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現代日本で聖書を読む意味

希死念慮持ち。内容は個人的解釈です。気持ちに余裕がある時に更新します。

祈祷書 詩編第25編から

聖書通読と解釈 希死念慮

”慈しみ”

祈祷書 詩編第25編から 6,9,16,17,18,21節

 

6主よ、あなたの憐みと慈しみを思い出してください|| それは昔から変らないもの

9神は貧しい人を正義に導き||  へりくだる人にその道を授けられる

16神よ、わたしを顧み、慈しんでください|| わたしはただ独り苦しんでいます

17わたしの悩みを和らげ|| 苦悩の淵から救ってください

18喘ぎ苦しむわたしを顧み|| すべての罪(和することに反する言動)を赦してください

21とがなく正しく生きるように守ってください|| わたしはあなたを待ち望む

 

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”神を見た者はいない。私達が互いに大切にし合うことで神の愛が顕れるのではないか” / 「予告編」ぼくのりりっくのぼうよみ

音楽紹介 聖書通読と解釈 希死念慮 他記事紹介 ツイッター

こんにちは。

今回は、「予告編 / ぼくのりりっくのぼうよみ」という曲の歌詞を紹介いたします。

生き方、希死念慮の感覚についての歌詞とも取れるもので、共感しつつ考えさせられました。

また純粋に、曲が好きで最近ループして聞いているので、ご紹介したいと思って選びました。

 

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予告編 ぼくのりりっくのぼうよみ

 

昔からこの世界が

誰かが脚本を書いてる映画

みたいに思ってた

決められた線路をごろごろ進んでく

与えられた役割をこなすだけの毎日

生きるために生きる なんて退屈で意味が無い

だからぼくらキリがない 答え求め知りたがる

その先に何も無いと 実は気付きながら

 

もう言葉の紡ぎ方も分からないよ

何を歌えば 何を歌えばいい?

「それすらも言葉にすればいい」皮肉的メタ構造

意味不明な言葉に救われるの?

いずれ来たる救いに手を伸ばす 皮肉的メタ構造

 

何も変わらない同じ明日を

降り続く雨が塗り潰して

 

いっそ狂えたら楽になれるよ

またこうして僕は勘違う

 

ああ、ふざけた言葉じゃ

搔き消せない思いが

胸の中虚ろに響き渡る1人の夜

 

例えば 望みがなんでも叶うなら

一生満たされたままでいられるのかな

必要なのは何 power? color?

器には何を入れればいい?

訊いてばっかじゃ嫌われちゃうなぁ

少しは自分で考えてみるよ

あの時の傷も役に立ちそうだ

 

回らない地球に幕降ろそうか

ひたすら募る後悔 やあどうも

今回もまた駄目でした

これは何周目なんだろう

繰り返しに頭をやられました

for what? これを失いました

ひとまず今回これでおしまい

 

次回作にご期待下さい!

 

何も変わらない同じ明日を

降り続く雨が塗り潰して

 

いっそ狂えたら楽になれるよ

またこうして僕は勘違う

 

ああ、ふざけた言葉じゃ

搔き消せない思いが

胸の中虚ろに響き渡りまだ消えぬまま

ーーーー

 

「生きるために生きる なんて退屈で意味が無い
だからぼくらキリがない 答え求め知りたがる
その先に何も無いと 実は気付きながら」

 

生きる意味に明快な答えなんてない。つまり、正解がない以上何も無い(とも言える)。

でもそう気づきながらでも”生きるために生きる”には人生は長すぎる。

その時その時の自分にとって、価値がある、と信じられる価値観によって、その時信じられる”生きる意味”を見出して生きるしかないのかな、と思います。

  僕にとっては、趣味の楽しさや、意義あること、価値あることをできたという喜び、暖かい繋がりを愉しむことなのかなと思っています。

 

「いっそ狂えたら楽になれるよ

またこうして僕は勘違う

 

ああ、ふざけた言葉じゃ

搔き消せない思いが

胸の中虚ろに響き渡る1人の夜」

 

いっそ狂えたら(人生の意味も何も考えなくて済む、考える苦しみから解放されるから)楽になれる。

でもそれは、”生きる意味を持って、充足感を持って生きたい”の裏返しなのかもしれません。

胸の中虚ろに(心も身体も生かしたいという声が)響き渡る1人の夜。

こうしなきゃいけない、こうするのが普通だ、幸せだ(とされていること)に惑わされず、自分自身の心の健康、身体の健康を大切にすることを、行動基準とすることが大切なのではないでしょうか。

”世間様”は自分を幸せにしてくれるものではありません。むしろ逆です。

 

 

 

 

「例えば 望みがなんでも叶うなら

一生満たされたままでいられるのかな

必要なのは何 power? color?

