死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

”愛がなければ、いっさいは無益" コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章3節から10節

”愛がなければ、いっさいは無益"
コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章3節から10節

13:3たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13:10全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

[個人的解釈]
預言:話している相手に伝わるように話す言葉
異言:大切な意味を内包しているけど、外部の人に伝わりにくい表現の言葉
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こんにちは。
僕が敬愛してやまない、いばや通信というブログの筆者、坂爪圭吾さんが、こうツイートしておられました。

坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) tweeted at 8:05 p.m. on Tue, Jan 31, 2017:
明日死ぬかもしれないんだ。これを言ったら恥ずかしいとか、クサいなとか、イタいなとか、そんなことを言っている場合じゃない。自分に恥ずかしくない生き方をするということは、多分、恥の多い生き方をするということだ。湧き上がる感情を、勇気を、命を、出し惜しみしている場合ではないのだと思う。
(https://twitter.com/KeigoSakatsume/status/826385987529871360?s=03)


僕は、「愛」という言葉は
「自分の心からの思いと言葉を、他者に伝えていく中で生まれる、人と人との暖かい繋がり」
のことを表していると感じています。

今、以前の僕のように、将来のために、お金のために、自分の心を圧し殺している人が、たくさんいるように思います。
けれど、そんな必要はないんじゃないかと思います。

「心を殺して長生きするより、今を生きて心を活かす」

僕は、長生きは特にしたいと思いません。
年金を貰える年まで生きたいとも、特に今は思っていませんが、
今の生き方を続けて、もし僕が65や70まで生き長らえたら、その時は多分年金など無くても生きていけると思っています。

何故なら、「今を生きて心を活かす」という手段を選んだ途端に、心から助け合いたい、共に生きていきたいと思える方々に、次々に出会えるようになったからです。

僕の転機に、泣いて喜んでくれる方
心が疲れ顔を上げられない時に、深夜まで連絡を取り合ってくれる方
3時間も4時間も時間を割いて、真剣に僕の話を聞き応援する言葉をかけてくださる方
僕に心からの寄り添う言葉をかけ、慕ってくださる方
僕の価値観を理解し、否定せず共に語り合ってくださる方

それら全ての人に心から感謝しています。彼ら、彼女らに出会えたことで、僕はもうほとんど自分の人生に満足しています。

でもそういった方々に出会えたことは、考えてみれば当たり前のことだった、と気づきました。

これまでは自分の価値観を殺して、「”世間様”の価値観」で生きてきました。そうすれば、”世間様”の価値観を持つ人としか基本的に出会えません。そして、僕の本当の価値観と合う人とは出会えません。

けれど、「自分の本当の価値観」に注意深く耳を澄まして、発言、行動、発信して、生きていくようにすれば、自分と本当に共鳴する人々、また、多様性を許容できる「本当の意味で大人」な人々と出会えます。
(「本当の意味で大人」でない人々(他者の気持ちを考えられず自分中心の思考しか取れない人々)とは、距離を置くことをお薦めします。あなたが無意味に傷つくだけだと思いますし、これから先、そういった人々は淘汰されていくと思いますので)

けれども世の中には”世間様”の呪いにかかって、
「これを言ったら恥ずかしいとか、クサいなとか、イタいなとか、そんなことを言っている」(坂爪圭吾さんのツイートから引用)人々がたくさんいます。



僕は、「愛(その人の心からの思い)がなければ、いっさいは無益」だと思います。お金も、家も、土地も、人間の存在も、世界も、生きていることも。
ここで言う「愛」は、他者にだけ向けられるものではありません。自分自身を大切にして、自分の心の声に耳を澄ますことでもあります。

