は、少なくとも、価値ある指標は「人の心」であって、「金銭」ではないと思うのです。

 

okite.hatenadiary.jp

 

行いを伴う信仰を。

行いを伴う生き方を。

 

 

祈り

思いと言葉と行いをすべて「善い(自分の心、他者の心を大切にする)」とされるようにすることは、とてもできないと思います。それでも、自分自身を、他者を、否定することができるだけ少なく、生きていけるようにさせていただけますように。見えるもの(金銭など)ではなく、見えないもの(人の心、人との繋がり)に目を注げますように。あなたによって慰められ、慰められるよりも慰めるものであれますように。