死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

"どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならない"新約聖書使徒言行録10章25節から28節

"どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならない"
新約聖書使徒言行録10章25節から28節

10:25ペテロがいよいよ到着すると、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝した。
10:26するとペテロは、彼を引き起して言った、「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」。
10:27それから共に話しながら、へやにはいって行くと、そこには、すでに大ぜいの人が集まっていた。
10:28ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。
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こんにちは。
今日は、キリストによって遣わされた使徒たちの話をまとめた、使徒言行録から引用いたしました。使徒の一人ペテロがコルネリオという異邦人のもとを訪ねる場面です。当時、ユダヤ人はユダヤ人だけが救われる民であり、異邦人は汚れたものという考えに基づいて、異邦人を軽蔑、侮辱、迫害する人が多くいたそうです。
その時、キリストはペテロに啓示を通して、どんなものをも清くないとか汚れているとは言ってはいけない、と伝えられました。

この事を、現代に当てはめるとどうでしょうか。
現代においても、レッテル張りによって軽蔑、侮辱、迫害され、見下され、苦しめられている人が多くいるように私は、思います。

清くないとか、汚れていると言ってはいけない、を現代風に訳すと、「どんな人をも、バカにしたり、見下したり、侮辱してはいけない」ということではないでしょうか。
今、私たちが生きている現代には、お金、地位や、(社会多数派によって作られた、数年単位で真逆にも変わる、まやかしの)常識という概念を根拠にして、誰々は賢い・偉い、誰々は愚かだ・劣っていると言う人々が、悲しいですが居ます。
私は、そういったモノ(地上の宝)に高い価値はないと思っています。お金、権力、優越感をいくら得たからといって何になりましょう。私にとっては、数億の富を得ることや、大企業の社長職を得ること、誰よりも早く出世することなどより、目の前の人が、身近な人が心から笑うことの方が大切です。
地上の宝(お金、権力、優越感)をいくら積んだからといって、それが私の心を満たしてくれることはないと思います。(誤魔化すことはできると思いますが、のちに耐えられないほどの虚無感、罪責感に苛まれることはわかります。)
私に余ったお金があるのなら、不必要な分は、「どう使われるかがわかっている」場所に寄付や献金したいと思います。私に食べきれない程の食べ物や、いらなくなった本やモノがあるなら、誰か求めている人に渡したいと思います。そうできるような人になっていきたいと思います(寄付や献金の情報を仕入れること、譲り合いできるコミュニティを見つけていくことに少しずつ、自分の心に無理のないペースで取り組んでいます。)。
以前、挙げた聖書のみ言葉、「求めなさい、そうすれば与えられる」の与える側に、わたしも、あなたも、成ることができます。

お金や権力は、金銭崇拝教信者、権力崇拝教信者には崇めてもらえるかもしれませんが、それは、お金や権力を持つ、その人自身を見てはいません。言わずもがなですが、お金、権力それ自体を見ています。お金、権力を失ったとき、あっさりと別の人を崇めるようになるでしょう。

しかし、天の宝(暖かい心、思いやり、平和に繋がる思い、言動)はそうではありません。
あなたが強められているとき(自信を持っているとき)にも、あなたが弱められているとき(泣き伏せる程悲しいとき、つらいとき、誰も信じられないとき、自分の心が、自分でも全く理解できないとき)にも、あなたが天の宝を与えた人は、寄り添って、あなたの心を見ながら話をしてくれるでしょう。またその時、あなたの話を聞いてくれる、その人自身が天の宝となるのだと、思います。
私は、イエス様はこのような事を指して、「天の宝を積みなさい」と言われたのではないか、と解釈しています。(もちろん、人の解釈にはすべて多義性があり、何が正しいというものはありません。神様のみ言葉が正しかったとしても、解釈する人間によって、み言葉の意味は変化してしまいます。だからこそ、~~が絶対に正しい!などと言わず、「これは正しいのか、間違っているのか」を考えながら行動しなければならないと感じます。その際、私が指標にしていることは、「その言動で、またその言動が波及した先で、心から笑える人が増えるかどうか」です。)