どうせ明日や一週間後、1ヶ月後に死ぬかもしれない地上の身なのです。
あなた自身を大切にして、心からの思いを大切にしてみてはいかがでしょうか。
”世間様”の呪いは強いです。しかし、一歩足を踏み出してみるとその呪いから抜け出た人がたくさんいます。
それでも不安に過ぎると思います。僕もそうでした。
よかったら、僕をその窓口としてお使い下さい。
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祈り
主よ、私を使って、かつての私のように、悩み苦しみ悲しみを抱える人々を慰め、周りからの理解という救いをお示しください。。そうしていつか、全ての人々が互いに想い合えますように。アーメン(そのようでありますように)。

”牧師、僧侶、神職などの関係性” 「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章18節)

”牧師、僧侶、神職などの関係性”

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記一九・一八)

「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章18節)

 

祭司、レビ人がたとえ話に登場し、善行を行わない姿で描かれるのは、行いを伴わない称号・職位は神の前に何の意味も持たない事を示している。「司祭職の尊貴も、行為において優るところなからば無意味なり」(アレクサンドリアのキュリロス)。

善きサマリア人のたとえ - Wikipedia から引用

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こんにちは。

 

昨日、下賀茂神社比叡山延暦寺が出てくるテレビを見ていました。

その中で、最澄伝教大師が、「この世の中をよくしたい」「今まさに苦しんでいる人々のために祈りたい」という思いで”現在”を司るとされる薬師如来様を特にお祀りし、祈りに励んだ、というお話がありました。

 

それを見て、「平和を祈る人々に優劣などはないはずだ、だから、キリスト教だろうと仏教だろうと、本当の信仰者・信仰職といえる人々同士は、相手の信仰を尊重し合いながら、協力し合った方がいいのではないだろうか」と思いました。

と言いますのも、キリスト教仏教イスラム教もヒンドゥー教も、あらゆる宗教は全て、「人間の考えの及ぶ範囲で理解されたもの」です。けれど、どの宗教も「人の力の及ばない、なにか偉大なもの」の存在を信仰しています。

「言い知れぬ存在に畏敬の念を持ち、平和を祈る」というスタンスは「平和を祈る人々」に共通する姿勢なのではないかと思うからです。

 

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西行(さいぎょう)法師が伊勢神宮を詣でたときに歌った。
「何ごとのおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という歌は大変有名ですけれども、何がそこにいるのかはわからないけれども、なんともかたじけなくて、涙してしまうという心。」

「キリスト教信仰が大切にしている事」 から引用

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キリスト教でも、神の存在を感じられるほどに、自分の内面に向き合い、隣人(他者)のために祈るという行為が大切なものとされていると思います。

 

実際に宗教の垣根を超えて協力している例では、最近、神社の宮司さんと教会の牧師さんが協力して、「神社のコンサートで、キリスト教の幼稚園の子供たちが讃美歌を歌う」ということがあったそうです。

日本聖公会「つのぶえ」694号から)

 

その神社の宮司さんは「地域の人々と一緒に、皆が平和に暮らせるように願ったステージを企画したいので、ぜひ幼稚園児のご協力を」というお声かけを為さったそうです。

 

僕は、これが本当の信仰者の姿なのではないか、と思いました。

 

「お金や権力のために、本来の信仰を忘れている信仰者・信仰職の人」

「自分は神から力を与えられている、と傲慢になる人」(トランプさんを思い浮かべてしまいます...)

「自分の思いに固執するあまり、教理を絶対視し、平和を行うとは何か、を見失ってしまう人」

 

どの宗教に置いても、平和は大切であり、またその「平和」の概念には相通ずる部分が多いのではないでしょうか。(平和を掲げない宗教は、宗教として機能しているのか疑問です。)

わたしたちはそれぞれの信仰や道徳観を持っています。

しかしその信仰・道徳観、その他すべての考えは、「人間の考えの及ぶ範囲のもの」です。

間違っていること、曲解していること、一方には真実で他方には真実でないこと、意見の合わないことがあって当然だと思います。

でもその中で、「平和」という概念において、おおまかな一致を見るなら、その方向(キリスト教的表現で言えば「的」)に向かって、協力する、ということだけが、唯一変えてはならない大切なことなんではないでしょうか。

