死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

自分がやりたいと思ったことをやるべきと思う理由 / どうすれば幸福に生きることが可能か

先日、もやもやし続けていたものに多少の適切な言葉をつけられたような気がしたので、自戒も込めてそのことについて。

 

もし、自分がやりたい、興味がある、これをすべきだ、と思えることがあるなら、他者の尊厳を損なわず、大きな道義的問題がない限りにはやるべきだと思います。

もし、そのことを話したとき、周りの人に「そんなことでは食べていけない」「あなたのようなタイプには向いていない」「そんなことは夢物語だ、現実を見ろ」「世間体を考えろ、情けない」「社会的地位が低いから認めない」などと言われようとも、です。

これから述べることは、生きることが「そもそもつらい人間」と「そうでない人間」の差があるとは思いますが、もしあなたが前者で、

1、やりたい道を選んだ場合、人生を多少でも楽しめる可能性は5分5分です。

しかし、

2、周りの意見を中心に据えてやりたくない道を選んだ場合、人生を楽しめる可能性はほぼなくなってしまうと思います。

 

私も、一時は、周りがそれだけそう言うのなら、、と2番を選ぼうとした過去がありますが、一瞬で後悔しました。

おそらくは、「やりたいことがある人間」、「やりたいことはそんなにない人間」が居て、後者のタイプであれば、2番の選択でもその選択がよく働くことがあるのかもしれません。

しかし、「生きることがそもそもつらく」「やりたいと思える事は漠然とあった」自分にとって2番の選択肢は消極的自殺となんら変わらないものでした。

 

〇〇はどうせ自分には務まらない、向いていないだろうから(周りもそう言ってくるし)と、自分の思いをスルーして、やりたくない仕事のなかから、お金や世間体を気にして仕事を選ぶ必要はないと思います。あなたがやりたくはないけど仕方なしで選んだ仕事も、その仕事をやりたいと思っている人はきっといます。

やりたくないけど世間の圧力があるし、で仕事を選んでしまっては、やりたくもない仕事をしている人が増えていくだけで誰も幸せにならない世界が出来上がっていくと思います。

 

やりたい仕事に取り組んだ方がよい、といっても、それだけで生活費を作ることは難しいかもしれません。それでも、生活費を別で作りながらでもやりたいことはやめない方がいいと思うのです。なぜなら、あなたがやりたいことというのは、あなたをあなたならしめている、あなた自身のライフワークに他ならないからです。

もし、ある手段を選んでやりたいことに取り組んでみた結果、その手段は向いていなかった、自分にはとてもこの手段はきびしい、と思っても、それまでに得た経験、知識、人的資本(人の繋がり)から、自分の思い(漠然とした方向性を持つ意思)に多少でも応えることのできる、違う手段を探していくことが容易になります。そこから別の手段(仕事)に繋げていくこともまた、できるかもしれません。

 

特に「生きるのがつらい」人は、どうせ生きる選択肢を取るなら、現在的にでも、将来的にでも、自分と、自分にとって大切な人たち(いま思い浮かばなくとも、取り組みたいことに取り組んでいればいつか出会えると思います)が幸せに生きれる可能性の高い方に賭けた方がよいと思います。生きることそのものが割りの悪い賭けではありますが、それでも生きるなら、「幸福に生きよ、ということより以上は語り得ない(ウィトゲンシュタイン『草稿』)」と思います。

 

そして私は、幸福に生きる指標は、

「自分を生きることができているか」(これは上記したこととほぼ同義です)

「大切な人との繋がりを保てているか」

が占める部分が大きいのではないかと考えています。

 

これまで、いわゆる一般企業に勤め続けてきた4,50代の方も、飲食や派遣で勤め続けてきた4,50代の方も少ないながら見てきましたが、後者の方が幸せに見える人が相対的に多かったのは、上記した指標を意識して生きているかいないかの違いが大きく出ているように思いました。

上記の指標は、

「主体的に(世間様に屈さずに)選択できているか」

「お互いに尊厳を持って接し、お互いの幸福を願う関係をいくつ大切にし、保てているか」

 とも言い換えられると思います。

 

それぞれに、それぞれの方法と思想があるとは思いますが、やはり「幸福に生きよ、ということより以上は語り得ない」に収斂してしまうかと思います。

自分の考えもそのうち少しずつまとまっていくだろーと思っていたら、とりあえずここまでは纏まりましたので、ご査収ください。笑

 