ペテロはコルネリオに会い、彼のキリスト(平和)への思いをみて、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。」と仰いました。
人に偏り見ない。偏見を持ってみない、ということだと思います。これは非常に難しいことです。
偏見というのは、「ある人が苦しむような、目つきをすること、言葉を発すること、行動をすること」だと思います。つまり、相手の立場に立って、相手のことを考え行動することで、偏見をある程度防ぐことができると思います。しかしそれも不十分ではないでしょうか。
相手が「本当に」どう思うかなど、分かることではありません。
先ほど、どういった言動が100%正しいかどうかなど分からない、と言いました。
同じように、相手がどう感じるか、私たちの誰も、明快には分からないのです。

そういう時、どうすればいいのでしょうか。
私は、「話し合い」しかないと思います。まず、相手の意見を決して否定しない(自分の考えと違うときは、否定はせず「私は~と思う」という)、相手の発言を遮らず必ず受け止める、相手の意見を理解する姿勢を必ず持つ、といった基本姿勢を意識して、話し合うことが大切だと思います。
(私も、気をつけていても、ふとしたときに上記のルールを破ってしまい、悔いる時はまだまだ多くあります。少しずつでも、そういったことを少なくしていきたいと思っています。)

めんどくさい、と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし、このことを蔑ろにすることは、いずれあなたが誰かに蔑ろにされることをも示していると思います。
というのは、地上の宝を求める人の周りには地上の宝を求める人が、天の宝を求める人の周りには天の宝を求める人が集う、と思うからです。(これは私の経験上の話でもありますが、やはり、価値観の近い人たちは集まりますし、何より価値観の違いすぎる人たちの中で、孤独に生きることは、拷問のようなものだと感じます。私は、そこからは逃げました。そして今、天の宝の恵みに感謝しています。一番大切なのは、あなたが、「心を圧し潰してないか」「心を圧し殺してないか」「心から笑えない状態になっていないか」だと思います。私はかつてそうでした。もしあなたが今、そうであれば、下記お問い合わせから、お話をお聞かせください。私は決して、否定は用いません。かつての自分と似ている人の、お話をお聞きしたいのです。)
http://hitsuji-wwjd.hatenablog.com/entry/2017/01/10/093741

心から笑える人が、一人でも二人でも増えるように、誰かを傷つけないために、「相手の立場にたって考えてみること」、また、「自分の考えが絶対に正しいなんてことはないこと」を覚えて、行動してみませんか。
そうすれば、暖かい繋がりや暖かい心を感じられるようになるのではないかと思います。私も、あなたとの繋がりになりたいと思っています。


祈り
主よ、ここ京都では雪が積もりました。この美しい景色を与えてくださったことを感謝します。しかし、この寒さにあって、夜眠る場所も、食べるものもない方が大勢いらっしゃいます。どうかその方々一人一人のそばにあなたがいて、一時でも安らぎをお与えください。心に寄り添ってください。また、「ふとんで年越しプロジェクト」など、クラウドファンディングという、想いのある方々からお金を集め、支援する活動など、多くの支援活動があります。どうかあなたの御心に叶うままに、彼ら彼女らの活動を強め、それらの活動を支える人が一人でも二人でも増え、今日より明日、明日より明後日、一人でも多くの人が心から笑えますように。
闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。また、そのようなことを行える者に、どうぞあなたの御力によって、なることができますように。
この祈りを、わたしたちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりでありますように)

悲しいのは人が死ぬ時だけで十分じゃないか。-映画「天使にショパンの歌声を」を観てー

こんにちは。

今日は、映画「天使にショパンの歌声を」を鑑賞してきました。感想を書こうと思います。(ネタバレも含みます。といっても別にミステリーじゃないですが。笑)

映画「天使にショパンの歌声を」公式サイト

 