器には何を入れればいい?

訊いてばっかじゃ嫌われちゃうなぁ

少しは自分で考えてみるよ

あの時の傷も役に立ちそうだ」

 

例えば望みがなんでも叶うなら、

”全ての人に「互いに尊敬する心を与え すべての人の益となることを求めさせてください」

「体・心・霊において苦しむすべての人々を慰め癒し その困難」を取り去ってください”

と望むと思います。(祈祷書の代祷の部分から引用)

そのことによって、私自身も生きやすく、親愛を多く感じて生きていくことができると思うからです。

しかし、どう作用するかわからない僕の望みをなんでも叶えてくれることはないので、自分で考えますと、

この望みのために必要なのは、「理解力、多様性への寛容、客観視する力、それぞれの苦しみはそれぞれに”苦しみ”であることを忘れずにいること」などだと考えています。

また、それらはpower(理解するための思考力)でもあり、color(個性・違いを認めること)でもあると思います。

 

「あの時の傷」(おそらくすべての人がいつか受ける傷)ー親愛なる人の死、裏切り、自分の思いが無下にされる悲しさ、人間が行う不条理、自然が行う不条理、無理解に囲まれるつらさ、等々。

そういう経験が良いものであるとは思いません。

減らしていきたいことだと思います。

しかし、そういったものは、苦しむ人や、似た立場にある人の気持ちを想像する手助けにはなり得ると思います。

 

 

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残念ながら、今回ご紹介した「予告編」はyoutubeに音源がないので、同じアルバムの「be noble」のMVを下記に貼っておきます。

www.youtube.com

 

 

聖書引用

「”神を見た者はいない。私達が互いに大切にし合うことで神の愛が顕れるのではないか”

新約聖書 ヨハネの第一の手紙4章11,12節

4:11
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
4:12
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」

 

 

祈り

私が、この生の中で、目に見えるモノよりも目に見えないものに目を注ぎ、価値を見出していることができますように。

まず私自身があなたによって慰められ、理解され、愛されることによって、他者に慰められるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛する者となることができますように。

信仰の死んだキリスト教徒 / ”行いを伴わない信仰は死んだもの” 新約聖書 ヤコブの手紙2章13~17節

他記事紹介 希死念慮 演説

こんにちは。

忙しさと考えることの多さにしんどくなって、しばらくぶりの更新となってしまいました。

今日は、この記事が面白いと思ったので、ご紹介します。

 

jp.reuters.com

 

※注釈:上記の「」内の文言は、ローマ法王が言ったわけでなく、そのように言われることがこれまで何度あったか、という形で他者の言及を引用しています。タイトルのつけ方と内容の書き方に難がありますが、「」内にローマ法王が理解を示していることだけでも十分面白い記事だと思い、ご紹介しました。

 

記事内に以下の文言があります。

「自分が熱心なカトリック信者で、いつもミサに行き、いろいろな団体にも所属していると言う人がいるが、そうした人の中には従業員に適切な賃金を支払っていないとか、他人を搾取しているとか、汚い仕事をしているなど、自分の生活がキリスト教徒的でないと言うべき人もいると指摘した。」

"There are those who say 'I am very Catholic, I always go to Mass, I belong to this and that association'," 
”these people should also say "'my life is not Christian, I don't pay my employees proper salaries, I exploit people, I do dirty business, I launder money, (I lead) a double life'."

