死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

自分が生きやすくなるためのコミュニティとはなにか。

"共有"

使徒行伝 4章32節

4:32 信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。

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こんにちは。

今日は、これからの生き方の選択肢のひとつとして注目されている、3つ目のコミュニティを作ることについて、書きたいと思います。

 

motemoteninaru.hatenablog.com

 

私は、”コミュニティ”は、思い、モノ、言葉を「共有」する集団だと思います。日本語で言うなら「共同体」。

 

なぜ現代において、家庭、仕事以外の3つ目のコミュニティが注目されているのでしょうか。

僕はこれまでの、閉じたコミュニティで死ぬまで暮らす時代が終わりかけているのではないかと思います。これまでは、コミュニティが家庭、仕事といった単位で、ある程度閉じていたため、そのコミュニティ内で問題が起こった時に重症化しやすいという問題を、これまで多くの人が見てきました。

問題が起こった時には、「感情的にならず」「お互いの意見を否定せず」話し合うことが大切です。しかし、閉じたコミュニティ内だと、お互いの心理的距離が近すぎて話し合いの場が成立しない状況が多々あります。

その時に、多様な価値観、考え方の人々と日常的に親しく交わっていれば、広い視野が育まれると共に、話し合いの場をつくる際の協力者となってくれるかもしれません。そこまででなくとも、親身に相談に乗ってくれると思います。

閉じたコミュニティ最大の問題点は、「思いを吐き出すことさえできない」ところだと思います。そういう時に吐き出し、受け止めてくれる場があれば、心理的負担はかなり減るのではないでしょうか。

 

僕の場合は、多様な価値観を認めることのできる能力を持った人々に出会い、共に生きていくために、コミュニティ探しをしています。

現在は、twitterやブログ、これまでの友人・恩師の先生、教会、UM(union of minimalist)などの繋がりがあります。

これから時間をかけて、深い繋がりを持てるように生きていきたいですし、さらに繋がりを増やしていきたいとも思っています。

自分にとって信頼できる人がいてくれるコミュニティを増やすことは、生きていく中で、つらいことやしんどいことがあった時に生きる糧となります。つらいことやしんどいことが全くない人生を歩む方は、ほとんどいないと思います。

そういった観点から、複数の(信頼の置ける)コミュニティを探すこと、持つことは大切だと思います。

 

また、その中にあって、つらさやしんどさが上限を超えていて、吐き出す場があっても吐き出すことさえできないときに、祈るという行為があるのだと思います。

 

複数のコミュニティは、話し合うべき時には話し合いながら、平和に暮らしていくために、とても重要です。

同じように、自分の思いや願いを超えて、悩み・苦しみ・悲しみに苛まれるときに、祈りの場を持つということは、ひとつの救いとして機能するのではないでしょうか。

どちらも大切に、過ごしていきたいと思っています。

 

 

祈り

主よ、あなたがともに居て、私を支えてください。闇の中、あなたが光でいてください。アーメン(そのようでありますように)

”人それぞれに生き方がある。” コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章6節、7節

”人それぞれに生き方がある。”
コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章6節、7節
 (使徒パウロと兄弟ソステネからコリントの信徒へ宛てた手紙)

7:6以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。
7:7わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。 (別訳:人それぞれに生き方があります。)
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こんにちは。
今日は、「共通道徳」という概念について書きたいと思います。

一言で言うと、ある特定の地域の人々が、大まかに共通して持っている道徳観の事です。
この「共通道徳」があると、道徳観について、ある程度一定の理解を持って話し合うことができます。また、共通道徳は、教典や礼拝などの文化の中で育まれるものが多いので、共通の話題としても機能します。
「共通道徳」は、それぞれの文化圏の宗教によって育まれるものと言い換えることもできると思います。

もちろん、同じ「共通道徳」のコミュニティ内にも様々な考え方の人がいますが、極端に言ってしまうと、「共通道徳」があれば、目の前の人がなんの行動原則で動いているか、推し量りやすいということです。

日本では、その「共通道徳」が、斉藤学さんの言をお借りすると、"世間様”だったのだと思います。
「周りから奇異の目で見られることをするな」
「周りからはみ出さず”普通”でいろ」
「周りと違う行動する奴は理解できない」
「周りと合わせてさえいれば、安定安心だ。だからはみ出す奴らは無視、排斥してもよい」
こういった考え方が、かつては、あったのだと思います。