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・自分の考えの後ろ盾となっている言葉と思想たち

「幸福に生きよ、ということより以上は語り得ないと思われる」ウィトゲンシュタイン『草稿』

「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消え行く霧に過ぎません」ヤコブの手紙4:14

「兄弟愛を持って互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思いなさい」ローマの信徒への手紙12:10

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」マタイによる福音書6:19

 

Objective of Lifetime(生涯の目的)/お客さんに問われた「何故その道を行くのか」に対する応答、備忘録

こんにちは。
今回は、ゲストハウスで働く中で、お客さんに聞かれたことへの応答シリーズの1つ目です。
2つ目をいつ書くかは未定ですが。笑
Hello.
This time, the first article of answer series to question from customers staying the Guesthouse I'm working at.
When I write the second article is not decided. lol

聞かれたときに応えた内容に、一部加筆修正を加えています。自分自身の備忘録+こういう事を考えている人がいます、という発信として書き記します。
纏まりきってはいないですが、ご容赦下さい。
I added some revision from the what i said when i was asked by the customer. This is my memorandum and the expression that there is the person who think like those things.
The sentences are not gathered up, pls forgive.

1,Q: Why are you studying Christian theology in seminary school? / 何故神学校でキリスト教神学を学んでいるのですか?

A:
I would like to be the person who can help the people feeling mental pain, no matter how little it will be.
Because I, myself, am feeling same pain and I bacame to think about mental disease more deeper by the death of my dear one and Friends's, Family's and the two Pastors's help when I had grief.
When I think about jobs treating mental disease, the one choice opening in front of me broader was a pastor.
Because the very precious opportunity to raise my face up was the encounter with the community in the church and in addition, I had already the connection with some pastor in Uni. One of them is former teacher at the club of Uni, I knew him and he cared about me, I was given the opportunity to talk with him over 3 hours for me. Talk theme was mainly "how to live".
And after I tied the Anglican communion(one of christian community), I joined the National Assenmbly of Japan Anglican Youths.
By all of people in the community I met and experiences I had, I knew there are the communities in the Japanese society which people can talk about their internal aspects of personality.
And then I thought I want to keep those communities and if I can, spread those places where people can talk internal personality regardless of religion or belief.
The communities where they who have mental pain can talk frankly without to be denied and the place where all diversity are accepted are very important for all people to lighten mind and live with comfort, and also important to make the society better.
I want to keep, (if I can) make and connect those communities, for better world(where more people, even 1 or 2 than now, can smile from the bottom of their hearts) and also for that myself can live with comfort.
To deal with above things, I am learning theology or pastoral care.

A:
わたしは、たとえそれがどれだけささやかであっても、精神的なしんどさを抱える人の助けとなれるような人になりたいと思っています。
というのも、私自身がそのような苦しみを感じて生きていること、そして、親愛なる人の死と、グリーフを抱えた私に与えられた友人たち、家族、ある2人の牧師さんの助けによって、精神的な苦痛ということをより深く考えるようになったからです。
私が、精神的苦痛を扱う職業について考えを巡らせたときに、最も自分の前に大きく開けている道は牧師でした。
というのも、私自身が顔を上げられるようになるために与えられた、本当に貴重なきっかけも教会の中でのコミュニティに出会ったことでしたし、加えて、私は大学時代に何人かの牧師さんと繋がりをすでに持っていました。そのうちのお一人は、大学時代の部活の顧問の先生で、私は彼のことを知っていましたし、彼は私のことを気にかけてくださいました、そして私のために、3時間以上も話をしていただく機会にも恵まれました。話したテーマは主に、”どう生きるか”でした。
そして私が聖公会キリスト教の一宗派)のコミュニティに繋がれた後、私は日本聖公会青年有志が行っている全国青年集会に参加しました。
それらのコミュニティやそういった経験の中で出会った人々によって、私はこの日本社会の中に、人々がお互いの内面的性質について語り合える場があることを知りました。
そして私は、そういった、人々が互いの宗教、信条に関わりなく内面的なことについて語り合える場を保持したい、出来る事ならば広げたいと思うようになりました。
そのような、精神的しんどさを持つ人々がすなおに、否定されることなく話し合える場所、そして全ての多様性が受け入れられるコミュニティは、あらゆる人が心軽くし、快適に生きていく為に非常に肝要だと思います。また、それらはより良い社会の実現のためにも大切なことだと考えます。
私は、より良い世界(今より1人でも2人でも多くの人が心から笑える)のために、そういったコミュニティを保持し、(もしできるなら)つくり、そういったコミュニティを繋げていきたいと考えています。私自身が生きやすい世の中に近づけるためにも。
これらのことに取り組むために、神学校で神学や臨床牧会を学んでいます。