 

仏教キリスト教においても、「愛」という言葉について、これだけの相違があるそうです。

「・仏教の「愛」は、異性、お金、名声などへの「執着心」の意味

・(キリスト教の)愛とは「人を思いやることだ」「人生において最も大切なものだ」。

仏教徒は、「慈悲」とは"苦を抜き楽を与えること"である、と説明しています。

キリスト教の「愛」と比べられるものは、仏教においては、「慈悲」でしょう。」

仏教の「慈悲」キリスト教の「愛」  から引用

 

本当の信仰(平和を追い求める心)は、概念(特定の宗教・宗派(無宗教も含む)や、価値観)によって、疎外されたり妨害されたりするべきではないと思います。

ローマの信徒への手紙12章18節に「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」とあるように、平和に過ごすために、自分の信仰や道徳心について考え、異なる他者の信仰や道徳観を尊重し、対話し、協力していくことがより良いことなのだろうと感じました。

 

異なる宗教同士の関わり方は、様々難しい問題がありますが、上記したようなスタンスが、肝要なものとして考えられることを祈ります。

ここにもまた「多様性への寛容」という社会(人間の集まり)の課題が現れているのだと思います。

 

 

なぜ今の生き方を選んだか

コリントの信徒への手紙Ⅰ(使徒パウロと兄弟ソステネがコリントの信徒たちへ送った手紙)から

 

”他者の喜びから自らの喜びを生む”

10:33
わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。

 

”人がひとり苦しむなら、それは社会全体が苦しむ”

12:25
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
12:26
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
12:27
あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。

 

”見せかけの行為、心からの行為の価値”

13:1
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

 

”宗教を持つ人への差別の生じやすさ”

14:23
もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたを気違いだと言うだろう。

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こんにちは。

 

僕が、前の仕事を辞めた理由は、「他者が悲しむことをしたくなかったから」です。

僕が耐えられなかったのは、

 

業界の中で3番手、4番手の製品を売るために、相手を騙すこと、

1番手、2番手の製品を知らない人を探して、優れた製品を教えず売り込むこと、

売るためにこれまでの、また現在の不具合を隠すこと。

 

製品の開発が、遠因的に環境破壊を助け、現地住民の住む場所を壊していること

そして周りにそのことに反対する人がいないばかりか、その開発が推し進められることを前提としていること、

自分たちの利益のために(もちろん各々の生活があるとは思います)、開発を推進している業界を顧客とすること。

 

自動化機械を売ることで、現地の雇用が確実にひとつは減り、十分な教育を受けられていない人の仕事が無くなること、

実績が多くなく、課題や問題も多いのに、顧客に対しては弱い部分は隠して強気で売り込むこと。

 

それら全てが僕には耐えがたかった。

向いてない、と言えばそれまでですし、そのとおりではあると思います。

けれど、こういう状況が、「普通」でいいんでしょうか?

 

1週間後、1ヵ月後、死ぬとして、何をしたいと思うでしょうか。

僕は、自分が価値があると感じることをしたいと思います。

僕にとってはそれが、多様性を受け入れる場をつくりたい、ということでした。(あとひとつ加えるなら、音楽と)

 

www.iwannabefree.info

 

”今の”社会では、~~には価値がある、~~には価値がないという「常識」とも呼ばれる差別の温床があると思います。

日常でも、ニュースでも、バラエティでも、

「結婚はして当たり前」

「子どもはつくって当たり前」

「30、40歳超えてるなら、分かりやすい職業についていて当たり前」

「女性が家事をして当たり前、男性は分かりやすい職業についていて当たり前」

という価値観を垣間見ることがあります。

でも、そうじゃなかったらなんなのでしょうか。

ちょっと価値観が合わないから距離を置く、心配する、ということはあると思います。

しかし、「自分の価値観の方が、少し古い社会的常識に適合しているから、自分は価値がある」と信じて、そうでない人の価値観を蔑ろにすることには、かなり問題があると思います。