何故、「かつて」なのかと言いますと、最近はそうでない方々が増えてきていると感じるからです。
やはり年齢が高い方に、かつての価値観を保守している方が多いですが、僕の周りの人々でも、UM(Union of Minimalist)やブログで出会った人びとは、多様性を寛容に受け止める能力に長けていらっしゃいます。
それは、裏を返せば、ひとりひとりが自分の心からの価値観と選択を大切にしたいと思っており、相手の心を尊重することが当然だと思えているからではないでしょうか。

これまでに、なんらかの画一的な生き方を押し付けてきていた人は、”周り(世間様)”が正しいと言ってきた通りに生きてきた結果、自分の生き方に納得、満足できず、他者をも同じ道に押し込めることで、自己を正当化したかったのではないでしょうか。
僕は、"世間様”教は大多数を不幸にする宗教だと思います。

”周り”ばかりを見ることは止めて、今こそ自分の内面、心から思うことは何か、を聞いてみてはいかがでしょうか。

今、アメリカでは、下記のツイートのように「トランプがイスラム教徒締め出しを行うなら、キリスト教徒であっても、イスラム教徒として登録して反対を表明するべきではないか」という議論があるそうです。映画「沈黙ーサイレンス」の、教理か、愛する人を助くか、というテーマと似たものを感じます。僕はまごうことなく後者だと思っています。

https://twitter.com/ChristianPost/status/824767655907360768

また、その州の宗教的指導者が、性的マイノリティを認めないが為に、悩んで自殺した17歳のリーラーさんという女性がいます。
「教理」が、「愛する人を大切にする」ことよりも大切だとは思えません。

http://www.christiantoday.co.jp/articles/14998/20150107/transgender-teenageer-suicide.htm

日本には、幸か不幸か、強力な共通道徳はまだありません。
あなたも今、これから先1年でも2年でも、10年でも生きるつもりなら、自分が本当に何がしたいか、自分の内面を見つめてみるのもよいのではないでしょうか。


祈り
主よ、アメリカでもイギリスでも日本でも、不寛容の発露が見られるようです。今もまた、マザーテレサジョージ・ブッシュ元大統領とサダム・フセイン元大統領に送った手紙を覚えます。。「わたくしは目に涙をため、心に神の愛を持って、貧しい人、および皆が恐れている戦争がいったん起こったならば貧しくなる人びとのために、懇願いたします。(中略)神はわたくしたちが憎悪によって破壊されるためではなく、神の愛によって愛されるために生まれました。(中略)どうぞ平和の道を選択してください。」(「マザーテレサ 来て、私の光になりなさい」p514-516より引用)。
どうぞ、憎み合うのではなく、平和の道をお示し続けください。悲しみのあるところに喜びを、闇のあるところにあなたの光を置いてください。主の御名によって、マザーとともに懇願いたします。アーメン(そのようでありますように)。

"あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 "ローマの信徒への手紙12章6節から18節

"あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 "

ローマの信徒への手紙12章6節から18節

12:6このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、

12:7奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、

12:8勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。

12:9愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、

12:10兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。

12:11熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、

12:12望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。

12:13貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。

12:14あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。

12:15喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

12:16互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

12:17だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。

12:18あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

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こんにちは。

今日は少し長く引用しました。

今回は、多様性への寛容という事をテーマに、これからの労働と、これからの住み方、暮らし方の変化について、述べたいと思います。

 

・多様性への寛容

「多様性への寛容」とは、自分以外の人間に対して、外見と内面に「自分と異なるところがあって当然だ」と理解して、自分と相手の考え双方を尊重する姿勢、だと言えると思います。

 

今日引用した聖書箇所にこのような記述がありました。

「12:6わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている」

「12:16互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。 」

これらはつまり、それぞれが外面と内面によって違いを持っていることを知り、どちらが優位だとかで争うのではなく、お互いの意思を尊重し合い、現代の社会にあって社会的弱者とされる人と交わりなさい。という事だと僕は思います。

 

