死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

久しぶりの勤労 / 生きる”基準”

 

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こんにちは。
久しぶりに8時間働いてきました。
疲れたので今日は短く書きます。

美しい景色の中で、優しさを持ったオーナーご夫妻に仕事を教えていただくのは、楽しかったです。

けれどやはり、引きずってる「外部評価恐怖症」の存在も再度認知しました。
他者から評価されること、評価される状況に、異常に怯えてしまう。
そんな必要はないとわかっていてもそうなので、まあ精神的な病状なのでしょう。
物心ついた時から、そういった性質は持っていましたが、以前の仕事中に、なかなか強化されてしまったようです。

はじめは失敗するもの。
冷たくされたかも、と思っても大抵の場合そんなことはない。
自分を身の丈以上に良く見せようとしない。(これ何気に一番むずかしいです...。)
そして身の丈どおりの、小さな自分を受け入れ、仲良くして、楽しく過ごす。

結構疲れてしまったのは、外部評価恐怖症に起因するところが、かなり大きいです。
でも仕事の後、「つかれたしんどい」ってなっているときにも僕は、”親愛の下僕”であることに救われます。
(生きる基準の話)

「私たちは何を基準に生きているでしょう。「正義」「愛」「利益」など色々あると思いますが、いずれにせよ私たちはその基準の「下僕」なのです。ですから何を基準に生きるかはとても大切です。」
上馬キリスト教会さんTwitterアカウントから

胸に提げたテゼのクロスに手を当てて、人の思いを超えた存在、また親友達からの”親愛”を確認することが、理性と、心でできます。
僕の見ているこの世界で、それ以上に価値のあることは、多分、ないんじゃないかと思います。


追伸:
最近、「Life walk いのちの行進」という、まるで日本版テゼ(あらゆる信仰を超えた集い)のような活動が京都であることを知りました。
仏教を中心としたあらゆる宗教者が、「いのち」について考え、提言していく取り組みです。
2017/3/1にあるようで、可能であれば参加したいと思っています。

peraichi.com

”死んでも生きる、復活とは”コリントの信徒への手紙Ⅰ15章50節、Ⅱ 4章15ー16節、18節

”死んでも生きる、復活とは”

コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節
15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章15-16節、18節
4:15すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

4:18わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
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こんにちは。
今回はキリスト教で主要な概念のひとつである「復活」について、僕なりに考えてみたいと思います。

僕はキリスト教についてあまり知らないころ、「復活、永遠の命」など死んでも御免だ、と思っていました。
せっかく、死ねば今の考える苦しみ、生きる苦しみから解放されるのに、なんで「死んでも生きないといけないのか」と考えていました。
その頃の私の知識と解釈では、「死んでも生きる」とは、死んでも苦しみ続けろ、と同義だと思っていたのです。

しかし、恩師の牧師先生にこの考えを伝えたところ、「永遠の命とは、そういう意味ではない」と言われました。

それでは、どういう意味なのか。
少しずつ、自分なりの解釈ができてきたので、それをここに記します。

「コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節
15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」


まず、「死んでも生きる」の「生きる」とは、今と同じ血肉のからだとして生きることではないのです。

僕はここでの「生きる」とは、「暖かい想いが、人々の間に繋がっていくこと」という意味だと考えています。

血肉のからだや言葉は、朽ちるものです。
しかし、想いは、人々の間で繋がり続ける限り(思いやりが思いやりを呼ぶように)朽ちずに続いていきます。
それは、ともすれば人間同士だけのことではないかもしれません。
人間と他の動物の間でも言えることかもしれません。

もしそうであるとするならば、生物がいる限り、想いは朽ちません。

私は「永遠の命」「復活」「死んでも生きる」という言葉の「生きる」という意味は「”想い”として生きる」ということなのではないか、と考えています。


「”想い”として生きる」のであれば、悪くありません。
今の考える苦しみ、生きる苦しみから解放された上で、暖かい想いという、純粋に前向きなエネルギーだけを残して逝ける(とともに「想い」として生きる)のですから。

しかし、「”想い”として生きる」とはなんでしょうか。どうすれば、そういうことができるのでしょうか。

「コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章15-16節
4:15すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」