(英文は下記記事から引用)

news.abs-cbn.com

 

「自分の生活がキリスト教徒的でないと言うべき人」

僕は、これは「キリスト教徒を自称しながら結局、経済主義(資本主義)に隷属してしまっている人」を例として挙げられているのだと思いました。

生きること・人生を、キリスト教義的に解釈した場合、「賃金の支払いを誤魔化す、他者を搾取する、不正なビジネスをする」ことに価値を見出すことは困難です。

つまりは、二重生活"double life"を送っている人、というのは、(日本では想像しにくいかもしれませんが、)キリスト教信者を自称することで得られる信頼や社会的地位を利用して、その実自分の利益のために他者を痛めつけることのできる人、と言うことができるのではないかと思います。

そして、意図的に他者を痛めつける人は、全く、微塵も、キリスト教徒的でないと思います。

 

しかし、~~教徒であろうとなかろうと、「自らの利益のために他者を痛めつけることのできる人」は、存外多くいるようです。

反対の視点から見れば、そういった人たちの何倍も、痛めつけられる側の人間がいるということです。

 

下記のA1理論さんの記事を読んで、

近年の「痛めつける側の人間」が作った教義が「経済を回せ」なんじゃないかなと感じました。

 

okite.hatenadiary.jp

 

「人間がよりよい生活をするための経済社会であって、その経済を回すために心身を壊して働くなんて、僕から言わせればどう考えてもおかしい。」

 

ひとりひとりの人間が、生きやすい生活環境を得るための「社会」であって、一部の人間が贅沢するために多数を痛めつけてよいという「社会」ではないんですよね。

もしそうであれば、支配層の人数が違うだけで独裁国家と大差なくなってしまいます。

僕は、どんな肩書を持つ人間だろうと、他者の苦しみを生み出すことは、人間として最も善くない行為のひとつではないかと思います。

全くしないことはむずかしいでしょうが、積極的に他者の苦しみを生み出す人が増えないことだけを願います。

 

メメント・モリ(死を意識せよ)。

どうせ人生は死ぬまでの時間つぶしです。

であれば、お金や名誉なんていう、一瞬自分が気持ちよくなるだけの虚しいものにこだわらず、可能なだけでも、みんなで仲良く楽しく暇つぶししたいな、と思ったりしています。

 

 

 キリスト教義的な在り方の一例として以下の聖書箇所を引用します。

「”行いを伴わない信仰は死んだもの”

新約聖書 ヤコブの手紙2章13~17節

2:13
あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。
2:14
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:15
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

2:17
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」

 

 

祈り

坂爪さんの言葉がとても良いと感じたので、言葉をお借りして祈ります。

 

神を信じる強さ、親愛の存在を信じる強さを僕に。

この取るに足らぬ生の中で、あなたの御力によって、”いい仕事”をさせてくださいますように。

 

ibaya.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

生き方、話し方、歩み方 / ツイッター備忘録

ツイッター 他記事紹介 希死念慮

 

自分を愛し、人を愛す。

目の前の一人を大切に。

ゆるく楽しく温かく生きる。

しみ@shimi_yurutabi

 

 

「自分の弱さを相手に打ち明けることは、信頼関係を築くための通過儀礼ですよ」

れん@ren_hi_chan

 

何かを他人に強制することの恐ろしさがそこら中にあって、そこに無自覚の人の言葉は基本益がないように感じる。「あなたはそう考えるんですね、僕はそうではないです」と言っても強制してくるようなら対話ができない。

羊@Sheltie_s_sheep

 

しんどいと能力落ちるなぁ。けどそれを無理に保つのは自壊の道だからほどほどに。

羊@Sheltie_s_sheep

 

 

 

 

俺「母に言わせると私、苦労が足りないって。わかるんですよ。20歳で男と離婚して女手一つで子どもを育てた人なんで…」

カウンセラー「そんなん、オカンが勝手にセックスして勝手に苦労しただけじゃん」

切れ味抜群かよ。

チンコ見せろ妖怪@iroha1966

 

わたし自分の身に起きてよっくわかったんだけどさ。

「自分はまだいける」「自分は大丈夫、折れてない」こういうワードを考えるようになったらもう危険水域に方まで突っ込んでる状態だからね! 人生は長いんだからおぼれ死ぬ前に、自分のサインに素直になろう。

シン・ハルコ@tamalovepoaro

 