いつか死ぬ人間という生き物に、地位や名誉、お金がどれほどの価値があるものなのか、僕にはわかりません。今の社会で最低限生きるために必要な分は手に入れなければなりませんが、それ以上必要なのでしょうか。

僕は、UM(Union of Minimalist)というコミュニティに参加しており、ミニマリストという生き方に興味を抱いています。宗教と同じで、所属している人々の中にも様々な捉え方があると思いますが、僕は「ミニマリスト」を「自分が応援したい、取り組みたいと思える事や人にお金を使う為に、モノや支出を抑える姿勢」だと解釈しています。

www.suitablism.com

僕は、自分自身にとって大切でないモノを減らすこと、買わないことや、支出を抑えた分のお金を、

「ふとんで年越しプロジェクト」

ふとんで年越しプロジェクト2016 ~誰もが暖かく年を越せるように - クラウドファンディングのMotionGallery

「通っている教会への献金(被災者支援や炊き出し等に使われます)」

「自分が応援したい音楽アーティストのCD代」

www.facebook.com

「ひきこもり新聞を買うこと(応援したい活動への投資)」

ひきこもり新聞について | ひきこもり新聞

などに使っています。微々たるものですが、100できないから1しないよりは、1でも自分にとってできることをした方がいいのだと思っています。

先日は、どうせ人と外食する時はいろいろなものを食べるのだし、食事は一汁一菜で十分なのではないかと思い、お茶漬けとみそ汁だけのごはんを作ったりしましたが、問題ない満足度でした。また、一人暮らしに戻ったら、いろいろな野菜を使ったり、味噌を作ったりしてみたいなと考えています。笑

自分がお金を使った時、そのお金が、どのようにめぐり巡っていくか、を考えることが大切なことだと感じています。ワタミ電通などに使うことは、それぞれの企業の存続を応援することになります。もちろん、お金がどのように巡り巡るか、全てはわかりません。でも、ある程度はわかるはずです。どうせ自分の時間とお金と思いを消費するなら、「自分が応援したいと思えるもの」に投資するのはいかがでしょうか。

各々個人の「自分が応援したいもの」には、多様性があると思います。でもそれはどれも、悪いものではないと思います。あなたが、応援したいと思うものを、少しずつでも応援することで、多様性に寛容な社会の実現にもつながるのではないでしょうか。

 

・過労の問題

www.outward-matrix.com

 

 

過労について、上記の記事を読みました。

確かに、「過労」それだけが人を自殺に追い込むものではないと、僕も思います。

私は、人の心の寿命を縮めるものは、「相手の心を理解しようとしない姿勢」だと思います。

「自分の立場が上だと考えて、相手に対して何を言ってよいと思っている人」

「相手を慰めているつもりでも、慰めている自分を免罪符にしたいだけであり、相手に全く寄り添えてない人」

「干渉しないことで、自分に責はないと思っている人」

など。

それらの「社会の態度」全てが、人の心の寿命を縮めるのだと思います。

 

「12:10兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。 」

「12:15喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 」

どうせ生きるなら、つらくて悲しいのは、大切なひとが亡くなる時くらいで十分じゃないでしょうか。

経済成長、お金を集めること、家・結婚・子供などの”形”によって幸せを達成しようと苦心することより、それぞれの人々、ひとりひとりが楽しく幸せに暮らすことを目指すことには、メリットが溢れていると思います。

幸せは、”形”によって実現されるのではありません。自分の心を大切にし、目の前にいる人の心を大切にすることで、生み出されるものだと思います。

 

・住み方、暮らし方の変化

glocal lifeさんが以下のようなことをツイートされていました。

 

同感。今の日本で、家やマンションを買おうとしている人は、金融リテラシーが低いと言わざるえない。人口が減少して、経済成長も期待できなくて、空き家が増えていく日本で、不動産を買い込むなんて「ババ抜き」と同じで最後まで「ババ(不動産)」を持ってる人が損をする。早めに一抜けた方が絶対得だ https://t.co/YW70x6EGYz

— Glocal Life (@glocal_life) 2017年1月26日

 http://www.outward-matrix.com/entry/2016/10/08/113552

 

僕も全く同感で、昔、「家を買っておかないと年とってから家を借りることは難しい」「家は資産になるからローンしてでも買っておけ」というニュースのコメンテイターを見て、何を言っているんだろうと思ったことがありました。

