死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

「Life walk~いのちを想う宗教者の行進~」@京都に参加して / これからの目標、今の手段

3月1日、「京都いのちの日」に、Life walk~いのちを想う宗教者の行進~に参加してきました。

 

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どういった活動か、と言いますと、上の画像に書いてあるように

自死・自殺の問題に対して関心をもち、苦悩を抱える方に寄り添う気持ちを育むことを目的とした、」広報活動です。

 

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最近は、うつ等の心の苦しみ、自殺に関する関心も以前よりは高まってきました。

しかし、依然として「自死・自殺」に関する話題はタブー視されがちです。

私はそれは、昔の人が差別・偏見の根拠としていた「穢れ」の思想と同じではないかと思います。

らい病やハンセン病などの病気は、「穢れ」や「神の罰」などではなく、「病気」でした。

であれば、本人に100%の責があるわけではないことはこの科学全盛の時代にあって自明だと思います。(もし本人の責が少しでもあれば、その人自身が悪い、ということになるならば、健康的でない生活を一瞬でもして病気になった人も、その人自身がすべて悪いとなってしまいはしませんでしょうか。)

心の病が「穢れ」でなく病気であれば、何故自身や身近な人の心の病をきっかけとして「死について考えること」をタブー視するのでしょうか。

人は100%死にます。

そのことを踏まえて、死ぬことについてみんなで考え、どう死ぬか(どう生きるか)について語り合うこと、それは、生きる人すべてに大切なことなのではないでしょうか。

 

精神的苦しみは、死に直結します。

それが、病いでなくてなんでしょう。

気の持ちよう、気のせい、根性がない、と仰ること、それは「足の骨が折れている人に”自力で歩け!”と言っていることとなんらの変わりはないと思うのです。

 

自分に厳しくして、人に厳しくして、何になりましょう。

 

 

みなさんは暇つぶしをするとき何をしますか?

人を貶しますか?

自分を虐めますか?

喧嘩をしますか?

差別・偏見を持って人に接しますか?

 

生きることもひとつの暇つぶしだと思うのです。

死を前にして、誰かと争いたいと思われますか?

そうでなくても世の中には悲しいことつらいことがたくさんあります。

それを増やして何になりましょう。

 

悲しいのは、つらいのは、大切なひとが死んだときだけで十分だと、感じるのです。

 

僕は、生きる上で、希死念慮持ちのひとりとして、うつ等の精神的しんどさを抱える人や自死・自殺問題に関わっていきたいと考えています。

世間一般とされる価値観が合わない人びと(自分含む)やしんどさを抱える人びとが、自分の思いを素直に吐き出すことができ、否定・偏見・差別なく相互の想いを受け止めることのできる人が集うコミュニティをまもりたい(できれば増やしたい、繋げたい)と思っています。

そのために何ができるのか。

・コミュニティの管理人(今目指しているものは牧師)を目指すこと

・共同体として機能しているコミュニティを見つけるため、否定・偏見・差別に意識を向けているコミュニティを探すこと(ネットコミュニティ含む)、そしてできれば繋げること

・昔から死生について考える役割を担ってきた宗教の、様々な宗教の垣根を越えて、死ぬことと生きることについて考えることのできる場に参加すること(そのことによって、それぞれの多様な価値観を知り、お互いの内面について語り合い、お互いによりよく生きるために考え、理解し合うこと)[Life walkはこのひとつでした。]

・精神的なしんどさを抱える人が集う場所へ、当事者として、また関わって生きたいひとりとして参加し、ひとつひとつの悲しみを知り、ひとつひとつに寄り添う努力をすること

・多様性をより知るために、様々な国から来ている人々と交流する場に出ること

(・他国で、自分がより社会の少数派とされる環境で過ごしてみること)

 

そして、上記の目標へ向かう今の手段は

・神学館で学ぶこと

・死ぬこと生きることについて考える集まり、自死遺族会、国際交流サークルなどを探し参加していくこと

・価値観の押し付けを行う人とは距離を置くこと、

・自分の心、自分のしんどさを受け止めること 。ぼちぼち諦めつつ、休みつつ、やりたいと思うことがなくならないようにゆっくり、生きるという暇つぶしをすること。

 

これまで述べてきたことは、自分の力だけでどうにかなることではありません。

私の力ではむりです。

だから、祈ります。

 

P.S.

青いブレスレット運動という活動に参加しています。


青いブレスレット運動



あるサイトの呼びかけ文を
一部引用させてもらっています


青いブレスレット運動は
今、自分自身が自傷してる人
または自傷に関係のある人
(友達、恋人、家族…など大切な人が自傷している)
過去に自傷経験があった人

上記にあてはまる人
あてはまらなくても
共感してくださる人は
左手に青いブレスレットを
つけて下さいと言う運動です

ミサンガでもブレスレットでも
時計でもヘヤゴムでも
青系なら何でもOKなんだそうです


青いブレスレットの意味は
『一人じゃない』

同じブレスレットを付け
自分と闘う人や
そんな人を理解をしてくれる人
応援してくれる味方がいる

だから『一人じゃない』よと

そんな運動です。



もし参加していただけるのなら
左手に一緒に青いブレスレットを
つけていただけませんか?

それだけでいいんです


闘う人たちをどうか突き放さず
静かに見守っていてあげて下さい


そしてこの運動も
広めて下さると嬉しいです

 

青いブレスレット運動

P_20170402_163457_vHDR_On_1.jpg を表示しています

このブレスレットは組み紐で作ったものですが、紐がめちゃくちゃ余っているので、欲しい方がいらっしゃったらご連絡くださいませ。作りますので。

 

祈り 祈祷書から 

すべての国の人びとに/互いに尊敬する心を与え、ともにすべての人の幸いを求めさせてください/

悩む人、悲しむ人、病気の人、貧しい人、その他災いの中にある人びとを顧み、/導いてください

(祈祷書p1688 聖餐式 代祷から)

主よ、主よ、主よ。