死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

信仰の死んだキリスト教徒 / ”行いを伴わない信仰は死んだもの” 新約聖書 ヤコブの手紙2章13~17節

こんにちは。

忙しさと考えることの多さにしんどくなって、しばらくぶりの更新となってしまいました。

今日は、この記事が面白いと思ったので、ご紹介します。

 

jp.reuters.com

 

※注釈:上記の「」内の文言は、ローマ法王が言ったわけでなく、そのように言われることがこれまで何度あったか、という形で他者の言及を引用しています。タイトルのつけ方と内容の書き方に難がありますが、「」内にローマ法王が理解を示していることだけでも十分面白い記事だと思い、ご紹介しました。

 

記事内に以下の文言があります。

「自分が熱心なカトリック信者で、いつもミサに行き、いろいろな団体にも所属していると言う人がいるが、そうした人の中には従業員に適切な賃金を支払っていないとか、他人を搾取しているとか、汚い仕事をしているなど、自分の生活がキリスト教徒的でないと言うべき人もいると指摘した。」

"There are those who say 'I am very Catholic, I always go to Mass, I belong to this and that association'," 
”these people should also say "'my life is not Christian, I don't pay my employees proper salaries, I exploit people, I do dirty business, I launder money, (I lead) a double life'."

(英文は下記記事から引用)

news.abs-cbn.com

 

「自分の生活がキリスト教徒的でないと言うべき人」

僕は、これは「キリスト教徒を自称しながら結局、経済主義(資本主義)に隷属してしまっている人」を例として挙げられているのだと思いました。

生きること・人生を、キリスト教義的に解釈した場合、「賃金の支払いを誤魔化す、他者を搾取する、不正なビジネスをする」ことに価値を見出すことは困難です。

つまりは、二重生活"double life"を送っている人、というのは、(日本では想像しにくいかもしれませんが、)キリスト教信者を自称することで得られる信頼や社会的地位を利用して、その実自分の利益のために他者を痛めつけることのできる人、と言うことができるのではないかと思います。

そして、意図的に他者を痛めつける人は、全く、微塵も、キリスト教徒的でないと思います。

 

しかし、~~教徒であろうとなかろうと、「自らの利益のために他者を痛めつけることのできる人」は、存外多くいるようです。

反対の視点から見れば、そういった人たちの何倍も、痛めつけられる側の人間がいるということです。

 

下記のA1理論さんの記事を読んで、

近年の「痛めつける側の人間」が作った教義が「経済を回せ」なんじゃないかなと感じました。

 

okite.hatenadiary.jp

 

「人間がよりよい生活をするための経済社会であって、その経済を回すために心身を壊して働くなんて、僕から言わせればどう考えてもおかしい。」

 

ひとりひとりの人間が、生きやすい生活環境を得るための「社会」であって、一部の人間が贅沢するために多数を痛めつけてよいという「社会」ではないんですよね。

もしそうであれば、支配層の人数が違うだけで独裁国家と大差なくなってしまいます。

僕は、どんな肩書を持つ人間だろうと、他者の苦しみを生み出すことは、人間として最も善くない行為のひとつではないかと思います。

全くしないことはむずかしいでしょうが、積極的に他者の苦しみを生み出す人が増えないことだけを願います。

 

メメント・モリ(死を意識せよ)。

どうせ人生は死ぬまでの時間つぶしです。

であれば、お金や名誉なんていう、一瞬自分が気持ちよくなるだけの虚しいものにこだわらず、可能なだけでも、みんなで仲良く楽しく暇つぶししたいな、と思ったりしています。

 

 

 キリスト教義的な在り方の一例として以下の聖書箇所を引用します。

「”行いを伴わない信仰は死んだもの”

新約聖書 ヤコブの手紙2章13~17節

2:13
あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。
2:14
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:15
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

2:17
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」

 

 

祈り

坂爪さんの言葉がとても良いと感じたので、言葉をお借りして祈ります。

 

神を信じる強さ、親愛の存在を信じる強さを僕に。

この取るに足らぬ生の中で、あなたの御力によって、”いい仕事”をさせてくださいますように。

 

ibaya.hatenablog.com