これからほぼ確実に、保証人のいないお年寄りの数は増大するでしょう。人口も減るでしょう。シェアハウスも増えるでしょう。その中にあって。上記のコメンテイターの指摘は、どこを向いているのかよくわかりません。

また、お年寄りだけでなく、若い人々も、シェアハウスなどで共に暮らすことや、様々なコミュニティに所属することが増えていくとおもいます。僕で言えば、UM繋がり、教会繋がり、ゲストハウス繋がり、ブログ繋がりなどです。

その中にあって、互いの考えの多様性を尊重し合い、話し合うべき時は話し合い、楽しく協力して生きていくことが、どんどんと大切な能力となっていくのではないでしょうか。

greenz.jp

 

12:13貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。

12:15喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

12:16互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

12:18あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

 

12:13では、聖徒、と書かれていますが、12:18では、すべての人と書かれています。宗教や人種や文化、性別が異なっていても同じ人間です。その中に線を引くことに意味があるとは思えません。

「自分を含めてすべての人と平和に過ごす」、「自分を含めて、すべての人が心から笑って暮らせる」。誰もが描くその思いがキリスト教で「霊」と呼ばれるものかもしれません。なんにせよ、その思いの実現のためには、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き、高ぶった思いを抱かず、互いに平和に過ごすこと」に取り組んでいくことが大切だと思います。

そして、そのことが「多様性への寛容」を達成するひとつの手段だと思います。

言葉にすることの重要性

こんにちは。

先ほど以下の記事を読んで、とても大切なことが書いてあると感じたので、記事を書くことにしました。

 

blog.tinect.jp

 

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

日本には「空気を読む」という文化があります。

その文化には、言わずとも伝わる、という良い面があるのかもしれません。(言わずに伝わった場合には)

「空気を読む」に追随して、「背中を見て学べ」「行動を見てわかれ」という文化もあると思います。

 

しかし私は、これまでの人生の中で、言葉にしなかったから敵意が生まれ、状況を悪化させた例を幾度も見てきました。

良かれと思ってやったことが、事前に伝えていなかった為、反感だけを買うことになり、双方が敵意を抱いた例。

時間を尽くして仕事の分配を決めたが、分配を決める過程が十分に知らされていなかった為に、不満が噴出し、「あれだけ苦労して作ってやったのに」とお互いが敵意を抱く例。

 

「言葉」というものは不完全なものです。

「思い」もまた、思いがけない伝わり方をすることがある、不完全なものです。

ですが、「不完全だから」と言って、察しろ、空気を読め、ではいつまで経っても相互理解は深まらず、私の見てきた例のように、双方が敵意を育んでしまう土壌となりかねません。

 

そして、「言葉」を上手く使って意見の伝達、話し合いを行うためには、

1、否定しないこと

「相手の意見を、相手の意見として受けとめること(自分と異なるからといって、否定しないこと)」

2、場の空気を和やかに保つこと

「感情的にならないこと(怒る、あしらうなどの行為をしないこと)」

3、それぞれの意見を尊重すること

「一人ずつが話し、一人が話している時は、基本的にその人が話し終わるまでその人の意見に耳を傾けること(助けの手を差し伸べるのは良いが、遮って自分の意見を言い出さないこと)」

 

会議の時、子供との話し合いの時、大人同士の問題解決の時、恋愛関係の揉め事の時、どんな時でも、人が2人以上集まれば、この3つが大切になってくるのではないかと思います。

"だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。" コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章6節

"だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。"

コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章6節

4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、私自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。

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こんにちは。

 

今日は、"だれも、一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにしないためです。"という言葉について考えてみたいと思います。

先日、私がフォローさせて頂いているglocal lifeさんが以下のようなことをツイートされていました。

 

 

以前の記事でも書きましたが、私は各々が持っているそれぞれの判断基準が、宗教と呼ばれるに値するものであると思っています。つまり、何に価値を置くか、です。キリスト教徒やイスラム教徒など、自覚的な教徒であっても、個々人で少しずつ"何に価値を置いているか"は異なります。(ゆえに曲解した人々が過激派、などに成り得ます。ザ・バイオハザード ファイナルもそんな映画でした。)

 

以前の記事:

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

 

