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現代日本で聖書を読む意味

希死念慮持ち。内容は個人的解釈です。気持ちに余裕がある時に更新します。

何をして生きていきたいのか / なぜ生きるのか

こんにちは。

何をして生きていきたいのかと考えて、自分のやりたいと感じること(やってみたいかなと思えること)を見つけ、行動する時に、周囲との関わりから精神的なしんどさを感じることがあります。

いろんな本当の思いを表すことばが否定され尽くして、ネガティブなイメージを貼り付けられてることで、言葉を選びづらくなり、しゃべりづらいと感じることがあります。(一生これをやって生きていきたくない。自分のやりたいことはこれではない、本当にやりたいことをしたい、生きる意味を知りたいetc)

被害妄想的になっている部分や、人の均質性同一性を求めるある種日本的思想の刷り込みに呪われている部分もあるのかもしれません。
それでも、話しやすい(ことばをあまり歪曲せず捉えてくれる)と思う相手と、話しにくい(ことばに世間様的偏見(今の常識)を織り交ぜて理解しようとする))と思う相手がいます。

人に精神的に虐げられて暮らしたいと思う人はいないと思います。
ですが、
1,精神的に虐げられないけれども、死ぬ前に後悔するような生き方をすること
2,精神的に虐げられることもあるけども、明日や1週間後死ぬとしても、今と同じ事に取り組み続けると言える生き方をすること

この2つでは、後者が本当に生きるということではないか、と感じます。
前者は、生きていても死んでいる、と感じます。(感じていました。)

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ヨハネの黙示録3:1から
すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。
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エフェソ人への手紙5:16から
今の時を生かして用いなさい。
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人と違っちゃいけない? 海が好きすぎる「人魚男」 (AFPBB News) - LINEアカウントメディア http://news.line.me/issue/oa-afpbb/318eb43e56a5?utm_source=Twitter&utm_medium=share&utm_campaign=none&share_id=vQX95527107163 #linenews via @news_line_me
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会社員、フリーター、アルバイト、学生、休職中、休憩中、など、肩書きが何であっても肩書きで判断されることなく、その人が快楽によってではなく人との関係によって、もっとも心地よく在れる在り方を求めること。それ自体が最も意義深いのではないかと感じます。
知らず知らずのうちに多くの人が世間的偏見や価値観を刷り込まれ、それが大きな社会的圧力になり、苦しまなくてもいい人びとが苦しんでいるのであれば、まず自分が、その圧力を否定する存在として生きていきたいと今は思っています。自分自身のためにも。

"慈悲深い者となれ"

"慈悲深い者となれ"

ルカによる福音書6章31から36節

 

6:31[編集]

人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。

6:32[編集]

自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。

6:33[編集]

自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。

6:34[編集]

また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。

6:35[編集]

しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

6:36[編集]

あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

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私はこの箇所を読む時、「情けは人の為ならず(情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ)」ということわざを思い起こします。

敵を愛すことはむずかしいことだと思います。いつもそうすることはとてもできず、時には距離を置くことも、お互いの平安のためによいこともまたあるのではないでしょうか。

それでも、自分を愛してくれる人を愛し、よくしてくれる人によくすることを充分おこなっていくことで、そうでないひとびとにも暖かく接する余裕を持つことができるのではないでしょうか。

苦難にひたすら耐え忍ぶ必要はないと思います。まず自分の心を大切にし、身近にいる大切な人の心を大切にし、それから繋がる人々に波及させていく。そうすることで、慈悲(暖かい人と人との繋がり)を乗数のように増やしていくことができるのではないか、と思います。

そのようでありますように。

”人のいのち(存在・価値)は、持ち物によらない”

久しぶりの更新となってしまいました。

新生活の中で騒がしく、記事を書く時間と気持ちの余裕がない日々を送っていました。しかし、今までのところ有難いことに、充実した良い時間を過ごすことができています。

昨日は、瑠璃光院、ルイ・イカール美術館というところにお邪魔し、新緑と豊かな大気、アール・デコの絵画に心落ち着く体験をしてきました。

自らの心を充足させるような”体験”(うつくしいと思う体験との出会い、心落ち着く場所・人、大切に思う人との繋がり、人の暖かさ、など)を大切にしたいと、改めて思うことができました。

 

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”人のいのち(存在・価値)は、持ち物によらない”

ルカによる福音書12章15節

12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

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持ち物(お金、肩書き、名誉、注目、物質資産)が、手の内を豊かにすることはできても、持ち物そのものによって心の内を豊かにすることはできないのではないか、と思います。

心の内を豊かにする、言い換えれば、「肉体のいのちが終わる時、満足して死ぬことができる」ためには、天の宝(自身の穏やかさ、人との暖かい繋がり、繋がりという資産)が大切なのではないか、と思います。

 