「差別や偏見を持たない」ということは、「自分と異なる価値観の人間を想像し、その人が自分の友人だったとしても傷つけないような態度をとる」ということではないでしょうか。

 

この記事を読んで、考えさせられたことがありました。

mistclast.hatenablog.com

 

自分の周りの人たちが、自分を高く評価してくれた。だから、社会(人間全員)が自分をそう扱ってくれるに違いない。と考えるのはどうなのでしょうか。

もちろん、これまでの古い社会の中での価値観として、そういう人が多数派だとは思います。

しかし、それが、これから10年後、20年後、そのままでしょうか。

僕は、自分が、「~~な自分は凄い」と言うことは、その反対の立場の人を少なからず不快にする行為だと思います。(突き詰めると何も言えなくなるのですが、言論弾圧をする気はありません。そういった想像力を持つことは、多様な人がいる社会生活の上で大切だと思うのです。)

なので、「~~な自分は凄い」「だから~~なやつは間違っている」と公に言う行為には常に、異なる他者を不愉快にする可能性(差別・偏見の可能性)を秘めていると思います。

 

上記の「社会的評価」に関する記事を読んで、さらに思った事は、「自分が何に価値を感じているか」を精査することが大切だな、ということでした。

自分にとって何が価値があるか、とは、

「自分にとって、何が楽しいか」「何がやりたいか」

「何はやりたくないか」「何をすると自分の心を殺すことになるか」

を考えることです。

僕は「結婚・子育て」をしたいとは思えません(そこに価値を置いていません)。

ですが、これまでの少し古い社会的常識においては、結婚・子育ては羨ましがられることだったのだと思います。

その中にあって、「なんかみんなが羨ましがってるし誉めているから、あれはきっと価値があることなんだ。羨ましいな」と思うよりも、「何人かのひとにとっては価値があるのだろうけど、僕にとってはそうでもないことのひとつだな」と、距離を置いて眺めた方が、負の感情が弱められ、また、自分の気持ちに素直でいられるのではないかな、と思います。

それに、自分の価値観を無視し、周りの価値観に流されて生活すると、当たり前のことですが、自分と異なる価値観・考え方を持った人々に囲まれていくことになると思います。

そうすると、自分本来の価値観を抑圧するしかなくなるため、本記事冒頭の僕のように、「やりたくない、逃げたい」となってまうのではないでしょうか。

 

もし、「結婚」するにしても、「自分と価値観・考え方が近いか」、「話し合いがちゃんとできるか」の方が、「社会的に評価されるか」より大切だと思います。

”今の”社会的に羨ましがられる結婚をするよりも、自分と価値観の近い人々を探して、コミュニティをつくり(もしくは参加し)、これからも一緒に過ごしていきたいな、と思える人が、もしいたら結婚する、いなかったら自分にとって居心地の良いコミュニティでわいわい楽しくやって、笑いながら死ねるようにしよう、くらいでいいんじゃないでしょうか。

と、僕は思います。

これらの価値観に基づいて、行動した結果が今です。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

「今を死んだように生きて、老後に備えてもしょうがねえだろ」

しんどい時期を通り過ぎて、今は本当にそう思います

「心を殺して長生きするか、心を活かすために今を生きるか」

どちらがいいのでしょう。

僕は後者の人が増えたらいいな、と祈っています。

自分が生きやすくなるためのコミュニティとはなにか。

"共有"

使徒行伝 4章32節

4:32 信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。

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こんにちは。

今日は、これからの生き方の選択肢のひとつとして注目されている、3つ目のコミュニティを作ることについて、書きたいと思います。

 

motemoteninaru.hatenablog.com

 

私は、”コミュニティ”は、思い、モノ、言葉を「共有」する集団だと思います。日本語で言うなら「共同体」。

 

