死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

"だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。" コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章6節

"だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。"

コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章6節

4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、私自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。

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こんにちは。

 

今日は、"だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。"という言葉について考えてみたいと思います。

先日、私がフォローさせて頂いているglocal lifeさんが以下のようなことをツイートされていました。

 

 

以前の記事でも書きましたが、私は各々が持っているそれぞれの判断基準が、宗教と呼ばれるに値するものであると思っています。つまり、何に価値を置くか、です。キリスト教徒やイスラム教徒など、自覚的な教徒であっても、個々人で少しずつ"何に価値を置いているか"は異なります。(ゆえに曲解した人々が過激派、などに成り得ます。ザ・バイオハザード ファイナルもそんな映画でした。)

 

以前の記事:

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

 

私も、世間様教の盲目的な(無自覚的な)信者からの意見に反発を覚えたことがあります。下記はその時のツイートです。

「他人の幸せを願いたい的な話してると、いやでもお前自分の幸せのために他人犠牲にしてるじゃん的な批判を受けるときがあるけど、自分の幸せも大切なわけであって。漸進的にしか進まないにしろ、100できないから1やらない理由にはならないでしょ、と思う。 https://t.co/IvXnTuUYzT— 羊 (@Sheltie_s_sheep) 2017年1月24日」

 

でもglocalさんのツイートを見て、これって要は、”世間様”から外れるような変わったことするな、っていう事なのかな、と思いました。

私は、例え”世間様”から外れようが、自分の考えに常に確信を持たずに見直し続け、心から笑える人が一人でも増えるように、思いと言葉と行動によって実行できるよう、生きていきたい、と思っています。しかし、私は神でないので、その中で思いがけず誰かを悲しませることも、残念ながらあると思います。しかしそれでも、100できないから1やらない人間にはなりたくないなと思っています。

怒りを行動原理に置かず、人々ひとりひとりが、小さな慈しみを重ねていけば、より良い社会に繋がると、信じたいと思っています。

 

行動原理を怒りに置く例:

www.huffingtonpost.jp

 

www.huffingtonpost.jp

 

「宗教が争いを起こすくらいなら宗教など無い方が良い」

と仰る方がいます。確かに、宗教が争いを起こす"だけ"のものであればその通りだと思います。

しかし現実は、自覚的な宗教者が少ない日本においても、他国と同じかそれ以上に深刻な争いも起こっていると思います。私は、日本において最も大きな課題は、「多様性への不寛容」であると思っています。

"世間様"、"普通"、”社会の常識(とされているもの)"から外れてる人々は蔑んで問題ない、(と本気で思っている方は少数派だと信じたいですが)、それら"世間様"の価値観にあまり深く考えることもなく迎合している人が多いのもまた事実なのではないかと思います。

日本社会では、「”世間様”は絶対に正しい」と、あの手この手の表現で発言・表明している方が多いと感じています。

「そんなの社会人としてダメだよ」

「常識ないね」

「君は普通じゃないんだね」

「言ってることはわかるけど、現実的じゃないよ」

「そんなの通用しないよ」

with軽蔑の目つき。

 

これら全て”世間様”からの「お前の心を滅ぼせ」という有難いご神託だと思います。(これらを言っている方々にはそのつもりはなく、善意から、なのかもしれませんが、自分の言葉がどういった形で波及するかまで考えられないようでは、人と心からの暖かい繋がりを作っていくことが難しいと思います。)

これら”世間様”の言葉に捕られ、呪われ続けた結果として人は、「心の寿命」を迎えるのだと思います。

先日読んだ、「うつヌケ」というマンガにこのような表現がありました。

 

 

この表現はとても腑に落ちました。

うつは、心の風邪、とか言いますが、正しい表現は、「心のガン」なのだと思います。

 

少し不思議なようでいて、当たり前のことかもしれませんが、私の見た中では、キリスト教側、仏教側双方から、「自殺は社会の罪」である、と言われています。下記のサイトと本にその記述を認めることができます。

 

キリスト教側から(webサイト)

下世話なQ&A「キリスト教では自殺は罪なんですよね?」

仏教側から(本)

「なくしたものと繋がる生き方」尾角光美さん

Amazon CAPTCHA

 

私も、自殺は「社会の罪」であり、本人や遺族が責を負うべきではなく、「多様性への寛容」「身近な人の心を大切にすること」について社会全体で考えるべきことを、「一人の人が、命を投げ出して訴えてくれた」のだと思います。

 