廃校の危機に陥る、音楽教育に特化した寄宿学校において、修道院長オーギュスティーヌが音楽と信仰の力で廃校の決定を覆そうとする物語です。

美しいカナダ・ケベックの風景もさることながら、私はこの作品に出てくるシスター、生徒たちがそれぞれ、強さも弱さも受け入れて生きている、またその事が受け入れられる環境をつくっていることを、美しく感じました。もちろん、人間同士のいる環境なので、対立がおこることもあります。しかしそれでも、対立した時、良心の傷つかぬ人なんていないと思います(傲慢、不遜の状態に陥り、とても鈍くなっている事はあり得るかもしれませんが)。この物語の中で、例えば、思い違いで怒られる、自分の思いを伝えることができず悲しく思う、自分が大切にしてきたモノ・考えを奪われる、という状況があらわれます。そういった時に、この映画の登場人物は、明快に解決されることはなくとも、他者に頼り、話し、寄り添ってもらうことを求め、そしてお互いが、心に寄り添う人となろうとしていると感じました。

その姿勢は、何においても美しいものだと思います。

音楽の授業中、緊張して歌うゴーティエに、寄り添うようにピアノの旋律を重ねるアリス。

授業中、過度の緊張感により泣きそうになってしまったゴーティエを理解できず、執拗に答えを言わせようとするシスターリーズに対して、「もうやめて!」とゴーティエの気持ちを理解するアリス。

変化していく環境によって混乱していく心と、自分の居場所を守りたいという思いから生徒に強く叱責してしまい、混乱しているシスターリーズの訴えに、同意することはできなくとも耳を傾け、リーズの苦しみに向き合う姿勢を見せるシスターオーギュスティーヌ。

後先を考えない行動によって、シスターたちとの関係を悪化させてしまい、苛立ちと不安、相互に理解し合えていない悲しみに苦しむアリスのもとを訪れ、どうすることもできなくとも、「感謝してる」ということを伝えるゴーティエ。

自暴自棄に、恋に走ろうとするアリスに、自分の全てをさらけだしてでも寄り添おうとし、話し合える関係になろうとするシスターオーギュスティーヌ。

人と人の間に生まれる美しさは、これらの思いやり、理解しようとする姿勢、寄り添う姿勢によって生まれると思いました。

 

しかし、同時に、相互理解不足、無理解、多様性への不寛容、価値観の押し付け、といった人間関係上の重要課題を、この映画の中で感じました。

人前でうまく話すことができない人に、無理矢理にでも話させようとすること。

規律、ルール、つくられた常識、自分の価値観(クラシックはよい、ジャズ・ロックはダメなど)に縛られすぎて、「音楽を楽しむ」ことを奪い去ろうとすること。

相手の想いを受けとめることもせず、自分の考えと異なるから、というだけの理由で「お前の言っていることは間違っている。やめろ。」と平気で否定できるということ。

制服や規律などの形骸的なルールに囚われ、個々人の違い・思い・考えをお互いに受け入れ尊重する、価値観の押し付けを行わないという、最も大切で育むべきものを蔑ろにすること。

そして、相互理解の不足によって生ずる悲しさ、つらさ。

この物語の登場人物はたびたび、相互の無理解を克服できず、強い敵意・悪意を生み出してしまい、また、受けてしまい、悲しさ・つらさを感じます。また、人の死にも悲しさ・つらさを感じることになります。

それを見る中で私は思いました。

「悲しいのは、人が死ぬ時だけで十分じゃないか」と。

死は避けれぬことです。どのような人であってもいつ命を神に召し取られるかはわかりません。私は死ぬことを、痛み以外は怖いとは思いませんが、周囲の人たちを悲しませることは知っています。もし、私が死んでも誰も悲しまないよ、という方がおられたら、お近くの教会かこのブログのお問い合わせでもよいので連絡を取って、お話を聞かせてください。あなたが亡くなった時、悲しめなかったことに、私たちは悲しみます。何ができるわけでもない無力な私ですが、話をお聞きすることはできるかもしれません。また、祈ることはできます。何かさせてください。未熟に過ぎて大きなことは何も言えませんが、悲しみに寄り添うことをしたいと思うのです。