コレ割とまじめに思う。私はこういうワードを繰り返した結果ダメになったから、こういう言葉のドーピングを繰り返してる人は1回切り離す、っていうのも必要な自己救済だと思うんだ。

シン・ハルコ@tamalovepoaro

 

悩むのも不安になることも当たり前のこと、弱さも、淋しさも、全部それでいいのだと思う。元気な時に「このままで行こう」と思うことは簡単だけど、元気のない時も、元気のないままで「このままで行こう」と生きる姿勢が、自分の中心を生きる芯になる。どんな時も、自分を責めてはいけないのだと思う。

坂爪圭吾@KeigoSakatsume

 

お金を使うこと以外にストレスを解消する方法を大人になるまでに見つけられたらすごく心強いと思う、お金のない学生時代にしておきたかったことのひとつです。

sleep@sleep111

 

これが誰にとっても最も良い、理想的だなんてものは、ない

羊@Sheltie_s_sheep

 

 

将来の夢は?

と聞くと大抵の日本人は職業の話をする。

アメリカ人に将来の夢は?

と聞くとどんな人生を歩みたいか話す。

日本人は人生の手段の話しをして

アメリカ人は人生の目的の話しをする。

この差はすごく大きい。

だーまん@旅好き@7DAMAN7

 

 

 祈り

あなたがともに居る安らぎを。

洗礼、信仰とは何か/ ”語るにおそく、怒るにおそく”

聖書通読と解釈 牧師の勉強 希死念慮 他記事紹介

こんにちは。

今回は、洗礼、信仰について考えたいと思います。

先日参加した青年キャンプの集いで、人々の考え方や在り方の多様さを改めて感じました。また、身近な人に洗礼について考える機会をいただいたこともあって、このテーマにしました。

多様な論説のある部分であり、圧倒的な知識不足ではあると思うのですが、今の自分の考えを書き留めます。

今回は、ルカによる福音書10章29~36節、ヤコブの手紙ヤコブの手紙1章19~27節、ヨハネの第一の手紙3章17節、4章20節を引用します。

 

 

まず、なぜ洗礼をテーマとして扱おうとしたのかと言いますと、「洗礼を受けたらそれによって、その時点で救われる」という理解をしている人が、キリスト教にあまり触れていない人、また触れている人でも、多いように感じるからです。

僕はそうは思っておらず、「洗礼」というのは、「行い」を伴ってはじめて意義深くなると思っています。

 

この「行い」について示しているのは、「善きサマリア人」としても知られる、以下の箇所だと考えています。

 

「”信仰は行いによって”

新約聖書ルカによる福音書10章29~36節

10:29
すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
10:30
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
10:31
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
10:32
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
10:33
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
10:34
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
10:36
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」」

 

ここで、はじめにイエスに質問しているのは律法学者です。ユダヤ教の律法を管理する社会的地位の高い人々でした。(注釈:イエス・キリストユダヤ教徒として生き、死んだ、と考えられています。)

また、祭司はユダヤ教祭司です。

そして、レビ人もまた、ユダヤ教神殿の管理をしている部族でした。

しかし反対に、サマリア人は、当時異教を信じているとして迫害されていた社会的地位の低い人々でした。

しかし、ここの例えでは、最も信仰に近いはずの祭司やレビ人ではなく、サマリア人が最も高くされた者として扱われています。

つまり、行いを伴わなければ、どのような肩書があったとしても、価値があるとはされない、ということではないでしょうか。

 

この事を現代に当てはめると、~~教徒であろうとなかろうと、自分自身と他者を大切にし、相手を思いやることのできる人が、善き人とされるといえると思います。

 

キリスト教だろうと、他宗教だろうと、無宗教だろうと、人と人が共に生きていくためには、それぞれの人間が、お互いの「思い(考え方)と行い(行動)」を偏見・差別することなく受け止め、相互理解しようとすることが、大切だと感じます。

 

僕は「キリスト教における洗礼」は、「教会(信徒の集まり)に繋がる儀式」であるとともに、「「信仰にもとづいた行いをしていきます」という”形の上”での信仰告白」だと思っています。

つまり、「洗礼」を受ければそれで全てが解決するのではなく、「思いと行いを伴って」、「生きるとはなにかを考え続け、試行錯誤し、実践し続けて」はじめて、信仰として生きてくるのだと考えています。