心のガンを予防する方法として「多様性への寛容」という”優しさ、理解力”を身に着けていく必要があり、心から笑える人を増やすために、お互いの考え方、在り方を大切にして尊重し合うことが必要なのだと考えています。

つまり、心から笑える人が一人でも二人でも増える道へ進むためには、”一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにし”てはいけない。

あなた自身含め、ひとりひとりに対して「感謝」と、自分が絶対に正しいなんてことは絶対にあり得ないという「謙遜」を持って、生きていくこと。その生き方自体が、喜びを生み出し、満足して生きて、死ねる流れなんではないかな、と思います。

 

 

 

祈り

主よ、あなたの御力によって私を、慰めるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛することを求める者としてください。つまづくことが多い私ですが、あなたの優しさとみ言葉によって、立たせ、また共に居て、安らぎをお与えください。また今も悩み苦しみ悲しみの中にいる人が大勢います。その方々、ひとりひとりの上に、あなたからの恵みと慈しみがあり、あなたが共にいて、安らぎを与えてください。

死ぬことと生きることとはなんでしょう。何を遺していけるでしょう。わかりません。それでも喜ぶ人が一人でも二人でも増えるために、100の行動ができなくとも、1の思いだけでも実行できますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン(そのとおりでありますように)。

 

 

 

音楽指導の技術・宗教音楽は何故完成度が高まりやすいか

"同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。"
コリントの信徒への手紙1章10節

1:10さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。
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こんにちは。
今回は、音楽について書きたいと思います。

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・音楽指導の技術


突然ですが、皆さんは音楽は何によって完成度を高められると思いますか?

音楽は、「テンポ、強弱、正確さなどの演奏技術」、「メンバー相互の信頼」によって質を高められる、と考えられる方が多いのではないでしょうか。

しかし、練習する中で、「心を込めて」「感情表現豊かに」と言うだけの抽象的な指導をされて困った経験のある方もいるのではないでしょうか。

私ももちろん、演奏技術、信頼はとても大切だと思います。また、抽象的指導も大切だと思いますが、抽象的指導だけを行うことには、疑問を持っています。

演奏の質を高めるために、また、抽象的指導に終始しないために、私は、「ビジョンの確立、共有」が大切だと思います。
「ビジョン」とは、情景、感情、物語などのものです。
例えば、クラシックの曲では、「この曲は作曲者が、身分違いの女性への恋慕を描いたものである」という感情や「飢えた鹿が森の中で泉を探すような、人の心の渇きを表現したものである」という物語などです。
ポップスであれば、純粋に「楽しさ」を表したもの、「離別の哀しみ」を表したもの、「心の衝動」を表したものなど様々あると思います。
上記が「ビジョンの確立」です。

次の「ビジョンの共有」は、演奏者の中でその曲への思いを共有するということです。この際、「感情」や「物語」を、「演奏の際にどのように表現するか」という"ビジョンから演奏表現への翻訳"が必要になってきます。この行為を行わない場合、抽象的な指導に終始することになると思います。具体的には、「物語」に合わせてメインフレーズを目立たせることであったり、「感情」に合わせて、サビに向かってクレッシェンド、デクレッシェンド、リタルダンドスフォルツァンドなどを配置し、さらにその情報をメンバーで「共有」すること、などです。(もちろん、楽譜の指示を尊重した上で、上記の演奏表現を考え、自由に配置し、メンバーと共有していきます。)
「感情表現」「心がこもった演奏」というものは、決して全部が言語化不可能なものではなく、ある程度までは具体的指導に置き換えられるものだと思います。ですので、演奏技術の高い人ほど、自分の演奏を客観的に分析して、他者に「こういった演奏表現もあるよ」と押しつけせずに伝えることで「楽譜通りでない、その人らしい演奏」を手助けすることができるのではないでしょうか。


上記を踏まえて、音楽練習のステップは、下記のように表せると思います。

・音楽練習のステップ
①楽器の演奏技術をだいたい身につける
②だいたい楽譜通り演奏できるようにする
③(合奏の場合)メンバーと合わせてそこそこ楽譜通りに弾けるようにする
④「ビジョン」の確立、共有をする。(確立は基本的に一人が行う方が一貫性を持たせる意味で良いと思います。メンバーからの意見を活かすこともとても大事ですが、全員の意見が揃うことは珍しいので...)
⑤「ビジョン」の表現のために「ビジョンを実現する為の具体的な演奏表現の設定」を行う。
(複数人が合奏する場合、特に具体的な演奏表現の指導が重要です。というのも、指導者が「心を込めて」「感情豊かに」という抽象的な指導をして、それによってどの程度演奏が改善されるでしょうか。プロともなると違うのかもしれませんが、少なくとも私の見てきた限りでは、「抽象的な指導だけを行うことは、ほとんど演奏の改善に意味をなさない」と思います。)