まず自分と、次に大切な人々、さらにその大切な人々から繋がる人々が、心穏やかに在れるために、ゆったりと過ごすことに総力を挙げたい所存です。

 

1日1日、自分を大切に甘やかす。

そして柔らかな思いをつなげていく。

 

そう、あれますように。

「Life walk~いのちを想う宗教者の行進~」@京都に参加して / これからの目標、今の手段

3月1日、「京都いのちの日」に、Life walk~いのちを想う宗教者の行進~に参加してきました。

 

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どういった活動か、と言いますと、上の画像に書いてあるように

自死・自殺の問題に対して関心をもち、苦悩を抱える方に寄り添う気持ちを育むことを目的とした、」広報活動です。

 

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最近は、うつ等の心の苦しみ、自殺に関する関心も以前よりは高まってきました。

しかし、依然として「自死・自殺」に関する話題はタブー視されがちです。

私はそれは、昔の人が差別・偏見の根拠としていた「穢れ」の思想と同じではないかと思います。

らい病やハンセン病などの病気は、「穢れ」や「神の罰」などではなく、「病気」でした。

であれば、本人に100%の責があるわけではないことはこの科学全盛の時代にあって自明だと思います。(もし本人の責が少しでもあれば、その人自身が悪い、ということになるならば、健康的でない生活を一瞬でもして病気になった人も、その人自身がすべて悪いとなってしまいはしませんでしょうか。)

心の病が「穢れ」でなく病気であれば、何故自身や身近な人の心の病をきっかけとして「死について考えること」をタブー視するのでしょうか。

人は100%死にます。

そのことを踏まえて、死ぬことについてみんなで考え、どう死ぬか(どう生きるか)について語り合うこと、それは、生きる人すべてに大切なことなのではないでしょうか。

 

精神的苦しみは、死に直結します。

それが、病いでなくてなんでしょう。

気の持ちよう、気のせい、根性がない、と仰ること、それは「足の骨が折れている人に”自力で歩け!”と言っていることとなんらの変わりはないと思うのです。

 

自分に厳しくして、人に厳しくして、何になりましょう。

 

 

みなさんは暇つぶしをするとき何をしますか?

人を貶しますか?

自分を虐めますか?

喧嘩をしますか?

差別・偏見を持って人に接しますか?

 

生きることもひとつの暇つぶしだと思うのです。

死を前にして、誰かと争いたいと思われますか?

そうでなくても世の中には悲しいことつらいことがたくさんあります。

それを増やして何になりましょう。

 

悲しいのは、つらいのは、大切なひとが死んだときだけで十分だと、感じるのです。

 

僕は、生きる上で、希死念慮持ちのひとりとして、うつ等の精神的しんどさを抱える人や自死・自殺問題に関わっていきたいと考えています。

世間一般とされる価値観が合わない人びと(自分含む)やしんどさを抱える人びとが、自分の思いを素直に吐き出すことができ、否定・偏見・差別なく相互の想いを受け止めることのできる人が集うコミュニティをまもりたい(できれば増やしたい、繋げたい)と思っています。

そのために何ができるのか。

・コミュニティの管理人(今目指しているものは牧師)を目指すこと

・共同体として機能しているコミュニティを見つけるため、否定・偏見・差別に意識を向けているコミュニティを探すこと(ネットコミュニティ含む)、そしてできれば繋げること

・昔から死生について考える役割を担ってきた宗教の、様々な宗教の垣根を越えて、死ぬことと生きることについて考えることのできる場に参加すること(そのことによって、それぞれの多様な価値観を知り、お互いの内面について語り合い、お互いによりよく生きるために考え、理解し合うこと)[Life walkはこのひとつでした。]

・精神的なしんどさを抱える人が集う場所へ、当事者として、また関わって生きたいひとりとして参加し、ひとつひとつの悲しみを知り、ひとつひとつに寄り添う努力をすること

・多様性をより知るために、様々な国から来ている人々と交流する場に出ること

(・他国で、自分がより社会の少数派とされる環境で過ごしてみること)

 

そして、上記の目標へ向かう今の手段は

・神学館で学ぶこと

・死ぬこと生きることについて考える集まり、自死遺族会、国際交流サークルなどを探し参加していくこと

・価値観の押し付けを行う人とは距離を置くこと、

・自分の心、自分のしんどさを受け止めること 。ぼちぼち諦めつつ、休みつつ、やりたいと思うことがなくならないようにゆっくり、生きるという暇つぶしをすること。

 

これまで述べてきたことは、自分の力だけでどうにかなることではありません。

私の力ではむりです。

だから、祈ります。

 

P.S.