何をして生きていきたいのか / なぜ生きるのか

こんにちは。

何をして生きていきたいのかと考えて、自分のやりたいと感じること(やってみたいかなと思えること)を見つけ、行動する時に、周囲との関わりから精神的なしんどさを感じることがあります。

いろんな本当の思いを表すことばが否定され尽くして、ネガティブなイメージを貼り付けられてることで、言葉を選びづらくなり、しゃべりづらいと感じることがあります。(一生これをやって生きていきたくない。自分のやりたいことはこれではない、本当にやりたいことをしたい、生きる意味を知りたいetc)

被害妄想的になっている部分や、人の均質性同一性を求めるある種日本的思想の刷り込みに呪われている部分もあるのかもしれません。
それでも、話しやすい(ことばをあまり歪曲せず捉えてくれる)と思う相手と、話しにくい(ことばに世間様的偏見(今の常識)を織り交ぜて理解しようとする))と思う相手がいます。

人に精神的に虐げられて暮らしたいと思う人はいないと思います。
ですが、
1,精神的に虐げられないけれども、死ぬ前に後悔するような生き方をすること
2,精神的に虐げられることもあるけども、明日や1週間後死ぬとしても、今と同じ事に取り組み続けると言える生き方をすること

この2つでは、後者が本当に生きるということではないか、と感じます。
前者は、生きていても死んでいる、と感じます。(感じていました。)

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ヨハネの黙示録3:1から
すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。
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エフェソ人への手紙5:16から
今の時を生かして用いなさい。
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人と違っちゃいけない? 海が好きすぎる「人魚男」 (AFPBB News) - LINEアカウントメディア http://news.line.me/issue/oa-afpbb/318eb43e56a5?utm_source=Twitter&utm_medium=share&utm_campaign=none&share_id=vQX95527107163 #linenews via @news_line_me
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会社員、フリーター、アルバイト、学生、休職中、休憩中、など、肩書きが何であっても肩書きで判断されることなく、その人が快楽によってではなく人との関係によって、もっとも心地よく在れる在り方を求めること。それ自体が最も意義深いのではないかと感じます。
知らず知らずのうちに多くの人が世間的偏見や価値観を刷り込まれ、それが大きな社会的圧力になり、苦しまなくてもいい人びとが苦しんでいるのであれば、まず自分が、その圧力を否定する存在として生きていきたいと今は思っています。自分自身のためにも。

"慈悲深い者となれ"

"慈悲深い者となれ"

ルカによる福音書6章31から36節

 

6:31[編集]

人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。

6:32[編集]

自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。

6:33[編集]

自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。

6:34[編集]

また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。

6:35[編集]

しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

6:36[編集]

あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

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私はこの箇所を読む時、「情けは人の為ならず(情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ)」ということわざを思い起こします。

敵を愛すことはむずかしいことだと思います。いつもそうすることはとてもできず、時には距離を置くことも、お互いの平安のためによいこともまたあるのではないでしょうか。

それでも、自分を愛してくれる人を愛し、よくしてくれる人によくすることを充分おこなっていくことで、そうでないひとびとにも暖かく接する余裕を持つことができるのではないでしょうか。

苦難にひたすら耐え忍ぶ必要はないと思います。まず自分の心を大切にし、身近にいる大切な人の心を大切にし、それから繋がる人々に波及させていく。そうすることで、慈悲(暖かい人と人との繋がり)を乗数のように増やしていくことができるのではないか、と思います。

そのようでありますように。

”人のいのち(存在・価値)は、持ち物によらない”

久しぶりの更新となってしまいました。

新生活の中で騒がしく、記事を書く時間と気持ちの余裕がない日々を送っていました。しかし、今までのところ有難いことに、充実した良い時間を過ごすことができています。

昨日は、瑠璃光院、ルイ・イカール美術館というところにお邪魔し、新緑と豊かな大気、アール・デコの絵画に心落ち着く体験をしてきました。

自らの心を充足させるような”体験”(うつくしいと思う体験との出会い、心落ち着く場所・人、大切に思う人との繋がり、人の暖かさ、など)を大切にしたいと、改めて思うことができました。