逆に言えば、具体的な演奏表現指導ができる人が指導をし、「ビジョンの共有」ができている団体は、多少演奏技術に難があっても「良い演奏」をすることができるのではないか、と私は感じています。


・宗教音楽は何故完成度が高まりやすいか

記事タイトルにした"宗教音楽が何故完成度が高まりやすいか"ですが、この答えは、
「ビジョンの共有が既に行われている」
これに尽きると思います。

讃美歌などは、その名の通り「神を賛美する、神に感謝する」性質のものであり、演奏する人々は基本的に、既にその姿勢を持っています。さらには、同じ教会などのコミュニティに属する人々であれば、それまでの交流から相手の気持ちや考えをある程度理解しており、合奏の際に妨げとなる「メンバーに対する信頼の不足」が少ないです。
単純ですが、「ビジョンの確立、共有」といった視点から見ると、宗教音楽の完成度が高まりやすいのは上記の理由があると考えられます。


音楽には、明確に解明されていることは少なく、経験則からしか語れない部分も多いですが、技術だけではなく「ビジョンの確立と共有」といった視点があるということを知っていただきたいと思ってこの記事を書きました。「抽象的な指導」は、初心者の方に「やっぱり音楽ってわかんないわ」と匙を投げるきっかけになりうる行為だと思います。「抽象的な指導」だけに終始せず、その一歩先まで考える方が一人でも増えると良いと思っています。
音楽は「言語を用いないコミュニケーション」です。「ビジョンの共有」を、言葉を用いて先に行っておくことで、音楽によるコミュニケ―ションをより快適に行い、「音楽を楽しむ」方が一人でも増えることを願っています。

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「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」マタイによる福音書25章35節‐36節、40節

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

マタイによる福音書25章35節‐36節、40節

 

25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

25:40 そこで、王(イエス)は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟(姉妹)であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

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こんにちは。

マタイによる福音書25章35節‐36節、40節を引用しました。38、39節を飛ばしているので、気になる方は以下のURLからご覧になれます。

マタイによる福音書 25, Colloquial Japanese (1955) (JA1955) | 章 25 | 聖書アプリ | Bible.com

 

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

平和(すべての人が心から笑える状態)に向けて、一番大切な教えは、これではないかと感じています。

 

現代において「自分さえよければそれでいい」という考えを感じることがあります。私が以前いた会社では、「製品が売れればそれでいい、後から向こうが後悔しようが、雇われる人が減ろうが、うちにお金が入ってこなきゃ暮らせないんだからそれでよい」という意見が「普通」でした。そういう場所は案外多いのかもしれませんが。

また、本来は「自分も他人も幸せが一番である」とわかっていながらも、それが歪んで「自分が不幸なんだからお前も不幸になれ」となってしまう状況も散見します。公務員バッシング、生活保護バッシングもそういった背景があるのではないでしょうか。

 

しかし、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」。つまり、「最も弱められている人に寄り添い、行動すること」が最も価値のあることだと教えているのです。

 

わたしは、これは、「天の宝(人との暖かい繋がり、心の交流、平和)」の概念においても大切なことだと感じます。

もし、あなたが、顔も挙げられないほど、眠ることも食べることもできないほど、死にたいとおもうほどつらい時、心通わせてくれる方が居たら、これ以上ないほどの恵みだと感じるのではないでしょうか。

そんな風に、深く心を通わせる機会は、生きる中で、多くはないと思います。もし、あなたが助けられる側であれば、深い慈悲の心を持ったとても大切な友を得るでしょう。そして、大きな喜びを感じるでしょう。わたしはその心の交流を指して「天の宝」だと思っています。

またあなたが助ける側であれば、相手はあなたに、これ以上ないほどの「心からの感謝」を与えてくれるでしょう。わたしは「心からの感謝」ほど美しい天の宝はないと思います。あなたが「小さき(弱められている)者」を助ける時、あなたは「天の宝」を頂いており、またその人と人との関係性の中に、神(平和)への想いが現前するのだと思っています。

神、という語に抵抗感があるのでしたら、人の心の暖かさと言い換えてもいいと思いますが、私は、生きる上で、「心の暖かさ」の恵みを受けることより価値あることはないと感じています。そして、それは、人間が全て操作できる事象ではないと思います。