お問い合わせ (ご相談)

 

人が生きる中で、死は避けられません。

でも、相互の理解不足は回避することができると思うのです。誰も悲しさを、つらさを、押し付けず、押しつけられないなら、それが一番ではないでしょうか。 そのために、多様性への柔軟性、あらゆる意見をまず受け止めること、 価値観の押しつけを絶対に行わないこと、心に余裕を持つことを覚えておくことから始めたいと思います。

ふとした時に上記と異なった言動をとってしまうことがありますが、どうせ生きていくなら、そういったことを減らし、自分の心も含め、人の心に寄り添うことができるようになっていきたいのです。

 

この映画の中では、悲しさや嬉しさの中で、音楽がそこに寄り添うシーンがいくつか出てきます。

私は音楽が何よりも好きです。というのは、音楽がなければ今まで生きてこれていないからです。何がなくとも悲しさ、孤独感、無力感、つらさ、切なさ、虚無感に襲われるとき、わたしはいつも音楽に頼っていました。Queenにはじまり、邦楽やクラシック、讃美歌。聴きながら、時には歌いながら泣くことで、私のなかにある希死念慮を吐き出してきました。音楽に対して真っ直ぐ向き合うとき、音楽は私の心に寄り添い力づけてくれました。(もちろん、そうでない性質の方もいて当たり前ですが、私はそういった性質なのです。)

音楽は「何かを指し示す」意味を持たぬ言語だと思います。

純粋に概念を超えてコミュニケーションを取ることができる。

それは、言葉の多義性に恐れを抱く私のような人間にとって一つの救いです。

作中で、アリスが悲しみをピアノにぶつけるシーンがありました。私はそれを見て、「ああ、私と同じだ」と感じました。感情を吐き出させてくれる、感情を吐き出す力を与えてくれる、そういった力が音楽にはあるのではないかと感じます。

この映画は、そういった「音楽の性質」を感じさせてくれるものであると、私は感じました。人の心に寄り添うことができるのは、目の前の人間だけではなく、これまで生きてきた人の想いもまた、人の心に寄り添うことができるのだと思います。何かを遺したいと思うのなら、人の心を力づけることのできる"想い"を遺していくのはいかがでしょうか。むずかしいことではありません。道を譲ってもらったら感謝を伝えること、買い物をしたとき店員さんに感謝を伝えること、敵意がないことを示すために微笑むこと。

そういった小さな優しさは、広がっていくと思うのです。小さな優しさを受け取った方は、また別の方に小さな優しさを渡していくかもしれません。そうするうちに、あなたが死んでも、その連鎖は続いていくかもしれません。いばや通信の坂爪さん的に言えば、「贈与の霊」でしょうか。

ibaya.hatenablog.com

私は、命を取っていただけるその時まで、小さな優しさを続けていき、1mmでも2mmでも和することに貢献できたなら、それ以上に求めることはないと感じています。それ以外に求めたいとするなら、音楽技能の上達でしょうか...。笑

 

多様性や相互理解について考えさせられ、また、美しい音楽を堪能することもできる「天使にショパンの歌声を」、よろしければ見てみてはいかがでしょうか。

"求めなさい。そうすれば与えられます"マタイによる福音書7章7節

"求めなさい。そうすれば与えられます"
新約聖書マタイによる福音書7章7節

マタイ7:7
求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
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こんにちは。
今日はマタイによる福音書から7章7節を引用いたしました。

この箇所はある意味、非常に理解しやすい、み言葉かもしれません。聖書の中には、喩え話が多く出てきます。そのなかには、とても理解の難しい部分があったり、そもそもある程度時代背景を知っていなければわからない部分もでてきます。