なぜ現代において、家庭、仕事以外の3つ目のコミュニティが注目されているのでしょうか。

僕はこれまでの、閉じたコミュニティで死ぬまで暮らす時代が終わりかけているのではないかと思います。これまでは、コミュニティが家庭、仕事といった単位で、ある程度閉じていたため、そのコミュニティ内で問題が起こった時に重症化しやすいという問題を、これまで多くの人が見てきました。

問題が起こった時には、「感情的にならず」「お互いの意見を否定せず」話し合うことが大切です。しかし、閉じたコミュニティ内だと、お互いの心理的距離が近すぎて話し合いの場が成立しない状況が多々あります。

その時に、多様な価値観、考え方の人々と日常的に親しく交わっていれば、広い視野が育まれると共に、話し合いの場をつくる際の協力者となってくれるかもしれません。そこまででなくとも、親身に相談に乗ってくれると思います。

閉じたコミュニティ最大の問題点は、「思いを吐き出すことさえできない」ところだと思います。そういう時に吐き出し、受け止めてくれる場があれば、心理的負担はかなり減るのではないでしょうか。

 

僕の場合は、多様な価値観を認めることのできる能力を持った人々に出会い、共に生きていくために、コミュニティ探しをしています。

現在は、twitterやブログ、これまでの友人・恩師の先生、教会、UM(union of minimalist)などの繋がりがあります。

これから時間をかけて、深い繋がりを持てるように生きていきたいですし、さらに繋がりを増やしていきたいとも思っています。

自分にとって信頼できる人がいてくれるコミュニティを増やすことは、生きていく中で、つらいことやしんどいことがあった時に生きる糧となります。つらいことやしんどいことが全くない人生を歩む方は、ほとんどいないと思います。

そういった観点から、複数の(信頼の置ける)コミュニティを探すこと、持つことは大切だと思います。

 

また、その中にあって、つらさやしんどさが上限を超えていて、吐き出す場があっても吐き出すことさえできないときに、祈るという行為があるのだと思います。

 

複数のコミュニティは、話し合うべき時には話し合いながら、平和に暮らしていくために、とても重要です。

同じように、自分の思いや願いを超えて、悩み・苦しみ・悲しみに苛まれるときに、祈りの場を持つということは、ひとつの救いとして機能するのではないでしょうか。

どちらも大切に、過ごしていきたいと思っています。

 

 

祈り

主よ、あなたがともに居て、私を支えてください。闇の中、あなたが光でいてください。アーメン(そのようでありますように)

”人それぞれに生き方がある。” コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章6節、7節

”人それぞれに生き方がある。”
コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章6節、7節
 (使徒パウロと兄弟ソステネからコリントの信徒へ宛てた手紙)

7:6以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。
7:7わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。 (別訳:人それぞれに生き方があります。)
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こんにちは。
今日は、「共通道徳」という概念について書きたいと思います。

一言で言うと、ある特定の地域の人々が、大まかに共通して持っている道徳観の事です。
この「共通道徳」があると、道徳観について、ある程度一定の理解を持って話し合うことができます。また、共通道徳は、教典や礼拝などの文化の中で育まれるものが多いので、共通の話題としても機能します。
「共通道徳」は、それぞれの文化圏の宗教によって育まれるものと言い換えることもできると思います。

もちろん、同じ「共通道徳」のコミュニティ内にも様々な考え方の人がいますが、極端に言ってしまうと、「共通道徳」があれば、目の前の人がなんの行動原則で動いているか、推し量りやすいということです。

日本では、その「共通道徳」が、斉藤学さんの言をお借りすると、"世間様”だったのだと思います。
「周りから奇異の目で見られることをするな」
「周りからはみ出さず”普通”でいろ」
「周りと違う行動する奴は理解できない」
「周りと合わせてさえいれば、安定安心だ。だからはみ出す奴らは無視、排斥してもよい」
こういった考え方が、かつては、あったのだと思います。