人の感知できる部分以外の空白にこそ、神とされるもの、人の力と考えが及ばぬものが在り、また、その部分に思い至る時、全ては無いことと等しいのだと思います。

 

「天の宝(心の暖かさ、心の交流)」の為に、身体的、精神的に飢えている人、渇いている人、居場所を求めている人、暖かさを求めている人、病気の人、抑圧されている人に寄り添うことができ、また私自身も小さき者として、寄り添って下さる方に恵まれますように。

 

「25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

・・・

『はっきり言っておく。わたしの兄弟姉妹であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

"生きることの罪とは"(生きることの意味とは) ローマの信徒への手紙1章28節から31節

"生きることの罪とは"(生きることの意味とは)

ローマの信徒への手紙1章28節から31節

1:28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

1:29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

1:30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

1:32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

 

2:4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

2:10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

2:11神にはえこひいきなどはないからです。

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こんにちは。

今回は、キリスト教における"罪"の考えについて少しお話したいと思います。

 

罪、と聞くと、あなたは何を思い浮かべるでしょうか?

盗みや殺人など、刑法の罪を思い浮かべるのではないでしょうか。

わたしもそうでした。ですから、キリスト教でよく使われる"罪人"とはいったい何のことなのか、と思っていました。

 

今回の聖書箇所、ローマの信徒への手紙1章28節から31節は、"キリスト教における罪"の概念に、ひとつの答えを示唆してくれるのではないかと思います。

 

ここでは、下記のような人が、"罪人"とされています。

1、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、

2、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、

3、陰口を言う者、(本人の目の前で言えないことを陰で言う人)

4、そしる者、(他者の思いや行いを批判ではなく非難する人)

5、神を憎む者、(平和を望まぬ人)

6、人を人と思わぬ者、(人を自分の道具や所有物などとして扱う人)

7、高ぶる者、(自分が最も優れていると勘違いする人)

8、大言壮語する者、(言葉の持つ力を考えず、柔和と謙遜を持たず発言する人)

9、悪事をたくらむ者、

10、親に逆らう者、(自分にとって大切な人を悲しませてしまう人(親は喩えだと思います))

11、わきまえのない者、(傲慢になり、客観的に他者の気持ちを鑑みることができない人)

12、約束を破る者、

13、情け知らずの者、(他者の心に寄り添えない人、自分の利益の為に他者を傷つける人)

14、慈愛のない者(自分を大切にし、またそのように他者に接することのできない人)

 

これらを見て、わたしは「ああ、全ての人が罪人といわれていることも理解できた。」と感じました。

上記のような人々が”罪"に定められているのです。短く言うなら、平和(全員が和すること)に逆らう、思い、言葉、行動を行った者が罪人なのです。

その考えでいくと、私に罪はない、と言える人はいないのではないでしょうか。

陰口を言ってしまうこと、傲慢になってしまうこと、他者の心を傷つけてしまうこと、どれも生きていく中で、意識するとしないとに関わらず、避けられないことだと思います。

また、最も罪深い人は、それを行なう人に同意することだと私は思います。

「1:32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」

 

社会構造によって経済的に困窮している人、心無い言動や社会的慣習によって精神的な苦しみを抱いている人、長時間労働などによって身体的に傷つけられている人が存在していることは、ほぼあらゆる人に周知されている事実だと思います。

しかし、それに気付いていながら、「しょうがないことだよね」「根性ないな」「逃げればいいのに」「自分もされたからお前も苦しめ」などと、見て見ぬふりをすることは、心から、ではなくとも、「それを行なう者に同意している」ことになると思います。

現代は、あらゆる人が発信者となれる時代です。最も簡単に声を上げる方法は、SNSなどで"人を人と思わぬ行動や、心から笑える人が減ること"に反対の声を挙げることではないでしょうか。

平和(すべての人が心から笑える状態)を求める行動を行う人は、罪人から最も遠い人となることができると思います。

 

また、"罪人"についてお話してきましたが、自分が罪人だからもうどうすることもできない、ということではないと思います。世の人が皆、罪を背負っているのであれば、あなただけがどうこうという話ではありません。

誰だって、心から笑える環境の中で、お互いに尊厳を持って理解し合い、仲良く暮らしたいのではないでしょうか。

ローマの信徒への手紙2章10節、11節にあるように、平和が善を行なうすべての者の上にあるのなら、平和(すべての人が心から笑える状態)を求める行動を行っていくと良いのではないでしょうか。

 

