死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

"互いに平和に過ごしなさい” / ひきこもり新聞「動けなさへの配慮」

こんにちは。

今日は、テサロニケの信徒への手紙Ⅰから、第5章12~18節を引用します。

ーーーー

 

先日、活動を応援したいと思い購入した「ひきこもり新聞」を読んでいたら、下記のような記事がありました。

 

動けなさへの配慮、不可能性を生きるワタシ | ひきこもり新聞

ひきこもり新聞 | すべての”ひきこもり系の人”のために から)

 

”動けなさへの配慮”

この言葉は、僕にとっても、共感する言葉でした。

僕自身も、今は何とかいろいろと活動を行なっていますが、ふとした時に、「ああ、もう何もできない。何をしても、それがなんだっていうんだ。」という虚無感を感じることがあります。だいたい、今は1,2週間に1度くらい。

この気持ちを僕は、ほとんど物心ついた時から持っており、自分の性質のひとつだと思っています。

 

その中で「ひきこもり新聞」の活動を応援したいと思う僕にとって、下記のツイートがたくさんの方に、今もリツイートされているのは、個人的にもとても嬉しいことです。

 

 

 

活動的に、いろんなことをする人がいます。反対に、じっと動かずにいろいろ考える人がいます。

なぜ今の社会は、前者が(お金をよく生むから)善で、後者が(お金をあまり生まないから)悪だとしているのでしょうか。

長い目で考えれば、前者が社会や人間全体に対して、取り返しもつかないような悪をしてきたこともあることは、自明ではないでしょうか。

長時間労働や、(パワハラモラハラなどの)道徳観の欠如、原発などの問題も、関わりのないことではないと思います。

 

もちろん、だから活動的な人が悪いというつもりはありません。

けれど、どちらにも価値の差はない、と言いたいのです。

 

上記したような社会の問題は、ひとりの力でどうこうできる問題ではないと思います。

しかし、ひとりひとりが問題意識を持って発信することで、変えていくことのできるものだと思います。(例えば、「ひきこもり新聞」など、自分が応援したいと思う支援活動にお金を払う、ブログやツイッターで自分の思いをコメントするなど)

問題意識の波及は、何よりも力のある行為だと思います。

ーーーー

 

「"互いに平和に過ごしなさい”

テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 第5章12~18節(使徒パウロがテサロニケにいる信徒たちへ出した手紙)

5:12
兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、
5:13
彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。
5:14
兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする(お願いする)。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15
だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
5:16
いつも喜んでいなさい。
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」

ーーーー

 

「5:14
兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする(お願いする)。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」

この部分の怠惰な者を戒め、という部分は、言葉として少し強く響いてしまうかもしれません。しかし、その後に、小心な者(心弱められている人)、弱い者(今の社会で虐げられてしまっている人)を助け、すべての人に寛容でありなさい、とあります。

つまり、「怠惰な者」というのは、「平和を生むための活動に対して」怠惰な者と考えられるのではないかと思います。

人に対してきつく当たったり、自分の思う通りにならないからといって人を罵ったり、(物理的、制度的)暴力を用いたりする人や、他者を軽蔑、侮辱、迫害する人、「平和を壊すこと」に対して、活動的な人のことを指しているのではないでしょうか。

 

「5:15
だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
5:16
いつも喜んでいなさい。
5:17
絶えず祈りなさい。」

 

ここは、現代に生きる僕たちは、テサロニケの信徒ではないので、命令のように聞こえてしまう部分かと思います。

けれど、「いつも喜んでいなさい」という言葉は、しんどいとき、つらいときにも無理やり笑ったり陽気に話したりして喜びを表せ、という意味ではないと僕は、思います。

悲しみや辛さの中にあっても、人が寄り添ってくれることで感じられる喜びというものもあると思います。それは、ニコニコ笑ったり、陽気に楽しく喋ったりする類のものではなくとも、「喜び」のひとつの形だと思います。

 

「喜び」とは、人が、人の心に寄り添うことで生まれるものなのではないかと思います。楽しい気持ちの人がいたら一緒に楽しみ、悲しい気持ちの人がいたらその悲しいという気持ちに寄り添えるよう取り組もうとすることで生まれるもの。

 

たくさんの人が、それぞれの人の心に寄り添うことができるように、「5:15 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。」と書かれているのではないでしょうか。

 

また、人間は、自分の思いと言葉と行動、そこから波及していく他者への影響について、全てを自分の意のままにすることは”不可能”です。

だから、自分が、皆が、常に実行することは不可能であっても、できるだけいつも、「5:14 すべての人に対して寛容で」あることができるように(キリスト教的表現で言うと、”神の御心に沿えるよう”に)「5:17 絶えず祈りなさい。」とされているのではないか、と僕は思います。

祈りというのは、下の記事の後半にも書いたように、僕にとって、「親愛が、自分にとって何よりも尊いものである」ことを確かめるものでもあります。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

今日の引用箇所は、

「5:18 これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」と締められています。

僕は、「これ」とされている中でも軸として大切なのは、

「5:13 互に平和に過ごしなさい。」

「5:14 小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」

なのではないか、と思っています。

 

すべての人、つまり「多様性に寛容」であることは、「人と人との暖かい繋がり(親愛や平和、心の安らぎとされるもの)」を価値基準の第一番目として置けば、あらゆる人の利益となることだと思います。どうかそのために「絶えず祈る」人が増えることを、絶えず祈っています。

 

 

dedicate to lady S.B.