 

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”人のいのち(存在・価値)は、持ち物によらない”

ルカによる福音書12章15節

12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

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持ち物(お金、肩書き、名誉、注目、物質資産)が、手の内を豊かにすることはできても、持ち物そのものによって心の内を豊かにすることはできないのではないか、と思います。

心の内を豊かにする、言い換えれば、「肉体のいのちが終わる時、満足して死ぬことができる」ためには、天の宝(自身の穏やかさ、人との暖かい繋がり、繋がりという資産)が大切なのではないか、と思います。

 

まず自分と、次に大切な人々、さらにその大切な人々から繋がる人々が、心穏やかに在れるために、ゆったりと過ごすことに総力を挙げたい所存です。

 

1日1日、自分を大切に甘やかす。

そして柔らかな思いをつなげていく。

 

そう、あれますように。

「Life walk~いのちを想う宗教者の行進~」@京都に参加して / これからの目標、今の手段

3月1日、「京都いのちの日」に、Life walk~いのちを想う宗教者の行進~に参加してきました。

 

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どういった活動か、と言いますと、上の画像に書いてあるように

自死・自殺の問題に対して関心をもち、苦悩を抱える方に寄り添う気持ちを育むことを目的とした、」広報活動です。

 

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最近は、うつ等の心の苦しみ、自殺に関する関心も以前よりは高まってきました。

しかし、依然として「自死・自殺」に関する話題はタブー視されがちです。

私はそれは、昔の人が差別・偏見の根拠としていた「穢れ」の思想と同じではないかと思います。

らい病やハンセン病などの病気は、「穢れ」や「神の罰」などではなく、「病気」でした。

であれば、本人に100%の責があるわけではないことはこの科学全盛の時代にあって自明だと思います。(もし本人の責が少しでもあれば、その人自身が悪い、ということになるならば、健康的でない生活を一瞬でもして病気になった人も、その人自身がすべて悪いとなってしまいはしませんでしょうか。)

心の病が「穢れ」でなく病気であれば、何故自身や身近な人の心の病をきっかけとして「死について考えること」をタブー視するのでしょうか。

人は100%死にます。

そのことを踏まえて、死ぬことについてみんなで考え、どう死ぬか(どう生きるか)について語り合うこと、それは、生きる人すべてに大切なことなのではないでしょうか。

 

精神的苦しみは、死に直結します。

それが、病いでなくてなんでしょう。

気の持ちよう、気のせい、根性がない、と仰ること、それは「足の骨が折れている人に”自力で歩け!”と言っていることとなんらの変わりはないと思うのです。

 

自分に厳しくして、人に厳しくして、何になりましょう。

 

 

みなさんは暇つぶしをするとき何をしますか?

人を貶しますか?

自分を虐めますか?

喧嘩をしますか?

差別・偏見を持って人に接しますか?

 

生きることもひとつの暇つぶしだと思うのです。

死を前にして、誰かと争いたいと思われますか?

そうでなくても世の中には悲しいことつらいことがたくさんあります。

それを増やして何になりましょう。

 

悲しいのは、つらいのは、大切なひとが死んだときだけで十分だと、感じるのです。

 

僕は、生きる上で、希死念慮持ちのひとりとして、うつ等の精神的しんどさを抱える人や自死・自殺問題に関わっていきたいと考えています。

世間一般とされる価値観が合わない人びと(自分含む)やしんどさを抱える人びとが、自分の思いを素直に吐き出すことができ、否定・偏見・差別なく相互の想いを受け止めることのできる人が集うコミュニティをまもりたい(できれば増やしたい、繋げたい)と思っています。

そのために何ができるのか。

・コミュニティの管理人(今目指しているものは牧師)を目指すこと

・共同体として機能しているコミュニティを見つけるため、否定・偏見・差別に意識を向けているコミュニティを探すこと(ネットコミュニティ含む)、そしてできれば繋げること

・昔から死生について考える役割を担ってきた宗教の、様々な宗教の垣根を越えて、死ぬことと生きることについて考えることのできる場に参加すること(そのことによって、それぞれの多様な価値観を知り、お互いの内面について語り合い、お互いによりよく生きるために考え、理解し合うこと)[Life walkはこのひとつでした。]