その方法のひとつは、ここの聖句にもあるように、「感謝」だと思います。

できるだけ多くのことに感謝しながら生きていくこと。

できるだけ多くのことに”感謝しながら生きていけるように”、人生のかじを切ること。

もし自分が、そのように恵まれた立場にいるなら、環境と運によってそう思うことができない人に、暖かく接すること。

できるだけ、感謝を生み出す人になること。


もちろん、今は血肉の人間であり、暖かく、優しく、と思っていても、言葉と行動、負の感情によって、人を悲しませること、傷つけてしまうことが、どうしても起こってしまうと思います。
今も、これからも。

それでも「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」

つまり、外なる人(血肉のからだ)は日々朽ちていきますが、内なる人(想い)は日々新たにしていくことができます。

何か人を傷つけることを言ってしまったなら、次に会ったときに謝ることができます。
思いがけず人を悲しませてしまったなら、相手が落ち着くのを待って、心から寄り添い弁明する事ができます。
取り返しがつかないほど大きく、他者を苦しめてしまったなら。もう地上では、どのようにも相手に関わることはできないかもしれません。それでも、相手のため、また自分のために祈ることはできます。

メメント・モリ(死を覚えて)
朽ちていくからだを覚えて、想いを新たに持ち続けることはできます。
その生き方が、”想い”として生き続けるということに繋がるのではないか、と思います。


「コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節
4:18わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

目に見えるもの、人が理解できるものは全て朽ちます。
けれど、全貌を明らかにすることはできなくとも、正のエネルギーである「暖かい想い」は、生物が続く限り朽ちることはありません。
そして、おそらく生物はまだ続いていくのでしょう。

「見えないものは永遠につづくのである。」
もしかしたら、主の復活も、目に見えるかたちでなく、弟子たちの心の中に、復活されたのかもしれません。幻覚となって視えるほどに。
この解釈は、おそらく異端ですし、僕の考えも変わっていくことでしょう。しかしその方が、意義深いと思うのは僕だけでしょうか。

そして、主(平和への想い)は、今現代も、ひとりひとりの心の中にあり、日々新たにされています。(キリスト教でなければ、「主」以外の概念(人間がつくりだした言葉)になるでしょう)


しかし、目の前に見えるものに心を急かされ、日々新たにすることができる「内なる人(想い)」のことを考える余裕がない人も多くいるのではないかと思います。
そのことに良い悪いはありません。
しかし、そこに目を向ける心の余裕がある人は、他者に与えてあげてほしいな、と思います。
その余裕がない人も、受け取る余裕は生まれるように、自分自身を、自分自身の心を、大切にしてほしいと思います。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。」
見えないものに目を注ぐことのできる余裕を保ち、またその見えないもの(想い)を、他者に与えることができるよう、血肉のからだを使いたいものです。
それは私自身の想いと言葉と行動によって必ず達成できることではありません。

見えないもの(主(平和への想い))に頼ることで、自分の目が届かず人を悲しませることがあっても、「4:2できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 4:3平和のきずなで結ばれ」る望みを持ち続けることができるのではないか、と思っています。(エフェソの信徒への手紙4章2-3節から)

”愛がなければ、いっさいは無益" コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章3節から10節

”愛がなければ、いっさいは無益"
コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章3節から10節

13:3たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13:10全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

[個人的解釈]
預言:話している相手に伝わるように話す言葉
異言:大切な意味を内包しているけど、外部の人に伝わりにくい表現の言葉
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こんにちは。
僕が敬愛してやまない、いばや通信というブログの筆者、坂爪圭吾さんが、こうツイートしておられました。

坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) tweeted at 8:05 p.m. on Tue, Jan 31, 2017:
明日死ぬかもしれないんだ。これを言ったら恥ずかしいとか、クサいなとか、イタいなとか、そんなことを言っている場合じゃない。自分に恥ずかしくない生き方をするということは、多分、恥の多い生き方をするということだ。湧き上がる感情を、勇気を、命を、出し惜しみしている場合ではないのだと思う。
(https://twitter.com/KeigoSakatsume/status/826385987529871360?s=03)