何故、「かつて」なのかと言いますと、最近はそうでない方々が増えてきていると感じるからです。
やはり年齢が高い方に、かつての価値観を保守している方が多いですが、僕の周りの人々でも、UM(Union of Minimalist)やブログで出会った人びとは、多様性を寛容に受け止める能力に長けていらっしゃいます。
それは、裏を返せば、ひとりひとりが自分の心からの価値観と選択を大切にしたいと思っており、相手の心を尊重することが当然だと思えているからではないでしょうか。

これまでに、なんらかの画一的な生き方を押し付けてきていた人は、”周り(世間様)”が正しいと言ってきた通りに生きてきた結果、自分の生き方に納得、満足できず、他者をも同じ道に押し込めることで、自己を正当化したかったのではないでしょうか。
僕は、"世間様”教は大多数を不幸にする宗教だと思います。

”周り”ばかりを見ることは止めて、今こそ自分の内面、心から思うことは何か、を聞いてみてはいかがでしょうか。

今、アメリカでは、下記のツイートのように「トランプがイスラム教徒締め出しを行うなら、キリスト教徒であっても、イスラム教徒として登録して反対を表明するべきではないか」という議論があるそうです。映画「沈黙ーサイレンス」の、教理か、愛する人を助くか、というテーマと似たものを感じます。僕はまごうことなく後者だと思っています。

https://twitter.com/ChristianPost/status/824767655907360768

また、その州の宗教的指導者が、性的マイノリティを認めないが為に、悩んで自殺した17歳のリーラーさんという女性がいます。
「教理」が、「愛する人を大切にする」ことよりも大切だとは思えません。

http://www.christiantoday.co.jp/articles/14998/20150107/transgender-teenageer-suicide.htm

日本には、幸か不幸か、強力な共通道徳はまだありません。
あなたも今、これから先1年でも2年でも、10年でも生きるつもりなら、自分が本当に何がしたいか、自分の内面を見つめてみるのもよいのではないでしょうか。


祈り
主よ、アメリカでもイギリスでも日本でも、不寛容の発露が見られるようです。今もまた、マザーテレサジョージ・ブッシュ元大統領とサダム・フセイン元大統領に送った手紙を覚えます。。「わたくしは目に涙をため、心に神の愛を持って、貧しい人、および皆が恐れている戦争がいったん起こったならば貧しくなる人びとのために、懇願いたします。(中略)神はわたくしたちが憎悪によって破壊されるためではなく、神の愛によって愛されるために生まれました。(中略)どうぞ平和の道を選択してください。」(「マザーテレサ 来て、私の光になりなさい」p514-516より引用)。
どうぞ、憎み合うのではなく、平和の道をお示し続けください。悲しみのあるところに喜びを、闇のあるところにあなたの光を置いてください。主の御名によって、マザーとともに懇願いたします。アーメン(そのようでありますように)。

"あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 "ローマの信徒への手紙12章6節から18節

"あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 "

ローマの信徒への手紙12章6節から18節

12:6このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、

12:7奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、

12:8勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。

12:9愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、

12:10兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。

12:11熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、

12:12望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。

12:13貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。

12:14あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。

12:15喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

12:16互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

12:17だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。

12:18あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

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こんにちは。

今日は少し長く引用しました。

今回は、多様性への寛容という事をテーマに、これからの労働と、これからの住み方、暮らし方の変化について、述べたいと思います。

 

・多様性への寛容

「多様性への寛容」とは、自分以外の人間に対して、外見と内面に「自分と異なるところがあって当然だ」と理解して、自分と相手の考え双方を尊重する姿勢、だと言えると思います。

 

今日引用した聖書箇所にこのような記述がありました。

「12:6わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている」

「12:16互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。 」

これらはつまり、それぞれが外面と内面によって違いを持っていることを知り、どちらが優位だとかで争うのではなく、お互いの意思を尊重し合い、現代の社会にあって社会的弱者とされる人と交わりなさい。という事だと僕は思います。