青いブレスレット運動という活動に参加しています。


青いブレスレット運動



あるサイトの呼びかけ文を
一部引用させてもらっています


青いブレスレット運動は
今、自分自身が自傷してる人
または自傷に関係のある人
(友達、恋人、家族…など大切な人が自傷している)
過去に自傷経験があった人

上記にあてはまる人
あてはまらなくても
共感してくださる人は
左手に青いブレスレットを
つけて下さいと言う運動です

ミサンガでもブレスレットでも
時計でもヘヤゴムでも
青系なら何でもOKなんだそうです


青いブレスレットの意味は
『一人じゃない』

同じブレスレットを付け
自分と闘う人や
そんな人を理解をしてくれる人
応援してくれる味方がいる

だから『一人じゃない』よと

そんな運動です。



もし参加していただけるのなら
左手に一緒に青いブレスレットを
つけていただけませんか?

それだけでいいんです


闘う人たちをどうか突き放さず
静かに見守っていてあげて下さい


そしてこの運動も
広めて下さると嬉しいです

 

青いブレスレット運動

P_20170402_163457_vHDR_On_1.jpg を表示しています

このブレスレットは組み紐で作ったものですが、紐がめちゃくちゃ余っているので、欲しい方がいらっしゃったらご連絡くださいませ。作りますので。

 

祈り 祈祷書から 

すべての国の人びとに/互いに尊敬する心を与え、ともにすべての人の幸いを求めさせてください/

悩む人、悲しむ人、病気の人、貧しい人、その他災いの中にある人びとを顧み、/導いてください

(祈祷書p1688 聖餐式 代祷から)

主よ、主よ、主よ。 

足跡 / Footprints

暗闇を這う時、光を見出すのは、自分の心の深奥。
あなたと、あなたの心の奥底に在る想いを無視しては、生きていくことはむつかしい。

・生きることと死ぬこと
生者とは、”自分の想いを探すために、死の直前まで心を尽くして、時間を使う者”。
死者とは、”死ぬ直前まで自分の想いを省みず、心を騒がせる言動によって、自分の心から目を背け続ける者”。肉体的死の直前に、「私はこれまで生きてきて、結局何をしてきたのだ」と思う可能性が高い者。
肉体的に死んだものが死者ではなく、肉体的に生きるものが生者でもない。
もしそうだとするならば、ここに在って存在する意味を見いだすことはむつかしい。
想いとして、人の間に生きる。
その瞬間を重ねることで、肉体に頼らず、身体が動かなくなっても、誰かが私を思い出して、満たされることがあるならば。
私の行動の辻褄を合わせるのは偶然(ひとりひとりの想い、人の力の及ばないところ、御力)の集い。
驕り高ぶるよりは、自分自身と目の前の人に、向き合って。否定・拒絶・偏見をできるだけ用いることなく、思い、行動し、話せますように。

自分ひとりの力ではなく、想いの支えを求めます。

・"足跡”という詩
”足跡”
マーガレット・F・パワーズ
「ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負っていた。」
マーガレット・F・パワーズ
translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association

/原文
"Footprints"
Margaret Fishback Powers
「"One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
"Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I'm aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don't understand why, when I needed You most,
You leave me."

He whispered, "My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you."」
copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers


http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_footprints.htm

・"My precious child,"
私にとって大切なあなた。

祈祷書 詩編第25編から

”慈しみ”

祈祷書 詩編第25編から 6,9,16,17,18,21節

 

6主よ、あなたの憐みと慈しみを思い出してください|| それは昔から変らないもの

9神は貧しい人を正義に導き||  へりくだる人にその道を授けられる

16神よ、わたしを顧み、慈しんでください|| わたしはただ独り苦しんでいます

17わたしの悩みを和らげ|| 苦悩の淵から救ってください

18喘ぎ苦しむわたしを顧み|| すべての罪(和することに反する言動)を赦してください

21とがなく正しく生きるように守ってください|| わたしはあなたを待ち望む

 

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

 

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

 

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

”神を見た者はいない。私達が互いに大切にし合うことで神の愛が顕れるのではないか” / 「予告編」ぼくのりりっくのぼうよみ

こんにちは。

今回は、「予告編 / ぼくのりりっくのぼうよみ」という曲の歌詞を紹介いたします。

生き方、希死念慮の感覚についての歌詞とも取れるもので、共感しつつ考えさせられました。

また純粋に、曲が好きで最近ループして聞いているので、ご紹介したいと思って選びました。

 

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予告編 ぼくのりりっくのぼうよみ

 

昔からこの世界が

誰かが脚本を書いてる映画

みたいに思ってた

決められた線路をごろごろ進んでく

与えられた役割をこなすだけの毎日

生きるために生きる なんて退屈で意味が無い

だからぼくらキリがない 答え求め知りたがる

その先に何も無いと 実は気付きながら

 

もう言葉の紡ぎ方も分からないよ

何を歌えば 何を歌えばいい?

「それすらも言葉にすればいい」皮肉的メタ構造

意味不明な言葉に救われるの?