僕は、「愛」という言葉は
「自分の心からの思いと言葉を、他者に伝えていく中で生まれる、人と人との暖かい繋がり」
のことを表していると感じています。

今、以前の僕のように、将来のために、お金のために、自分の心を圧し殺している人が、たくさんいるように思います。
けれど、そんな必要はないんじゃないかと思います。

「心を殺して長生きするより、今を生きて心を活かす」

僕は、長生きは特にしたいと思いません。
年金を貰える年まで生きたいとも、特に今は思っていませんが、
今の生き方を続けて、もし僕が65や70まで生き長らえたら、その時は多分年金など無くても生きていけると思っています。

何故なら、「今を生きて心を活かす」という手段を選んだ途端に、心から助け合いたい、共に生きていきたいと思える方々に、次々に出会えるようになったからです。

僕の転機に、泣いて喜んでくれる方
心が疲れ顔を上げられない時に、深夜まで連絡を取り合ってくれる方
3時間も4時間も時間を割いて、真剣に僕の話を聞き応援する言葉をかけてくださる方
僕に心からの寄り添う言葉をかけ、慕ってくださる方
僕の価値観を理解し、否定せず共に語り合ってくださる方

それら全ての人に心から感謝しています。彼ら、彼女らに出会えたことで、僕はもうほとんど自分の人生に満足しています。

でもそういった方々に出会えたことは、考えてみれば当たり前のことだった、と気づきました。

これまでは自分の価値観を殺して、「”世間様”の価値観」で生きてきました。そうすれば、”世間様”の価値観を持つ人としか基本的に出会えません。そして、僕の本当の価値観と合う人とは出会えません。

けれど、「自分の本当の価値観」に注意深く耳を澄まして、発言、行動、発信して、生きていくようにすれば、自分と本当に共鳴する人々、また、多様性を許容できる「本当の意味で大人」な人々と出会えます。
(「本当の意味で大人」でない人々(他者の気持ちを考えられず自分中心の思考しか取れない人々)とは、距離を置くことをお薦めします。あなたが無意味に傷つくだけだと思いますし、これから先、そういった人々は淘汰されていくと思いますので)

けれども世の中には”世間様”の呪いにかかって、
「これを言ったら恥ずかしいとか、クサいなとか、イタいなとか、そんなことを言っている」(坂爪圭吾さんのツイートから引用)人々がたくさんいます。



僕は、「愛(その人の心からの思い)がなければ、いっさいは無益」だと思います。お金も、家も、土地も、人間の存在も、世界も、生きていることも。
ここで言う「愛」は、他者にだけ向けられるものではありません。自分自身を大切にして、自分の心の声に耳を澄ますことでもあります。

どうせ明日や一週間後、1ヶ月後に死ぬかもしれない地上の身なのです。
あなた自身を大切にして、心からの思いを大切にしてみてはいかがでしょうか。
”世間様”の呪いは強いです。しかし、一歩足を踏み出してみるとその呪いから抜け出た人がたくさんいます。
それでも不安に過ぎると思います。僕もそうでした。
よかったら、僕をその窓口としてお使い下さい。
お問い合わせ(ご相談) - 現代日本で聖書を読む意味







祈り
主よ、私を使って、かつての私のように、悩み苦しみ悲しみを抱える人々を慰め、周りからの理解という救いをお示しください。。そうしていつか、全ての人々が互いに想い合えますように。アーメン(そのようでありますように)。

”牧師、僧侶、神職などの関係性” 「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章18節)

”牧師、僧侶、神職などの関係性”

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記一九・一八)

「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章18節)

 

祭司、レビ人がたとえ話に登場し、善行を行わない姿で描かれるのは、行いを伴わない称号・職位は神の前に何の意味も持たない事を示している。「司祭職の尊貴も、行為において優るところなからば無意味なり」(アレクサンドリアのキュリロス)。

善きサマリア人のたとえ - Wikipedia から引用

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こんにちは。

 

昨日、下賀茂神社比叡山延暦寺が出てくるテレビを見ていました。

その中で、最澄伝教大師が、「この世の中をよくしたい」「今まさに苦しんでいる人々のために祈りたい」という思いで”現在”を司るとされる薬師如来様を特にお祀りし、祈りに励んだ、というお話がありました。

 

それを見て、「平和を祈る人々に優劣などはないはずだ、だから、キリスト教だろうと仏教だろうと、本当の信仰者・信仰職といえる人々同士は、相手の信仰を尊重し合いながら、協力し合った方がいいのではないだろうか」と思いました。