「2:10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

2:11神にはえこひいきなどはないからです。」

 

また現代においても、長時間労働、個々人の考え方の否定(多様性の排除)、移民問題での対応などを見るにつけ、人を人と思わぬ者が多くいる時代だと感じます。

その中にあって、自分と、自分の周りにいる大切な人々、またその人々に繋がる人々ひとりひとりに、「あなたの存在には価値がある」「あなたが、わたしにしてくれたことの故にではなく、暖かく心を交わした故に、あなたの存在に心から感謝している。」と伝え、また「あなたがわたしを生かし、またわたしがあなたを生かしている」と思うことのできる関係を増やしていくことこそ、生きる意味ではないのか、と思っています。

 

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4」

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。ヨハネ13:34」

 

www.christiantoday.co.jp

 

祈り

主よ、悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。わたしには何の力もありませんから、あなたの御力によって、人を悲しませることは出来るだけ最小限に、人の心に寄り添うことができますよう、切にお祈りいたします。また、私の大切な人たち、その人に連なる人たち、ひいてはすべての人々のそばに、あなたが居て、少しでも安らぎを与えてくださいますように。この祈りを主イエスの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりになりますように)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きな聖句 ご紹介

こんにちは。
今回は、普段成句カードとして持ち歩いている、好きな聖句をご紹介したいと思います。
あなたが、生きること、死ぬこと、遺すもの、価値のあるもの、見えるものと見えないもの、話すことと聞くこと、人との関係性などについて考える時に、助けとなることを願って。

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わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4


何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。マタイ7:12


わたしはわたしを強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです。ピリピ4:13


互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。ヨハネ13:34


平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。マタイ5:9


愛は結びの帯として完全なものです。コロサイ3:14


人がその友のために命を捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていません。ヨハネ15:13


自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。マタイ5:44


恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。イザヤ41:10

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祈り
わたしが、これらのみ言葉を大切にできる心を、地に生き続ける間、持ち続けられますように。あなたから与えられ続けますように。そして、広げていくことができますように。

「目指すべき人物像」 ルカによる福音書6章35節から38節

「目指す人物像」

ルカによる福音書6章35節から38節

 

6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

6:38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。

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こんにちは。

今日は、キリスト教が「目指すべき人物像」として掲げているものの一つをご紹介します。今回も、私なりの解釈をお話していこうと思います。

 

「6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。」

 

この部分における、「報い」は、死後の平安のことを指す、と言われているのではないかと思います。しかし私は、その事と同時に、「天の宝(人との暖かい繋がり、心が満たされること)」もまた、「報い」ではないか、と考えています。

また、この時代には、「異教徒は敵」というような発想もありました。ですので、「敵を愛せ」は、自分とは人種、文化、信仰、考え方、性別、生き方、の異なる人々に対しても、敬意を持って接せよ、ということではないかと思います。

つまり、自分と意見の合わない人にも、敬意を持って接することで「天の宝」を報いとして得る、という捉え方もできる部分だと思います。

 

「6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。」

 

キリスト教では、聖書の中で「慈悲深い者」となることを奨励しています。

 

最近の出来事で言うと、トランプ次期大統領もキリスト教徒かと思いますが、以下に挙げるミシェル・オバマさん(オバマ大統領夫人)のような演説を、道は異なっても、トランプさんもしてくれることを祈りたいです。何故なら、彼女の演説は「"慈悲深く"、"寛容さ(ゆるし)"を人々に求め、アメリカに住むすべての人々に価値、居場所を"与える"」ような演説であったからです。

ハフィントンポストから、引用します。全米各地の高校で活動するスクールカウンセラーを表彰するスクールカウンセラーズ・オブ・ザ・イヤー」での演説です。

 

・ミシェル・オバマさん ホワイトハウス最後の演説から引用

「ここにいるみんな(スクールカウンセラーの方々)は、そうした子供たちに、自分たちは重要な存在なんだということを教えます。自分たちにも与えられるものがあると伝えます。生まれた場所、親の資力、外見、好きなもの、宗教、家で使う言語に関係なく、彼らはこの国に居場所があるのです。

ホワイトハウスでの生活を終えるにあたって、ファーストレディとして最後の公式の発言ですから、若者たちへ送るメッセージが一番ふさわしいと思っています。ですから、この部屋にいる、またはテレビを見ている若者のみなさん、この国はあなた方のものだということを知ってください。背景や人生の歩みに関係なく、あなた方みなさんのものです。あなたやご両親が移民なら、あなたは誇り高きアメリカの伝統の一部です。新しい文化、才能や発想が代々溶け合って、私たちは地上で最も偉大な国になったのです。