・精神的なしんどさを抱える人が集う場所へ、当事者として、また関わって生きたいひとりとして参加し、ひとつひとつの悲しみを知り、ひとつひとつに寄り添う努力をすること

・多様性をより知るために、様々な国から来ている人々と交流する場に出ること

(・他国で、自分がより社会の少数派とされる環境で過ごしてみること)

 

そして、上記の目標へ向かう今の手段は

・神学館で学ぶこと

・死ぬこと生きることについて考える集まり、自死遺族会、国際交流サークルなどを探し参加していくこと

・価値観の押し付けを行う人とは距離を置くこと、

・自分の心、自分のしんどさを受け止めること 。ぼちぼち諦めつつ、休みつつ、やりたいと思うことがなくならないようにゆっくり、生きるという暇つぶしをすること。

 

これまで述べてきたことは、自分の力だけでどうにかなることではありません。

私の力ではむりです。

だから、祈ります。

 

P.S.

青いブレスレット運動という活動に参加しています。


青いブレスレット運動



あるサイトの呼びかけ文を
一部引用させてもらっています


青いブレスレット運動は
今、自分自身が自傷してる人
または自傷に関係のある人
(友達、恋人、家族…など大切な人が自傷している)
過去に自傷経験があった人

上記にあてはまる人
あてはまらなくても
共感してくださる人は
左手に青いブレスレットを
つけて下さいと言う運動です

ミサンガでもブレスレットでも
時計でもヘヤゴムでも
青系なら何でもOKなんだそうです


青いブレスレットの意味は
『一人じゃない』

同じブレスレットを付け
自分と闘う人や
そんな人を理解をしてくれる人
応援してくれる味方がいる

だから『一人じゃない』よと

そんな運動です。



もし参加していただけるのなら
左手に一緒に青いブレスレットを
つけていただけませんか?

それだけでいいんです


闘う人たちをどうか突き放さず
静かに見守っていてあげて下さい


そしてこの運動も
広めて下さると嬉しいです

 

青いブレスレット運動

P_20170402_163457_vHDR_On_1.jpg を表示しています

このブレスレットは組み紐で作ったものですが、紐がめちゃくちゃ余っているので、欲しい方がいらっしゃったらご連絡くださいませ。作りますので。

 

祈り 祈祷書から 

すべての国の人びとに/互いに尊敬する心を与え、ともにすべての人の幸いを求めさせてください/

悩む人、悲しむ人、病気の人、貧しい人、その他災いの中にある人びとを顧み、/導いてください

(祈祷書p1688 聖餐式 代祷から)

主よ、主よ、主よ。 

足跡 / Footprints

暗闇を這う時、光を見出すのは、自分の心の深奥。
あなたと、あなたの心の奥底に在る想いを無視しては、生きていくことはむつかしい。

・生きることと死ぬこと
生者とは、”自分の想いを探すために、死の直前まで心を尽くして、時間を使う者”。
死者とは、”死ぬ直前まで自分の想いを省みず、心を騒がせる言動によって、自分の心から目を背け続ける者”。肉体的死の直前に、「私はこれまで生きてきて、結局何をしてきたのだ」と思う可能性が高い者。
肉体的に死んだものが死者ではなく、肉体的に生きるものが生者でもない。
もしそうだとするならば、ここに在って存在する意味を見いだすことはむつかしい。
想いとして、人の間に生きる。
その瞬間を重ねることで、肉体に頼らず、身体が動かなくなっても、誰かが私を思い出して、満たされることがあるならば。
私の行動の辻褄を合わせるのは偶然(ひとりひとりの想い、人の力の及ばないところ、御力)の集い。
驕り高ぶるよりは、自分自身と目の前の人に、向き合って。否定・拒絶・偏見をできるだけ用いることなく、思い、行動し、話せますように。

自分ひとりの力ではなく、想いの支えを求めます。

・"足跡”という詩
”足跡”
マーガレット・F・パワーズ
「ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負っていた。」
マーガレット・F・パワーズ
translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association

/原文
"Footprints"
Margaret Fishback Powers
「"One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
"Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I'm aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don't understand why, when I needed You most,
You leave me."

He whispered, "My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you."」
copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers


http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_footprints.htm

・"My precious child,"
私にとって大切なあなた。