と言いますのも、キリスト教仏教イスラム教もヒンドゥー教も、あらゆる宗教は全て、「人間の考えの及ぶ範囲で理解されたもの」です。けれど、どの宗教も「人の力の及ばない、なにか偉大なもの」の存在を信仰しています。

「言い知れぬ存在に畏敬の念を持ち、平和を祈る」というスタンスは「平和を祈る人々」に共通する姿勢なのではないかと思うからです。

 

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西行(さいぎょう)法師が伊勢神宮を詣でたときに歌った。
「何ごとのおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という歌は大変有名ですけれども、何がそこにいるのかはわからないけれども、なんともかたじけなくて、涙してしまうという心。」

「キリスト教信仰が大切にしている事」 から引用

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キリスト教でも、神の存在を感じられるほどに、自分の内面に向き合い、隣人(他者)のために祈るという行為が大切なものとされていると思います。

 

実際に宗教の垣根を超えて協力している例では、最近、神社の宮司さんと教会の牧師さんが協力して、「神社のコンサートで、キリスト教の幼稚園の子供たちが讃美歌を歌う」ということがあったそうです。

日本聖公会「つのぶえ」694号から)

 

その神社の宮司さんは「地域の人々と一緒に、皆が平和に暮らせるように願ったステージを企画したいので、ぜひ幼稚園児のご協力を」というお声かけを為さったそうです。

 

僕は、これが本当の信仰者の姿なのではないか、と思いました。

 

「お金や権力のために、本来の信仰を忘れている信仰者・信仰職の人」

「自分は神から力を与えられている、と傲慢になる人」(トランプさんを思い浮かべてしまいます...)

「自分の思いに固執するあまり、教理を絶対視し、平和を行うとは何か、を見失ってしまう人」

 

どの宗教に置いても、平和は大切であり、またその「平和」の概念には相通ずる部分が多いのではないでしょうか。(平和を掲げない宗教は、宗教として機能しているのか疑問です。)

わたしたちはそれぞれの信仰や道徳観を持っています。

しかしその信仰・道徳観、その他すべての考えは、「人間の考えの及ぶ範囲のもの」です。

間違っていること、曲解していること、一方には真実で他方には真実でないこと、意見の合わないことがあって当然だと思います。

でもその中で、「平和」という概念において、おおまかな一致を見るなら、その方向(キリスト教的表現で言えば「的」)に向かって、協力する、ということだけが、唯一変えてはならない大切なことなんではないでしょうか。

 

仏教キリスト教においても、「愛」という言葉について、これだけの相違があるそうです。

「・仏教の「愛」は、異性、お金、名声などへの「執着心」の意味

・(キリスト教の)愛とは「人を思いやることだ」「人生において最も大切なものだ」。

仏教徒は、「慈悲」とは"苦を抜き楽を与えること"である、と説明しています。

キリスト教の「愛」と比べられるものは、仏教においては、「慈悲」でしょう。」

仏教の「慈悲」キリスト教の「愛」  から引用

 

本当の信仰(平和を追い求める心)は、概念(特定の宗教・宗派(無宗教も含む)や、価値観)によって、疎外されたり妨害されたりするべきではないと思います。

ローマの信徒への手紙12章18節に「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」とあるように、平和に過ごすために、自分の信仰や道徳心について考え、異なる他者の信仰や道徳観を尊重し、対話し、協力していくことがより良いことなのだろうと感じました。

 

異なる宗教同士の関わり方は、様々難しい問題がありますが、上記したようなスタンスが、肝要なものとして考えられることを祈ります。

ここにもまた「多様性への寛容」という社会(人間の集まり)の課題が現れているのだと思います。

 

 

なぜ今の生き方を選んだか

コリントの信徒への手紙Ⅰ(使徒パウロと兄弟ソステネがコリントの信徒たちへ送った手紙)から

 

”他者の喜びから自らの喜びを生む”

10:33
わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。

 

”人がひとり苦しむなら、それは社会全体が苦しむ”

12:25
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
12:26
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
12:27
あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。

 

”見せかけの行為、心からの行為の価値”

13:1
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

 

”宗教を持つ人への差別の生じやすさ”