 

 

ヤコブの手紙1章26節の箇所にも、「行いをともなわない信仰は死んだもの」だとする箇所があります。

 

「”他者や自分の心を傷つけることは不信仰”

ヤコブの手紙1章26節
1:26

もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。」

 

僕もそのようであると思います。

また、上に記した、「善きサマリア人」の教えは、以下のような箇所にも表されていると感じます。

 

「"人を大切に思わない言葉と行いは不誠実”

ヨハネの第一の手紙3章17節

3:17
世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」

ヨハネの第一の手紙4章20節

4:20
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」

ーーーー

 

 ヤコブの手紙1章19~27節を引用します。

「”語るにおそく、怒るにおそく”

ヤコブの手紙1章19~27節

1:19

愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

1:20

人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

1:21

だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(平和への想い)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

1:22

そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

1:23

おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。

1:24

彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

1:25

これに反して、完全な自由の律法(自分を愛し隣人を愛せ)を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

1:26

もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。

1:27

父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

 

僕はこの箇所の「御言(みことば)」という言葉を、「平和に向かう想い・言葉・行い」だと考えています。

そして「平和に向かう想い・言葉・行い」とは、「自分の価値観をしっかり大切にした上で、他者の価値観を受けとめ、互いを尊重して話すこと・動くこと」だと思っています。

 

これは、言うのはすごく簡単ですが、完全に実践することは不可能だと、僕は思っています。

なぜなら、自分の価値観・考え方・心を100%理解することは不可能だと思いますし、その十分には理解できていない「自分の心」を通して見る、「他者の価値観・考え方・心」に対する理解も、(どれだけその人に向き合い、長い時間を過ごし、話を聞いたとしても)不十分なものであると思うからです。

 

だからといって、他者を理解することを放棄していては、コミュニティ(”社会”もそのひとつ)は崩壊してしまいます。

自分や他者を100%理解することは不可能であっても、理解に近づくことは可能だと思います。

 

そのためには「多様性への寛容」という姿勢が大切だと思っています。

「相手の考えを否定しないこと」

「話し合いをしているときにお互いが感情的にならないよう努力すること」

「相手の人種・性別・文化その他あらゆる違いに対して偏見・差別をもって見ないこと」

「他者の多様性を理解するために、まず自分がどういった価値観であるか理解するよう努め続けること

(自分にとって生きる上で何が大切か、何に精神的負荷を感じるか、など。それらを理解することで、多様な価値観が存在する世界の中で、自分の立ち位置をある程度測り、客観的視点(他者の価値観への理解)を獲得しやすくなると思います。)。」

 

上記したもの以外にも、大切なことはきっとたくさんあると思います。

けれど、「自分の価値観をしっかり大切にした上で、他者の価値観を受けとめ、互いを尊重して話すこと・動く事」の具体的なむずかしさについて、書きたくて、一例として挙げました。

 

今の社会は、一時的であれ慢性的であれ、心弱められた人の存在を見ないように見ないように、必死でしている(してきた)ような気がします。

けれど、人と人は、助け合った方が生きやすいんではないでしょうか。

心弱められた人を見ないようにした結果が、自殺大国の称号であり、また、内面について語り合う場が極端に少ない環境をつくりだしてしまったのではないでしょうか。

 

僕は、宗教であろうとなかろうと、(すべての人が、人生においておそらく一度以上味わう)心弱められる出来事・現象があったとき、安心して集い、自分の心の内(本音)について話すことができる場がもっと増えたらいいなと思っています。

 

toianna.hatenablog.com

 

 

www.nikkansports.com

 

こういった記事を読んでいますと、何が「善い」のか、考えさせられます。

けれど僕は、少なくとも、価値ある指標は「人の心」であって、「金銭」ではないと思うのです。

 

okite.hatenadiary.jp

 

行いを伴う信仰を。

行いを伴う生き方を。

 

 

祈り

思いと言葉と行いをすべて「善い(自分の心、他者の心を大切にする)」とされるようにすることは、とてもできないと思います。それでも、自分自身を、他者を、否定することができるだけ少なく、生きていけるようにさせていただけますように。見えるもの(金銭など)ではなく、見えないもの(人の心、人との繋がり)に目を注げますように。あなたによって慰められ、慰められるよりも慰めるものであれますように。