あなたの家族が貧しいとしましょう。覚えていてほしいのですが、この国の多くの人々は、私や夫も含め、何もないところから出発しました。 しかし一生懸命に努力し良い教育を受ければ、すべては可能になります。大統領にだってなれるのです。これこそがアメリカンドリームのすべてではないでしょうか。

あなたは信仰心の厚い人ですか。宗教の多様性もアメリカの素晴らしい伝統です。実際、最初に人々がこの国に来たのは自由に崇拝をするためでした。そして、イスラム教徒、クリスチャン、ユダヤ教徒ヒンズー教徒、シク教徒……あなたの信仰が何であっても、こうした宗教は私たちの若者に正義、思いやり、誠実であることを教えています。若者たちには誇りをもってそうした価値観を学び、実践してほしいと思います。分かりますか、私たちの素晴らしい多様性、つまり宗教、肌の色、信条といった多様性は、私たちを脅かすものではなく、今の私たちを形作るものなのです。そしてここにいる若者たち、そしてその他の若者たちに、「あなたに価値がない」とか「アメリカには居場所がない」と感じさせることがないようにしてください。そんなことは絶対ありません。みなさんには、そのままの自分でいる権利があります。

しかし、はっきりさせておきたいことがあります。この権利はあなたにただ手渡されるものではありません。むしろ、あなたはこの権利を日々獲得していかなければなりません。自由はあって当たり前ではありません。 あなた方の前の世代と同じように、こうした自由を維持し、守るために自分の責任を果たさねばなりません。そしてそれは若い時に、今この時に始まります。

私たちの国際的な対話に加わるために、今、自分自身で準備する必要があります。情報に通じ、国民として奉仕し、先導し、私たちの誇るアメリカの価値観を擁護し、日々の生活の中でそれを尊重する心構えが必要です。そしてそのためには、考え得る限り最高の教育を受け、自分をはっきりと表現できるようにしないといけません。そうすれば良い仕事に就き、自分と家族を養い、地域社会の中で前向きな力となれるでしょう。

そして困難に直面するとき……保証しますが、必ずあります。多くの人はすでに経験済みでしょう。そんな時ももがき苦しみ、あきらめようかと考え始めたら、約10年前、私と夫がこの道を歩き始めた頃に話し合っていたことを覚えていて欲しいのです。ホワイトハウスで、そして生活の中での一瞬一瞬に支えとなっていたもの、それは希望の力です。努力し、闘い続ければ状況は良くなるという可能性を信じることです。

希望の力は、私たちの根幹となる信念です。私たち自身の生活、またこの国の生活の中で直面する疑念や不和、怒りや恐怖の声を克服することができました。 十分に努力し、自分を信じるなら、どんなことであっても自分が夢見るものになれる、という希望があります。他人が私たちに設けた限界には左右されません。そして私たちの本来の姿を確かめようとするとき、もしかすると、なりうる限りの最高の自分に上り詰めようと突き動かされる、という希望があります。

それこそが、カイラのような学生たちの希望です。彼らは自分の才能を発見し、世界にシェアしようと奮闘しています。それが、テリーやこの壇上にいる人たちスクールカウンセラーの希望です。彼らはそのような生徒たちを一歩一歩その道へと導き、若者を誰一人として見限ることなどありません。それは私の世代の、私の父親世代の人々の希望です。父は毎日起きて市の浄水処理場に仕事に行きました。いつか、自分の子供たちが大学へ行き、彼自身が決して得られなかった機会を得られるという希望があったのです。

それは私たちの誰もが……政治家たちも、親も、説教師たちも、私たちすべてが若者たちに与えなければならない希望なのです。希望こそが、この国を日々進歩させるからです。未来への希望と、希望が生み出す懸命な努力によって進歩するのです。

これがファーストレディとして、若者たちへの最後のメッセージです。シンプルでしょう。若者たちには、自分たちが大切な存在で、居場所があることを知ってほしいのです。ですから、怖がらないでください。聞こえますか、若者のみなさん? 恐れないでください。打ち込みましょう。強い意志を持ちましょう。希望にあふれてください。力をつけましょう。良い教育によって力をつけ、外に出て、その教育を、あなたの果てしない希望にふさわしい国を築くのに使いましょう。希望に導かれ、決して恐れないでください。私はみなさんと共にいて応援しています。私は残りの人生、みなさんをサポートするために働くことを、知っておいてください。」