14:23
もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたを気違いだと言うだろう。

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こんにちは。

 

僕が、前の仕事を辞めた理由は、「他者が悲しむことをしたくなかったから」です。

僕が耐えられなかったのは、

 

業界の中で3番手、4番手の製品を売るために、相手を騙すこと、

1番手、2番手の製品を知らない人を探して、優れた製品を教えず売り込むこと、

売るためにこれまでの、また現在の不具合を隠すこと。

 

製品の開発が、遠因的に環境破壊を助け、現地住民の住む場所を壊していること

そして周りにそのことに反対する人がいないばかりか、その開発が推し進められることを前提としていること、

自分たちの利益のために(もちろん各々の生活があるとは思います)、開発を推進している業界を顧客とすること。

 

自動化機械を売ることで、現地の雇用が確実にひとつは減り、十分な教育を受けられていない人の仕事が無くなること、

実績が多くなく、課題や問題も多いのに、顧客に対しては弱い部分は隠して強気で売り込むこと。

 

それら全てが僕には耐えがたかった。

向いてない、と言えばそれまでですし、そのとおりではあると思います。

けれど、こういう状況が、「普通」でいいんでしょうか?

 

1週間後、1ヵ月後、死ぬとして、何をしたいと思うでしょうか。

僕は、自分が価値があると感じることをしたいと思います。

僕にとってはそれが、多様性を受け入れる場をつくりたい、ということでした。(あとひとつ加えるなら、音楽と)

 

www.iwannabefree.info

 

”今の”社会では、~~には価値がある、~~には価値がないという「常識」とも呼ばれる差別の温床があると思います。

日常でも、ニュースでも、バラエティでも、

「結婚はして当たり前」

「子どもはつくって当たり前」

「30、40歳超えてるなら、分かりやすい職業についていて当たり前」

「女性が家事をして当たり前、男性は分かりやすい職業についていて当たり前」

という価値観を垣間見ることがあります。

でも、そうじゃなかったらなんなのでしょうか。

ちょっと価値観が合わないから距離を置く、心配する、ということはあると思います。

しかし、「自分の価値観の方が、少し古い社会的常識に適合しているから、自分は価値がある」と信じて、そうでない人の価値観を蔑ろにすることには、かなり問題があると思います。

「差別や偏見を持たない」ということは、「自分と異なる価値観の人間を想像し、その人が自分の友人だったとしても傷つけないような態度をとる」ということではないでしょうか。

 

この記事を読んで、考えさせられたことがありました。

mistclast.hatenablog.com

 

自分の周りの人たちが、自分を高く評価してくれた。だから、社会(人間全員)が自分をそう扱ってくれるに違いない。と考えるのはどうなのでしょうか。

もちろん、これまでの古い社会の中での価値観として、そういう人が多数派だとは思います。

しかし、それが、これから10年後、20年後、そのままでしょうか。

僕は、自分が、「~~な自分は凄い」と言うことは、その反対の立場の人を少なからず不快にする行為だと思います。(突き詰めると何も言えなくなるのですが、言論弾圧をする気はありません。そういった想像力を持つことは、多様な人がいる社会生活の上で大切だと思うのです。)

なので、「~~な自分は凄い」「だから~~なやつは間違っている」と公に言う行為には常に、異なる他者を不愉快にする可能性(差別・偏見の可能性)を秘めていると思います。

 

上記の「社会的評価」に関する記事を読んで、さらに思った事は、「自分が何に価値を感じているか」を精査することが大切だな、ということでした。

自分にとって何が価値があるか、とは、

「自分にとって、何が楽しいか」「何がやりたいか」

「何はやりたくないか」「何をすると自分の心を殺すことになるか」

を考えることです。

僕は「結婚・子育て」をしたいとは思えません(そこに価値を置いていません)。

ですが、これまでの少し古い社会的常識においては、結婚・子育ては羨ましがられることだったのだと思います。

その中にあって、「なんかみんなが羨ましがってるし誉めているから、あれはきっと価値があることなんだ。羨ましいな」と思うよりも、「何人かのひとにとっては価値があるのだろうけど、僕にとってはそうでもないことのひとつだな」と、距離を置いて眺めた方が、負の感情が弱められ、また、自分の気持ちに素直でいられるのではないかな、と思います。