しかし今回の聖書箇所は、驚くほどそのままです。
「求めた人には与えられるでしょう。探した人は見つけるでしょう。扉を叩いた人には開かれるでしょう。」
そのままの意味です。

しかし、多くの人が「いやいや、そんな都合よくいったら苦労しないよ」と思うと思います。
ですが、今の時代にこそ、この言葉はとても大事な考え方足りうると、私は思います。

というのは何故かと言いますと、この聖書箇所は「行動することの大切さを説いている」と考えるからです。
もちろん、「私を理解してくれる人が欲しいです」といったら今すぐ与えられるわけではありません。「心開けるコミュニティを捜しています」といえばすぐ与えられるわけではありません。「何かの集いに新しく参加しよう」としても排除されてしまうこともあるでしょう。
しかし「行動」が大切なのです。
自分の心、想いに沿った生き方をしようと思った時に、何をやめて何をすればよいか考え、行動することが大切です。

今の生き方イヤだけど、
仕事やめるとお金がないから...
他にできることないから...
まわりから冷たい目でみられるから...
親にいい顔されないから...
結婚できなくなってしまうから...

動けなくなっているいろんな理由はあると思います。
ですが、「"あなた"は幸せですか?」
もし、今の生き方をしていて、あなたが幸せなら良いのです。ですが、他者の事、他者の目を考えるあまり動けないのなら、「行動」するべきだと思います。
わたしも以前、周りの目やお金を気にして、自分にとっては苦しみでしかない仕事を辞められずにいました。ですが、自分と似ている方のブログを読み漁り、信頼できる友人や大人、似ていると感じたブロガーさんとやり取りし、教会に顔を出す中で、自分の思っていた「まわりの目」という概念が、如何になんの意味もないものか、だんだんとわかってきました。
そのように「行動」することは、自分の中でどんどんと膨らみ捻じ曲がっていく、「常識」や「まわりの目」といった無意味な概念を解きほぐしてくれると思います。もちろん、合わない考えの方と出会うこともあるかもしれません。しかし、今はネット、ブログやsnsのおかげで、自分と考え方、生き方の近い人々を探し、繋がっていくことができます。
今の生き方に苦しんでいる方は、是非なぜ苦しいのか原因を考えながら、あなたと似ている方のブログを探されることをお勧めします。
(参考:私が苦しいとき救いとなったブログ
いばや通信さん
http://ibaya.hatenablog.com
A1理論はミニマリストさん
http://okite.hatenadiary.jp
エリログ(なまけりー)さん
https://namakerie.me

私は、悩みすぎてもはや何にも判断を下せなくなってきていると感じはじめていたとき、上記エリログの中の人、なまけりーさんの
https://namakerie.me/utsu-gattatsusyougai/utsu-warning-top3/
この記事を読んでご本人に連絡し、本当に親身に相談に乗っていただきました。本当に感謝していますし、今でもたまに連絡させていただいています。今年中に一度でもお会いして、直接感謝を伝えられたらな、と思っています。

ちなみに上に挙げた動けない理由について、わたしは以下のように考えています。
仕事を辞めるとお金がないから...、
(お金がなくとも今の日本では餓死することは難しいでしょう。また、バイトもあれば炊き出しもあるでしょう。また、そういうときのために教会などはあると思います。)
他にできることないから...、
(他にできることがない、と思っていても世の中には色んな働き方があります。自分に合うものを正規非正規問わず探してみては如何でしょう。正規非正規なんて括り、自分が幸せに生きることより価値があることとは思えません。)
周りに冷たい目で見られるから...、
(まわり、というのはこれまで繋がってきた人々から構成されています。全く新しい考え方や繋がりをネットで探してみましょう。それができる時代です。)
親に良い顔されないから...、
(親は、あなたではありません。親の幸せな生き方とあなたの幸せな生き方は違います。本当にあなたのことを想うなら、あなたが、"今"幸せに生きることを望むのではないでしょうか。世間体なんて「自分が幸せに生きるため」には不要です。)
結婚できなくなってしまうから...。
(結婚した人はみんな幸せでしょうか?結婚どうこうより、あなたのことを理解してくれ、一緒にいて心地よい人と一緒にいることが幸せではないですか?それが結果として結婚になるならそれはそれで良いと思いますが、結婚や子を持つことは、人生における目的ではないし、目的にしてはいけないと思います。)