 

いつか死ぬ人間という生き物に、地位や名誉、お金がどれほどの価値があるものなのか、僕にはわかりません。今の社会で最低限生きるために必要な分は手に入れなければなりませんが、それ以上必要なのでしょうか。

僕は、UM(Union of Minimalist)というコミュニティに参加しており、ミニマリストという生き方に興味を抱いています。宗教と同じで、所属している人々の中にも様々な捉え方があると思いますが、僕は「ミニマリスト」を「自分が応援したい、取り組みたいと思える事や人にお金を使う為に、モノや支出を抑える姿勢」だと解釈しています。

www.suitablism.com

僕は、自分自身にとって大切でないモノを減らすこと、買わないことや、支出を抑えた分のお金を、

「ふとんで年越しプロジェクト」

ふとんで年越しプロジェクト2016 ~誰もが暖かく年を越せるように - クラウドファンディングのMotionGallery

「通っている教会への献金(被災者支援や炊き出し等に使われます)」

「自分が応援したい音楽アーティストのCD代」

www.facebook.com

「ひきこもり新聞を買うこと(応援したい活動への投資)」

ひきこもり新聞について | ひきこもり新聞

などに使っています。微々たるものですが、100できないから1しないよりは、1でも自分にとってできることをした方がいいのだと思っています。

先日は、どうせ人と外食する時はいろいろなものを食べるのだし、食事は一汁一菜で十分なのではないかと思い、お茶漬けとみそ汁だけのごはんを作ったりしましたが、問題ない満足度でした。また、一人暮らしに戻ったら、いろいろな野菜を使ったり、味噌を作ったりしてみたいなと考えています。笑

自分がお金を使った時、そのお金が、どのようにめぐり巡っていくか、を考えることが大切なことだと感じています。ワタミ電通などに使うことは、それぞれの企業の存続を応援することになります。もちろん、お金がどのように巡り巡るか、全てはわかりません。でも、ある程度はわかるはずです。どうせ自分の時間とお金と思いを消費するなら、「自分が応援したいと思えるもの」に投資するのはいかがでしょうか。

各々個人の「自分が応援したいもの」には、多様性があると思います。でもそれはどれも、悪いものではないと思います。あなたが、応援したいと思うものを、少しずつでも応援することで、多様性に寛容な社会の実現にもつながるのではないでしょうか。

 

・過労の問題

www.outward-matrix.com

 

 

過労について、上記の記事を読みました。

確かに、「過労」それだけが人を自殺に追い込むものではないと、僕も思います。

私は、人の心の寿命を縮めるものは、「相手の心を理解しようとしない姿勢」だと思います。

「自分の立場が上だと考えて、相手に対して何を言ってよいと思っている人」

「相手を慰めているつもりでも、慰めている自分を免罪符にしたいだけであり、相手に全く寄り添えてない人」

「干渉しないことで、自分に責はないと思っている人」

など。

それらの「社会の態度」全てが、人の心の寿命を縮めるのだと思います。

 

「12:10兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。 」

「12:15喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 」

どうせ生きるなら、つらくて悲しいのは、大切なひとが亡くなる時くらいで十分じゃないでしょうか。

経済成長、お金を集めること、家・結婚・子供などの”形”によって幸せを達成しようと苦心することより、それぞれの人々、ひとりひとりが楽しく幸せに暮らすことを目指すことには、メリットが溢れていると思います。

幸せは、”形”によって実現されるのではありません。自分の心を大切にし、目の前にいる人の心を大切にすることで、生み出されるものだと思います。

 

・住み方、暮らし方の変化

glocal lifeさんが以下のようなことをツイートされていました。

 

同感。今の日本で、家やマンションを買おうとしている人は、金融リテラシーが低いと言わざるえない。人口が減少して、経済成長も期待できなくて、空き家が増えていく日本で、不動産を買い込むなんて「ババ抜き」と同じで最後まで「ババ(不動産)」を持ってる人が損をする。早めに一抜けた方が絶対得だ https://t.co/YW70x6EGYz