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「若者たちには、自分たちが大切な存在で、居場所があることを知ってほしいのです。ですから、怖がらないでください。聞こえますか、若者のみなさん? 恐れないでください。」

慈悲深い演説だと思います。私は、この演説を聞いて、ミシェル・オバマさんは尊敬すべき女性の一人だと感じました。

そして、今日の聖句にある「慈悲」「ゆるし(寛容)」「与えること」を実践されている方だと感じました。

 

というのも、ミシェル・オバマさんは演説の中でこうおっしゃっています。

宗教は私たちの若者に正義、思いやり、誠実であることを教えています。若者たちには誇りをもってそうした価値観を学び、実践してほしいと思います。分かりますか、私たちの素晴らしい多様性、つまり宗教、肌の色、信条といった多様性は、私たちを脅かすものではなく、今の私たちを形作るものなのです。」

「そしてここにいる若者たち、そしてその他の若者たちに、「あなたに価値がない」とか「アメリカには居場所がない」と感じさせることがないようにしてください。そんなことは絶対ありません。みなさんには、そのままの自分でいる権利があります。」

 

ミシェルさんは、「宗教、肌の色、信条(価値観)の違いによって、人をさばき罪に定める(迫害する)のはやめ、あらゆる違いに「寛容であり」、「価値」「居場所」を与えるべきだ。そのように行動してほしい」と訴えているのだと思います。

 

「6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」

 

ここで挙げられている「人が人を裁き、罪に定め、侮辱し蔑ろにすることをやめて、他者に寛容であれ」という精神を、ミシェルさんはお持ちなのではないでしょうか。

私は、この、ルカ6章37節の「ゆるしてやれ」というみ言葉は、「寛容であれ」という意味でもあると、解釈しています。

 

「6:38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。」

 

「情けは人の為ならず」ということだと思います。聖書では、違う箇所でも似た表現が出てきます。(「それで何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」(マタイの福音書 7章12節))

ミシェルさんは、演説で、「寛容であること(思いやり)」「希望を持つこと」「感謝」などを、「与えて」います。

おそらく、アメリカの若者たち(ミレニアル世代(アメリカ版さとり世代))は、この言葉に、「与え」返すのではないでしょうか。そこに、現代の社会的な情勢不安の中にも一筋の希望を垣間見ることができるのではないでしょうか。

アメリカだけでなく、日本でも、「慈悲」「ゆるし(多様性への寛容)」「与えること(感謝を伝えることや、寄付など)」を大切に想う人が、一人でも多く増え、そのことによって、「心から笑える人が一人でも増えること」を祈ってやみません。

 

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祈り

主よ、今日もあなたが、友人との良い時間を与えてくださったこと、感謝します。心の交流が私を支えている事を、日々感じています。その中で、先日、身近な人とうまくコミュニケーションが取れず、行き違いが起こってしまうことがありました。誤解を解くには至ったのですが、お互いの心に小さな傷を生んでしまいました。どうか、今後私が、悲しみを人の心に置くことがありませんように。悲しみのあるところに喜びを置くことができますように。あなたの御力によって、そう在れますように。今日は何故か、上手く気持ちを文字に起こすことができません。これ以上書く事が難しいです。ですが、私が、私の想いを人に伝えることができ、そのことが誰かの喜びとなりますように。悲しみを与えることは、最小限でありますように。主イエス・キリストの御名によって、この祈り、御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりでありますように)

 

希死念慮持ち、死にたいと思う人、自分の生に執着を持てない人とは

こんにちは。
今日は少し、重い(とされる)テーマについて、当事者である自分のためにも、お話ししたいと思います。この事について話し合う機会は、かつては身近な人とあったのですが、その方もいなくなってしまったため、非常に私見が多いと思いますがご容赦ください。

皆さんは「希死念慮」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。一言で簡単に言ってしまうなら、死にたがりです。もっと詳しく言うなら、死にたい、という思いを基本的にずっと持ち続けている人です。その思いにも波はあるのですが、「死んでも別にいいなー」くらいの時もあれば、「今すぐ死にたい」という時もあります。
しかし、一貫しているのは、今すぐ死んで後悔しますか?と聞かれて、「いや、別に後悔はしないけど、痛いのと、まわりの人が悲しむのは嫌だなぁ」とか、そういう感想が出てくるということだと思います。
つまり、自分の生に基本的に執着がないです。それは、「自分が何をしたところで結局世の中に価値があることなんて何もない」と感じていること。「何をしても、ある人の喜びとなる部分があり、またある人の悲しみとなる部分があるよなと感じ、喋ること動くことに罪悪感をしょっちゅう感じている」ことから生ずるものだと思っています。