生き方、子を持つことについて / ツイッター備忘録

他記事紹介 ツイッター

こんにちは。

少し間が開いた更新になってしまいました。

教会関係の集まりに2泊3日で参加していました。

 

今回も、ツイッターからの引用なのですが、また明日からはもう少し分量のある内容の記事を書いていけたらな、と思います。

 

 

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チラッとキモくて金の無いおっさん話が出たので、ついでに。俺は自分のことをそれなりに社会的弱者だと思ってるけど。自分よりしんどい思いをしながら日々生きてる人も当然居るだろうことも想像はしている。

で、その中で「世の中にはもっと辛い思いをしている人が居るんだから、俺なんて」みたいな考え方には意味が無い、と思っている。俺が自分のことを「弱者」と思っていて、時折「虐げられている」と感じていることに嘘はないからだ。そこを自分で否定する必要は無い。

しんどみ、境遇の困難さを相対的に判断して「自分は大したことない」と結論付けると言うことは、自分から見て『相対的に自分より楽な境遇だと感じた相手』を軽んじることになるからだ。俺には俺ののっぴきならない苦労が、その人にはその人の如何ともしがたい苦労がある。

皆しんどいのだ。それを「お前は男だから」「女だから」「お前はモテだから」「リア充だから」「既婚者だから」「お前は白人だから」「高額納税者だから」と相対ランクを付けて、相手のしんどみを否定することには意味が無い。

そう言う相対的しんどみランキングに相手を乗っけた時点で、自分も別の誰かにランキングに乗せられて、己の代え難いしんどさを「お前の苦労などたかが知れている」と否定されることになる。どんな状況の者だろうと上には上が居るし、下には下が居るのだから。

「俺はキモくて金の無いおっさんだから辛いし、あんたは女だから辛い。お互い、もっと生き易い世の中になったらいいですね。作っていけたらいいですね」くらいのスタンスをね、大事にしていきたい。自分の苦しみは自分だけのものなんだから。だからこそ、他人の苦しみも尊重しないと。

猫柳墓場@NM_amidaさん

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いくつもの暖かい出会いに感謝します。

今悩み苦しみ悲しみを抱えている人のもとに、安らぎと慈しみがありますように。 

 

 

 

生きる速度、映画「沈黙」を見て / ツイッター備忘録

ツイッター 希死念慮 他記事紹介

 こんにちは。

 

今日は、twitterから、僕のツイートとリツイートを少しだけ記そうと思います。

 

 

本来、自立というのは、自分のために手をかけてもらった、本当に心から安心してくつろげる場所がある、という気持ちをしっかり持てたときにできるのです。安心できる場所、くつろげる場所というのは、そういう居場所を用意してくれる人との安心できる関係が根本にあるということです。

佐々木正美さん名言集@sasakimasamibot

 

今のあなたがしなければいけないのは、偽りの自分も本当の自分も、どれも自分なのだと認める事です。駄目な自分を許し、愛することです。生きることは罪を重ねることだと言います。失敗のない人はいません。欠点のない人はいません。自分をあまり厳しく採点しないことです。

原敬bot@kiiroitori2014

 

がんばってやらないと...!とか急いで努力しないと...!ってなった時は、「どうせ死ぬまでの暇つぶしなんだから、心地よい速度でゆっくりやろう」と思い直す。

羊@Sheltie_s_sheep

 

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以下「沈黙(サイレンス)」を見て、感想。

 

沈黙見た。他にいい言い方が思いつかないが、形に拘りすぎることも愚かだし、他者の考えを捻じ曲げようとするのも愚かだと感じた。言葉も行動も、何をしても何を言っても、必ず間違いが起こるなら、それぞれに信ずる思いと、相互理解の姿勢を持っていれば、それがよいんでないかな...。

 

→信ずる思いっていうのは、今宗教とされているものだけじゃなくて、親友とか、大切だと感じる思い、こう在りたいっていうものも含めて。

羊@Sheltie_s_sheep

 

 

安らぎと慈しみがあることを祈って。

May keep my and your heart calm.