それに、自分の価値観を無視し、周りの価値観に流されて生活すると、当たり前のことですが、自分と異なる価値観・考え方を持った人々に囲まれていくことになると思います。

そうすると、自分本来の価値観を抑圧するしかなくなるため、本記事冒頭の僕のように、「やりたくない、逃げたい」となってまうのではないでしょうか。

 

もし、「結婚」するにしても、「自分と価値観・考え方が近いか」、「話し合いがちゃんとできるか」の方が、「社会的に評価されるか」より大切だと思います。

”今の”社会的に羨ましがられる結婚をするよりも、自分と価値観の近い人々を探して、コミュニティをつくり(もしくは参加し)、これからも一緒に過ごしていきたいな、と思える人が、もしいたら結婚する、いなかったら自分にとって居心地の良いコミュニティでわいわい楽しくやって、笑いながら死ねるようにしよう、くらいでいいんじゃないでしょうか。

と、僕は思います。

これらの価値観に基づいて、行動した結果が今です。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

「今を死んだように生きて、老後に備えてもしょうがねえだろ」

しんどい時期を通り過ぎて、今は本当にそう思います

「心を殺して長生きするか、心を活かすために今を生きるか」

どちらがいいのでしょう。

僕は後者の人が増えたらいいな、と祈っています。

自分が生きやすくなるためのコミュニティとはなにか。

"共有"

使徒行伝 4章32節

4:32 信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。

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こんにちは。

今日は、これからの生き方の選択肢のひとつとして注目されている、3つ目のコミュニティを作ることについて、書きたいと思います。

 

motemoteninaru.hatenablog.com

 

私は、”コミュニティ”は、思い、モノ、言葉を「共有」する集団だと思います。日本語で言うなら「共同体」。

 

なぜ現代において、家庭、仕事以外の3つ目のコミュニティが注目されているのでしょうか。

僕はこれまでの、閉じたコミュニティで死ぬまで暮らす時代が終わりかけているのではないかと思います。これまでは、コミュニティが家庭、仕事といった単位で、ある程度閉じていたため、そのコミュニティ内で問題が起こった時に重症化しやすいという問題を、これまで多くの人が見てきました。

問題が起こった時には、「感情的にならず」「お互いの意見を否定せず」話し合うことが大切です。しかし、閉じたコミュニティ内だと、お互いの心理的距離が近すぎて話し合いの場が成立しない状況が多々あります。

その時に、多様な価値観、考え方の人々と日常的に親しく交わっていれば、広い視野が育まれると共に、話し合いの場をつくる際の協力者となってくれるかもしれません。そこまででなくとも、親身に相談に乗ってくれると思います。

閉じたコミュニティ最大の問題点は、「思いを吐き出すことさえできない」ところだと思います。そういう時に吐き出し、受け止めてくれる場があれば、心理的負担はかなり減るのではないでしょうか。

 

僕の場合は、多様な価値観を認めることのできる能力を持った人々に出会い、共に生きていくために、コミュニティ探しをしています。

現在は、twitterやブログ、これまでの友人・恩師の先生、教会、UM(union of minimalist)などの繋がりがあります。

これから時間をかけて、深い繋がりを持てるように生きていきたいですし、さらに繋がりを増やしていきたいとも思っています。

自分にとって信頼できる人がいてくれるコミュニティを増やすことは、生きていく中で、つらいことやしんどいことがあった時に生きる糧となります。つらいことやしんどいことが全くない人生を歩む方は、ほとんどいないと思います。

そういった観点から、複数の(信頼の置ける)コミュニティを探すこと、持つことは大切だと思います。

 

また、その中にあって、つらさやしんどさが上限を超えていて、吐き出す場があっても吐き出すことさえできないときに、祈るという行為があるのだと思います。

 

複数のコミュニティは、話し合うべき時には話し合いながら、平和に暮らしていくために、とても重要です。

同じように、自分の思いや願いを超えて、悩み・苦しみ・悲しみに苛まれるときに、祈りの場を持つということは、ひとつの救いとして機能するのではないでしょうか。

どちらも大切に、過ごしていきたいと思っています。

 

 

祈り

主よ、あなたがともに居て、私を支えてください。闇の中、あなたが光でいてください。アーメン(そのようでありますように)

