死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

希死念慮持ち、死にたいと思う人、自分の生に執着を持てない人とは

こんにちは。
今日は少し、重い(とされる)テーマについて、当事者である自分のためにも、お話ししたいと思います。この事について話し合う機会は、かつては身近な人とあったのですが、その方もいなくなってしまったため、非常に私見が多いと思いますがご容赦ください。

皆さんは「希死念慮」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。一言で簡単に言ってしまうなら、死にたがりです。もっと詳しく言うなら、死にたい、という思いを基本的にずっと持ち続けている人です。その思いにも波はあるのですが、「死んでも別にいいなー」くらいの時もあれば、「今すぐ死にたい」という時もあります。
しかし、一貫しているのは、今すぐ死んで後悔しますか?と聞かれて、「いや、別に後悔はしないけど、痛いのと、まわりの人が悲しむのは嫌だなぁ」とか、そういう感想が出てくるということだと思います。
つまり、自分の生に基本的に執着がないです。それは、「自分が何をしたところで結局世の中に価値があることなんて何もない」と感じていること。「何をしても、ある人の喜びとなる部分があり、またある人の悲しみとなる部分があるよなと感じ、喋ること動くことに罪悪感をしょっちゅう感じている」ことから生ずるものだと思っています。

希死念慮持ちじゃない人に一つだけお伝えしたいのは、「私たちの意見を受け止めてください」ということです。
社会の中で、「死について語ること」、「死にたいと言うこと(思うことでさえ)」をタブー視する現状は、私たちにとって言葉の手足をもがれたのと同じようなものだと感じています。何を喋る時にも、「社会の常識」とされる、一部の価値観に合わせて話すことに気を配り続けなければいけない。それは「希死念慮持ちでない方が、絶対に失言できない状況にいる時」と似ています。
私たちも、四六時中死にたいと言いたいわけではありません。ですが、ほぼ常にそういう思いを持っている人の存在を認め、「死」について話し合うことをタブーから除いてほしいのです。話し合わないまでも、頭から否定しないでほしいのです。


希死念慮に対して、私は学生時代、吐き出すことで多少の心の安定を保てていました。学生時代は、自分の生き方について問われることは多くはなかったですし、やってみたいことをある程度やれていたからです。
しかし、大学を卒業して、学生時代より遥かに、自分の生き方、行く末、やりたいこと、生きることについて考えさせられることが増えました。
その中で私は、
「身近にいる、私が心から尊敬し好いている人々を悲しませたくないなー」という思いと、
「結局全てのことに意味なんてないのに、無意味に傲慢になる人に虐げられて悲しむ、自分と似た部分を持っている人に寄り添えたらいいな」という思い、
「自然の美しさ(人の暖かさ、音楽の楽しさも含め)に触れられるなら、まあ、生きててもいいか」という思いを持てているから生き続けています。

自分の性質として挙げられるのは、希死念慮と、無闇に強い共感力だと思います。最近は特にそう思うようになりました。
映画の中の物語や震災で苦しむ人々、差別で苦しむ人々のことなどを見聞きすると、心が痛むほど悲しいですし、湧き上がる怒りを感じます。(怒りはさらなる別の怒りを呼ぶことは明白ですし、怒りを感じている状態が好きでないので、すぐに抑えつけますが。)

こんなこと、今の日本社会で言うと、「偽善」とか、「綺麗事」とか、「それの何が役に立つの?」とか、「ご立派だね笑」と思われる、言われることがあります。別に良く思われたいわけじゃないですし、良く思われたいならこんなこと言いません。
そして、言わずに自分の心を抑えつけた結果、希死念慮さんが大活躍する事態まで一時いきました。
実際、今でも現実では、(できたとしても)親友や教会の家族くらいにしか、こういった話はできません。

それでも、現実の知り合いも読んでいるここに、この事を書いたのは、多分、こういう思いを持っているのは私だけじゃないと思う(思いたい)からです。

今、「多様性への寛容」、「自分と異なる他者への想像力」(例えば性的マイノリティ、育った文化・環境の違う人、障害を持つ人、心の病を持つ人などへの想像力)が、あらゆる場面で重要だと考えられ始めています。その中にあって、希死念慮持ちの人も、当然ですがそこに含めてほしいのです。

希死念慮持ちの人は、おそらく
「自分の周りの好きな人々が悲しむのは嫌だな」
「こんなことはやってみたいかな」
「こういうもの(例えば自然の美しさ)に触れられるなら、まあ生きててもいいかな」
「でもまあそういうのなくなったら別に死んでもいーかな」
くらいの感覚で生きています。死に対する感じ方がおそらく社会多数派とはだいぶ違うんだと思います(確かなことはわかりませんが...)。
身近な人が亡くなったとき、確かに、間違いなく悲しいですが、「楽になったんだね」という祝福に近い気持ちも感じます。同時に少し羨ましい気持ちも。
そういった点において、「死」をただ悲しむだけのお葬式より、生きていることを罪と捉え、死ぬことは永遠の安らぎを得ること(だから祝福すべきこと)と捉えるキリスト教に合う部分もあるのかもしれません。この事(「死」)に関して確かに分かることは何もありませんが、私はそう考えています。

そうでない方に理解してほしいとは言いません。しかし、そういった考え方、そういった存在は認めてください。今のように、頭から、聞く耳も持たず否定されるのでは辛すぎます。(もちろん、全ての人がそうではありませんが、多数派の空気としては、そう感じます。)
この記事に共感する人がどれくらいいるのか、そもそもいるのか、分かりませんが、私と私の大切な人と共に、この事をどうか覚えていてくださるよう、心から、お願いいたします。