"生きることの罪とは"(生きることの意味とは) ローマの信徒への手紙1章28節から31節
"生きることの罪とは"(生きることの意味とは)
ローマの信徒への手紙1章28節から31節
1:28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
1:29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1:30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
1:32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
2:4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
2:10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。
2:11神にはえこひいきなどはないからです。
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こんにちは。
今回は、キリスト教における"罪"の考えについて少しお話したいと思います。
罪、と聞くと、あなたは何を思い浮かべるでしょうか?
盗みや殺人など、刑法の罪を思い浮かべるのではないでしょうか。
わたしもそうでした。ですから、キリスト教でよく使われる"罪人"とはいったい何のことなのか、と思っていました。
今回の聖書箇所、ローマの信徒への手紙1章28節から31節は、"キリスト教における罪"の概念に、ひとつの答えを示唆してくれるのではないかと思います。
ここでは、下記のような人が、"罪人"とされています。
1、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、
2、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、
3、陰口を言う者、(本人の目の前で言えないことを陰で言う人)
4、そしる者、(他者の思いや行いを批判ではなく非難する人)
5、神を憎む者、(平和を望まぬ人)
6、人を人と思わぬ者、(人を自分の道具や所有物などとして扱う人)
7、高ぶる者、(自分が最も優れていると勘違いする人)
8、大言壮語する者、(言葉の持つ力を考えず、柔和と謙遜を持たず発言する人)
9、悪事をたくらむ者、
10、親に逆らう者、(自分にとって大切な人を悲しませてしまう人(親は喩えだと思います))
11、わきまえのない者、(傲慢になり、客観的に他者の気持ちを鑑みることができない人)
12、約束を破る者、
13、情け知らずの者、(他者の心に寄り添えない人、自分の利益の為に他者を傷つける人)
14、慈愛のない者(自分を大切にし、またそのように他者に接することのできない人)
これらを見て、わたしは「ああ、全ての人が罪人といわれていることも理解できた。」と感じました。
上記のような人々が”罪"に定められているのです。短く言うなら、平和(全員が和すること)に逆らう、思い、言葉、行動を行った者が罪人なのです。
その考えでいくと、私に罪はない、と言える人はいないのではないでしょうか。
陰口を言ってしまうこと、傲慢になってしまうこと、他者の心を傷つけてしまうこと、どれも生きていく中で、意識するとしないとに関わらず、避けられないことだと思います。
また、最も罪深い人は、それを行なう人に同意することだと私は思います。
「1:32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」
社会構造によって経済的に困窮している人、心無い言動や社会的慣習によって精神的な苦しみを抱いている人、長時間労働などによって身体的に傷つけられている人が存在していることは、ほぼあらゆる人に周知されている事実だと思います。
しかし、それに気付いていながら、「しょうがないことだよね」「根性ないな」「逃げればいいのに」「自分もされたからお前も苦しめ」などと、見て見ぬふりをすることは、心から、ではなくとも、「それを行なう者に同意している」ことになると思います。
現代は、あらゆる人が発信者となれる時代です。最も簡単に声を上げる方法は、SNSなどで"人を人と思わぬ行動や、心から笑える人が減ること"に反対の声を挙げることではないでしょうか。
平和(すべての人が心から笑える状態)を求める行動を行う人は、罪人から最も遠い人となることができると思います。
また、"罪人"についてお話してきましたが、自分が罪人だからもうどうすることもできない、ということではないと思います。世の人が皆、罪を背負っているのであれば、あなただけがどうこうという話ではありません。
誰だって、心から笑える環境の中で、お互いに尊厳を持って理解し合い、仲良く暮らしたいのではないでしょうか。
ローマの信徒への手紙2章10節、11節にあるように、平和が善を行なうすべての者の上にあるのなら、平和(すべての人が心から笑える状態)を求める行動を行っていくと良いのではないでしょうか。
「2:10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。
2:11神にはえこひいきなどはないからです。」
また現代においても、長時間労働、個々人の考え方の否定(多様性の排除)、移民問題での対応などを見るにつけ、人を人と思わぬ者が多くいる時代だと感じます。
その中にあって、自分と、自分の周りにいる大切な人々、またその人々に繋がる人々ひとりひとりに、「あなたの存在には価値がある」「あなたが、わたしにしてくれたことの故にではなく、暖かく心を交わした故に、あなたの存在に心から感謝している。」と伝え、また「あなたがわたしを生かし、またわたしがあなたを生かしている」と思うことのできる関係を増やしていくことこそ、生きる意味ではないのか、と思っています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4」
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。ヨハネ13:34」
祈り
主よ、悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。わたしには何の力もありませんから、あなたの御力によって、人を悲しませることは出来るだけ最小限に、人の心に寄り添うことができますよう、切にお祈りいたします。また、私の大切な人たち、その人に連なる人たち、ひいてはすべての人々のそばに、あなたが居て、少しでも安らぎを与えてくださいますように。この祈りを主イエスの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりになりますように)。