— Glocal Life (@glocal_life) 2017年1月26日

 http://www.outward-matrix.com/entry/2016/10/08/113552

 

僕も全く同感で、昔、「家を買っておかないと年とってから家を借りることは難しい」「家は資産になるからローンしてでも買っておけ」というニュースのコメンテイターを見て、何を言っているんだろうと思ったことがありました。

これからほぼ確実に、保証人のいないお年寄りの数は増大するでしょう。人口も減るでしょう。シェアハウスも増えるでしょう。その中にあって。上記のコメンテイターの指摘は、どこを向いているのかよくわかりません。

また、お年寄りだけでなく、若い人々も、シェアハウスなどで共に暮らすことや、様々なコミュニティに所属することが増えていくとおもいます。僕で言えば、UM繋がり、教会繋がり、ゲストハウス繋がり、ブログ繋がりなどです。

その中にあって、互いの考えの多様性を尊重し合い、話し合うべき時は話し合い、楽しく協力して生きていくことが、どんどんと大切な能力となっていくのではないでしょうか。

greenz.jp

 

12:13貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。

12:15喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

12:16互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

12:18あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

 

12:13では、聖徒、と書かれていますが、12:18では、すべての人と書かれています。宗教や人種や文化、性別が異なっていても同じ人間です。その中に線を引くことに意味があるとは思えません。

「自分を含めてすべての人と平和に過ごす」、「自分を含めて、すべての人が心から笑って暮らせる」。誰もが描くその思いがキリスト教で「霊」と呼ばれるものかもしれません。なんにせよ、その思いの実現のためには、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き、高ぶった思いを抱かず、互いに平和に過ごすこと」に取り組んでいくことが大切だと思います。

そして、そのことが「多様性への寛容」を達成するひとつの手段だと思います。

言葉にすることの重要性

こんにちは。

先ほど以下の記事を読んで、とても大切なことが書いてあると感じたので、記事を書くことにしました。

 

blog.tinect.jp

 

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

日本には「空気を読む」という文化があります。

その文化には、言わずとも伝わる、という良い面があるのかもしれません。(言わずに伝わった場合には)

「空気を読む」に追随して、「背中を見て学べ」「行動を見てわかれ」という文化もあると思います。

 

しかし私は、これまでの人生の中で、言葉にしなかったから敵意が生まれ、状況を悪化させた例を幾度も見てきました。

良かれと思ってやったことが、事前に伝えていなかった為、反感だけを買うことになり、双方が敵意を抱いた例。

時間を尽くして仕事の分配を決めたが、分配を決める過程が十分に知らされていなかった為に、不満が噴出し、「あれだけ苦労して作ってやったのに」とお互いが敵意を抱く例。

 

「言葉」というものは不完全なものです。

「思い」もまた、思いがけない伝わり方をすることがある、不完全なものです。

ですが、「不完全だから」と言って、察しろ、空気を読め、ではいつまで経っても相互理解は深まらず、私の見てきた例のように、双方が敵意を育んでしまう土壌となりかねません。

 

そして、「言葉」を上手く使って意見の伝達、話し合いを行うためには、

1、否定しないこと

「相手の意見を、相手の意見として受けとめること(自分と異なるからといって、否定しないこと)」

2、場の空気を和やかに保つこと

「感情的にならないこと(怒る、あしらうなどの行為をしないこと)」

3、それぞれの意見を尊重すること

「一人ずつが話し、一人が話している時は、基本的にその人が話し終わるまでその人の意見に耳を傾けること(助けの手を差し伸べるのは良いが、遮って自分の意見を言い出さないこと)」

 

会議の時、子供との話し合いの時、大人同士の問題解決の時、恋愛関係の揉め事の時、どんな時でも、人が2人以上集まれば、この3つが大切になってくるのではないかと思います。