いずれ来たる救いに手を伸ばす 皮肉的メタ構造

 

何も変わらない同じ明日を

降り続く雨が塗り潰して

 

いっそ狂えたら楽になれるよ

またこうして僕は勘違う

 

ああ、ふざけた言葉じゃ

搔き消せない思いが

胸の中虚ろに響き渡る1人の夜

 

例えば 望みがなんでも叶うなら

一生満たされたままでいられるのかな

必要なのは何 power? color?

器には何を入れればいい?

訊いてばっかじゃ嫌われちゃうなぁ

少しは自分で考えてみるよ

あの時の傷も役に立ちそうだ

 

回らない地球に幕降ろそうか

ひたすら募る後悔 やあどうも

今回もまた駄目でした

これは何周目なんだろう

繰り返しに頭をやられました

for what? これを失いました

ひとまず今回これでおしまい

 

次回作にご期待下さい!

 

何も変わらない同じ明日を

降り続く雨が塗り潰して

 

いっそ狂えたら楽になれるよ

またこうして僕は勘違う

 

ああ、ふざけた言葉じゃ

搔き消せない思いが

胸の中虚ろに響き渡りまだ消えぬまま

ーーーー

 

「生きるために生きる なんて退屈で意味が無い
だからぼくらキリがない 答え求め知りたがる
その先に何も無いと 実は気付きながら」

 

生きる意味に明快な答えなんてない。つまり、正解がない以上何も無い(とも言える)。

でもそう気づきながらでも”生きるために生きる”には人生は長すぎる。

その時その時の自分にとって、価値がある、と信じられる価値観によって、その時信じられる”生きる意味”を見出して生きるしかないのかな、と思います。

  僕にとっては、趣味の楽しさや、意義あること、価値あることをできたという喜び、暖かい繋がりを愉しむことなのかなと思っています。

 

「いっそ狂えたら楽になれるよ

またこうして僕は勘違う

 

ああ、ふざけた言葉じゃ

搔き消せない思いが

胸の中虚ろに響き渡る1人の夜」

 

いっそ狂えたら(人生の意味も何も考えなくて済む、考える苦しみから解放されるから)楽になれる。

でもそれは、”生きる意味を持って、充足感を持って生きたい”の裏返しなのかもしれません。

胸の中虚ろに(心も身体も生かしたいという声が)響き渡る1人の夜。

こうしなきゃいけない、こうするのが普通だ、幸せだ(とされていること)に惑わされず、自分自身の心の健康、身体の健康を大切にすることを、行動基準とすることが大切なのではないでしょうか。

”世間様”は自分を幸せにしてくれるものではありません。むしろ逆です。

 

 

 

 

「例えば 望みがなんでも叶うなら

一生満たされたままでいられるのかな

必要なのは何 power? color?

器には何を入れればいい?

訊いてばっかじゃ嫌われちゃうなぁ

少しは自分で考えてみるよ

あの時の傷も役に立ちそうだ」

 

例えば望みがなんでも叶うなら、

”全ての人に「互いに尊敬する心を与え すべての人の益となることを求めさせてください」

「体・心・霊において苦しむすべての人々を慰め癒し その困難」を取り去ってください”

と望むと思います。(祈祷書の代祷の部分から引用)

そのことによって、私自身も生きやすく、親愛を多く感じて生きていくことができると思うからです。

しかし、どう作用するかわからない僕の望みをなんでも叶えてくれることはないので、自分で考えますと、

この望みのために必要なのは、「理解力、多様性への寛容、客観視する力、それぞれの苦しみはそれぞれに”苦しみ”であることを忘れずにいること」などだと考えています。

また、それらはpower(理解するための思考力)でもあり、color(個性・違いを認めること)でもあると思います。

 

「あの時の傷」(おそらくすべての人がいつか受ける傷)ー親愛なる人の死、裏切り、自分の思いが無下にされる悲しさ、人間が行う不条理、自然が行う不条理、無理解に囲まれるつらさ、等々。

そういう経験が良いものであるとは思いません。

減らしていきたいことだと思います。

しかし、そういったものは、苦しむ人や、似た立場にある人の気持ちを想像する手助けにはなり得ると思います。

 

 

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残念ながら、今回ご紹介した「予告編」はyoutubeに音源がないので、同じアルバムの「be noble」のMVを下記に貼っておきます。

www.youtube.com

 

 

聖書引用

「”神を見た者はいない。私達が互いに大切にし合うことで神の愛が顕れるのではないか”

新約聖書 ヨハネの第一の手紙4章11,12節

4:11
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
4:12
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」

 

 

祈り

私が、この生の中で、目に見えるモノよりも目に見えないものに目を注ぎ、価値を見出していることができますように。

まず私自身があなたによって慰められ、理解され、愛されることによって、他者に慰められるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛する者となることができますように。