これらから、この聖書箇所を現代風&私の経験から解釈するならば、
「(自分を理解してくれる人を)求めなさい。そうすれば(すぐにではないかもしれないけど)与えられます。
(インターネットのブログやsnsで、自分と近い人を)捜しなさい。そうすれば(あなたの居心地の良い場所が)見つかります。
(出会えた人々へ繋がる扉を)たたきなさい。そうすれば(あなたの幸せを見出す道が)開かれます。」
ということだと思います。

結局、人生の目的は「幸せになること」です。
いついかなる時もその事だけは、あなたに、覚えていて欲しいのです。


祈り
主よ、本日はマタイによる福音書7章7節を読みました。私において、友人、家族、恩師の先生方、インターネットでの人との繋がりといった、多くの恵みを、あなたから頂いたように、今、苦しみ悩みの中にある人々の上にも、あなたの恵みと慈しみをお与えください。また、わたしがそういった方々に寄り添い、どれだけ微少であっても、力になれる存在となることができますように。私の心を強め、あなたの平和のためにお使いください。今日より明日、明日より明後日、一人でも多くの人が心から笑えますように。私に与えてくださった恵みを、以前の私のように苦しむ方、またそれぞれの悩み苦しみ悲しみを抱える方の、一人でも多くの方に同様にお与えください。
闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。また、そうすることのできる者に、どうぞあなたのお力によって、成ることができますように。
この祈りをわたしたちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりになりますように)。

サーバー(侍者)の勉強 「cafe 百春 momoharu」に於いて

こんにちは。
今日は、京都中京区にあるcafe 百春 momoharuさんを訪れました。

百春 cafe momoharu
http://maps.google.com/?cid=4873027050328558852&hl=en&gl=gb

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細い階段を上がると、正面にふつうのお家の玄関があるため、引き返しそうになったのですが、その右手にお店の玄関がありました。

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落ち着いた雰囲気でカウンター席も4席ほどあり、本を読んだり、勉強したりするにはとてもよい環境でした。
店内にはうるさすぎない音量でジャズがかかっておりました。

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今日はここでサーバー(侍者)についての本を読みました。サーバーとはなにか、と言いますと、簡単に言うと祭壇奉仕のお手伝いをする役割です。
司祭(宗派によって呼び方が違ったりします。)の方が祭壇において主要な礼拝進行を行われるお側で、聖器や聖布の準備や一部箇所の祈祷書、聖書朗読などを行います。
様々なものに名称があり、まだなかなかモノと名前が一致しておりません...。何度か読み直す必要がありそうです。

追伸:
cafe 百春 momoharuの近くに、紹介がないと入れない村上開新堂というお店がありました。そのお店は作れる数が限られているので、これまでのお客様、紹介いただくお客様にしかお売りしていないとのことでした。
私は、これは素敵な姿勢だと感じました。これまでの、またこれからの人と人との繋がりを大切にし続けていく思いのため、このような姿勢なのではないでしょうか。
ともすれば過当競争となりがちな現代の商売に関する姿勢の中で、一見さんお断りではなくとも、人と人との繋がりに重きを置き、お金に至上の価値を見いださないこういったお店を大事にする人がもっと増えると良いなと思いました。
どこに行っても大型デパートしかない、大型デパートしか生き残れない、時間節約至上主義が、街並みを壊し、人間性を貧しくしてきたのかな、と思わされました。