”人それぞれに生き方がある。” コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章6節、7節

”人それぞれに生き方がある。”
コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章6節、7節
 (使徒パウロと兄弟ソステネからコリントの信徒へ宛てた手紙)

7:6以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。
7:7わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。 (別訳:人それぞれに生き方があります。)
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こんにちは。
今日は、「共通道徳」という概念について書きたいと思います。

一言で言うと、ある特定の地域の人々が、大まかに共通して持っている道徳観の事です。
この「共通道徳」があると、道徳観について、ある程度一定の理解を持って話し合うことができます。また、共通道徳は、教典や礼拝などの文化の中で育まれるものが多いので、共通の話題としても機能します。
「共通道徳」は、それぞれの文化圏の宗教によって育まれるものと言い換えることもできると思います。

もちろん、同じ「共通道徳」のコミュニティ内にも様々な考え方の人がいますが、極端に言ってしまうと、「共通道徳」があれば、目の前の人がなんの行動原則で動いているか、推し量りやすいということです。

日本では、その「共通道徳」が、斉藤学さんの言をお借りすると、"世間様”だったのだと思います。
「周りから奇異の目で見られることをするな」
「周りからはみ出さず”普通”でいろ」
「周りと違う行動する奴は理解できない」
「周りと合わせてさえいれば、安定安心だ。だからはみ出す奴らは無視、排斥してもよい」
こういった考え方が、かつては、あったのだと思います。


何故、「かつて」なのかと言いますと、最近はそうでない方々が増えてきていると感じるからです。
やはり年齢が高い方に、かつての価値観を保守している方が多いですが、僕の周りの人々でも、UM(Union of Minimalist)やブログで出会った人びとは、多様性を寛容に受け止める能力に長けていらっしゃいます。
それは、裏を返せば、ひとりひとりが自分の心からの価値観と選択を大切にしたいと思っており、相手の心を尊重することが当然だと思えているからではないでしょうか。

これまでに、なんらかの画一的な生き方を押し付けてきていた人は、”周り(世間様)”が正しいと言ってきた通りに生きてきた結果、自分の生き方に納得、満足できず、他者をも同じ道に押し込めることで、自己を正当化したかったのではないでしょうか。
僕は、"世間様”教は大多数を不幸にする宗教だと思います。

”周り”ばかりを見ることは止めて、今こそ自分の内面、心から思うことは何か、を聞いてみてはいかがでしょうか。

今、アメリカでは、下記のツイートのように「トランプがイスラム教徒締め出しを行うなら、キリスト教徒であっても、イスラム教徒として登録して反対を表明するべきではないか」という議論があるそうです。映画「沈黙ーサイレンス」の、教理か、愛する人を助くか、というテーマと似たものを感じます。僕はまごうことなく後者だと思っています。

https://twitter.com/ChristianPost/status/824767655907360768

また、その州の宗教的指導者が、性的マイノリティを認めないが為に、悩んで自殺した17歳のリーラーさんという女性がいます。
「教理」が、「愛する人を大切にする」ことよりも大切だとは思えません。

http://www.christiantoday.co.jp/articles/14998/20150107/transgender-teenageer-suicide.htm

日本には、幸か不幸か、強力な共通道徳はまだありません。
あなたも今、これから先1年でも2年でも、10年でも生きるつもりなら、自分が本当に何がしたいか、自分の内面を見つめてみるのもよいのではないでしょうか。


祈り
主よ、アメリカでもイギリスでも日本でも、不寛容の発露が見られるようです。今もまた、マザーテレサジョージ・ブッシュ元大統領とサダム・フセイン元大統領に送った手紙を覚えます。。「わたくしは目に涙をため、心に神の愛を持って、貧しい人、および皆が恐れている戦争がいったん起こったならば貧しくなる人びとのために、懇願いたします。(中略)神はわたくしたちが憎悪によって破壊されるためではなく、神の愛によって愛されるために生まれました。(中略)どうぞ平和の道を選択してください。」(「マザーテレサ 来て、私の光になりなさい」p514-516より引用)。
どうぞ、憎み合うのではなく、平和の道をお示し続けください。悲しみのあるところに喜びを、闇のあるところにあなたの光を置いてください。主の御名によって、マザーとともに懇願いたします。アーメン(そのようでありますように)。