希死念慮持ちじゃない人に一つだけお伝えしたいのは、「私たちの意見を受け止めてください」ということです。
社会の中で、「死について語ること」、「死にたいと言うこと(思うことでさえ)」をタブー視する現状は、私たちにとって言葉の手足をもがれたのと同じようなものだと感じています。何を喋る時にも、「社会の常識」とされる、一部の価値観に合わせて話すことに気を配り続けなければいけない。それは「希死念慮持ちでない方が、絶対に失言できない状況にいる時」と似ています。
私たちも、四六時中死にたいと言いたいわけではありません。ですが、ほぼ常にそういう思いを持っている人の存在を認め、「死」について話し合うことをタブーから除いてほしいのです。話し合わないまでも、頭から否定しないでほしいのです。


希死念慮に対して、私は学生時代、吐き出すことで多少の心の安定を保てていました。学生時代は、自分の生き方について問われることは多くはなかったですし、やってみたいことをある程度やれていたからです。
しかし、大学を卒業して、学生時代より遥かに、自分の生き方、行く末、やりたいこと、生きることについて考えさせられることが増えました。
その中で私は、
「身近にいる、私が心から尊敬し好いている人々を悲しませたくないなー」という思いと、
「結局全てのことに意味なんてないのに、無意味に傲慢になる人に虐げられて悲しむ、自分と似た部分を持っている人に寄り添えたらいいな」という思い、
「自然の美しさ(人の暖かさ、音楽の楽しさも含め)に触れられるなら、まあ、生きててもいいか」という思いを持てているから生き続けています。

自分の性質として挙げられるのは、希死念慮と、無闇に強い共感力だと思います。最近は特にそう思うようになりました。
映画の中の物語や震災で苦しむ人々、差別で苦しむ人々のことなどを見聞きすると、心が痛むほど悲しいですし、湧き上がる怒りを感じます。(怒りはさらなる別の怒りを呼ぶことは明白ですし、怒りを感じている状態が好きでないので、すぐに抑えつけますが。)

こんなこと、今の日本社会で言うと、「偽善」とか、「綺麗事」とか、「それの何が役に立つの?」とか、「ご立派だね笑」と思われる、言われることがあります。別に良く思われたいわけじゃないですし、良く思われたいならこんなこと言いません。
そして、言わずに自分の心を抑えつけた結果、希死念慮さんが大活躍する事態まで一時いきました。
実際、今でも現実では、(できたとしても)親友や教会の家族くらいにしか、こういった話はできません。

それでも、現実の知り合いも読んでいるここに、この事を書いたのは、多分、こういう思いを持っているのは私だけじゃないと思う(思いたい)からです。

今、「多様性への寛容」、「自分と異なる他者への想像力」(例えば性的マイノリティ、育った文化・環境の違う人、障害を持つ人、心の病を持つ人などへの想像力)が、あらゆる場面で重要だと考えられ始めています。その中にあって、希死念慮持ちの人も、当然ですがそこに含めてほしいのです。

希死念慮持ちの人は、おそらく
「自分の周りの好きな人々が悲しむのは嫌だな」
「こんなことはやってみたいかな」
「こういうもの(例えば自然の美しさ)に触れられるなら、まあ生きててもいいかな」
「でもまあそういうのなくなったら別に死んでもいーかな」
くらいの感覚で生きています。死に対する感じ方がおそらく社会多数派とはだいぶ違うんだと思います(確かなことはわかりませんが...)。
身近な人が亡くなったとき、確かに、間違いなく悲しいですが、「楽になったんだね」という祝福に近い気持ちも感じます。同時に少し羨ましい気持ちも。
そういった点において、「死」をただ悲しむだけのお葬式より、生きていることを罪と捉え、死ぬことは永遠の安らぎを得ること(だから祝福すべきこと)と捉えるキリスト教に合う部分もあるのかもしれません。この事(「死」)に関して確かに分かることは何もありませんが、私はそう考えています。

そうでない方に理解してほしいとは言いません。しかし、そういった考え方、そういった存在は認めてください。今のように、頭から、聞く耳も持たず否定されるのでは辛すぎます。(もちろん、全ての人がそうではありませんが、多数派の空気としては、そう感じます。)
この記事に共感する人がどれくらいいるのか、そもそもいるのか、分かりませんが、私と私の大切な人と共に、この事をどうか覚えていてくださるよう、心から、お願いいたします。