「今週のお題」朝、なに食べた? ミルクティーとメロンパン

今週のお題「朝ごはん」

こんにちは。
今日の朝は、いつも通りのミルクティーとメロンパンを食べました。朝は、もっぱらパン派です。

紅茶は、「ひしわ」のティーバッグを愛用しています。コップにティーバッグを入れた後、沸騰したお湯を入れ、ふたをして3分から5分待って、ティーバッグを取り出し、牛乳を1:5くらいの割合でたっぷり入れて飲むととても美味しいです。20袋300円程と安く、味も十分なのでここ1,2年愛飲してます。スーパーなどに置いていることが多いようです。私の家の近くだと、イズミヤさんが取り扱っています。

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B0017LNW5Q/ref=pd_aw_sim_325_of_9?ie=UTF8&psc=1&refRID=2YX51JJATP1STWTEBYVH

また、最近はあまり飲んでいませんが、少し高価なものですと「ロンネフェルト」や「フォートナムアンドメイソン」のロイヤルミルクティーブレンドがとてもおすすめです。フレーバーティーが好きな方には、「ムレスナティー」がおすすめです。
気になられたら、ぜひ試してみてくださいね。

”あなたがたはわたしの友である” ヨハネによる福音書15章11節から15節

”あなたがたはわたしの友である”

ヨハネによる福音書15章11節から15節(口語訳)

15:11
わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
15:12
わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14
あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15
わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

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こんにちは。

今日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書15章11節から15節です。

この箇所には、2点解釈できることがあると思います。

1点は、キリスト教の重要な戒めのひとつは「互いに愛し合いなさい」であるということ。実は、キリスト教において最も肝要な掟はたった2つなのです。それは、「神(平和)を愛しなさい」「神があなたを愛されたように自分を愛し、隣人(あらゆる人)を愛し、互いに愛し合いなさい」というものです。(私の解釈ですが。)

愛(思いやり、人との暖かい繋がり、平和)の大切さを説いているのです。

そして、その事を踏まえてここから解釈できるもう1点のことは、キリスト自身が「あなたがたはわたしの友である」と仰っていることです。神とされる者が、人間を僕でなく、友として見てくださっているのです。

であれば、何故人が人を僕(主人に絶対服従させられる者、奴隷)にすることが許されるでしょうか。

最近の、東電、三菱を代表する長時間労働の問題は、現代の奴隷であるといえるのではないでしょうか。逆らうことができないのをよいことに、人間的に生きることを妨げ、長時間労働させ、心を奪い正常な判断力をも奪う。そんなことが許されていいはずはありません。

この聖書箇所を私なりに解釈すると以下のようになります。

「人は、神と自分と隣人を愛し、命をなげうっても惜しくないと思えるほどの友を求めて、思いと言葉と行動を行いなさい。そうすることで、あなたの内に、神がいてくださり、大きな喜びが与えられるでしょう。」

 

祈り

天におられる私たちの父よ。今この瞬間にも、悩み苦しみ悲しみを抱えている人が多くいます。彼らと共にあり、彼らの心を助けてください。アシジのフランシスの平和の祈りと呼ばれる祈りを捧げます。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。

この祈りをわたしたちの主、イエス・キリストの名によって御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりでありますように。)

 

 

「今週のお題」2017年にやりたいこと 神学校と英会話と、心の持ち様

今週のお題「2017年にやりたいこと」

1,神学校での良い繋がりを大切にしながら、2,3年後留学できるようにする為にもゲストハウスで働く力を身につける。

2,英会話の勉強をcoco塾からKyoto language loversのコミュニティに移していき、交流を楽しむ。

3,ブログを続けて記事を増やす。

4,聖書通読を続ける。新約聖書は読み通す。

5,否定語をなるべく使わない。本人に聞かれて悲しませるような事はどの場でも言わないようにする。

6,自分の心を大切にする。これまでの大切な繋がりを大事にしながら、新しい繋がりも求めていく。

7,生き急がず、心に余裕を持つ。道を譲る。