私も、世間様教の盲目的な(無自覚的な)信者からの意見に反発を覚えたことがあります。下記はその時のツイートです。

「他人の幸せを願いたい的な話してると、いやでもお前自分の幸せのために他人犠牲にしてるじゃん的な批判を受けるときがあるけど、自分の幸せも大切なわけであって。漸進的にしか進まないにしろ、100できないから1やらない理由にはならないでしょ、と思う。 https://t.co/IvXnTuUYzT— 羊 (@Sheltie_s_sheep) 2017年1月24日」

 

でもglocalさんのツイートを見て、これって要は、”世間様”から外れるような変わったことするな、っていう事なのかな、と思いました。

私は、例え”世間様”から外れようが、自分の考えに常に確信を持たずに見直し続け、心から笑える人が一人でも増えるように、思いと言葉と行動によって実行できるよう、生きていきたい、と思っています。しかし、私は神でないので、その中で思いがけず誰かを悲しませることも、残念ながらあると思います。しかしそれでも、100できないから1やらない人間にはなりたくないなと思っています。

怒りを行動原理に置かず、人々ひとりひとりが、小さな慈しみを重ねていけば、より良い社会に繋がると、信じたいと思っています。

 

行動原理を怒りに置く例:

www.huffingtonpost.jp

 

www.huffingtonpost.jp

 

「宗教が争いを起こすくらいなら宗教など無い方が良い」

と仰る方がいます。確かに、宗教が争いを起こす"だけ"のものであればその通りだと思います。

しかし現実は、自覚的な宗教者が少ない日本においても、他国と同じかそれ以上に深刻な争いも起こっていると思います。私は、日本において最も大きな課題は、「多様性への不寛容」であると思っています。

"世間様"、"普通"、”社会の常識(とされているもの)"から外れてる人々は蔑んで問題ない、(と本気で思っている方は少数派だと信じたいですが)、それら"世間様"の価値観にあまり深く考えることもなく迎合している人が多いのもまた事実なのではないかと思います。

日本社会では、「”世間様”は絶対に正しい」と、あの手この手の表現で発言・表明している方が多いと感じています。

「そんなの社会人としてダメだよ」

「常識ないね」

「君は普通じゃないんだね」

「言ってることはわかるけど、現実的じゃないよ」

「そんなの通用しないよ」

with軽蔑の目つき。

 

これら全て”世間様”からの「お前の心を滅ぼせ」という有難いご神託だと思います。(これらを言っている方々にはそのつもりはなく、善意から、なのかもしれませんが、自分の言葉がどういった形で波及するかまで考えられないようでは、人と心からの暖かい繋がりを作っていくことが難しいと思います。)

これら”世間様”の言葉に捕られ、呪われ続けた結果として人は、「心の寿命」を迎えるのだと思います。

先日読んだ、「うつヌケ」というマンガにこのような表現がありました。

 

 

この表現はとても腑に落ちました。

うつは、心の風邪、とか言いますが、正しい表現は、「心のガン」なのだと思います。

 

少し不思議なようでいて、当たり前のことかもしれませんが、私の見た中では、キリスト教側、仏教側双方から、「自殺は社会の罪」である、と言われています。下記のサイトと本にその記述を認めることができます。

 

キリスト教側から(webサイト)

下世話なQ&A「キリスト教では自殺は罪なんですよね?」

仏教側から(本)

「なくしたものと繋がる生き方」尾角光美さん

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私も、自殺は「社会の罪」であり、本人や遺族が責を負うべきではなく、「多様性への寛容」「身近な人の心を大切にすること」について社会全体で考えるべきことを、「一人の人が、命を投げ出して訴えてくれた」のだと思います。

 

心のガンを予防する方法として「多様性への寛容」という”優しさ、理解力”を身に着けていく必要があり、心から笑える人を増やすために、お互いの考え方、在り方を大切にして尊重し合うことが必要なのだと考えています。

つまり、心から笑える人が一人でも二人でも増える道へ進むためには、”一人を持ちあげてほかの一人をないがしろにし”てはいけない。

あなた自身含め、ひとりひとりに対して「感謝」と、自分が絶対に正しいなんてことは絶対にあり得ないという「謙遜」を持って、生きていくこと。その生き方自体が、喜びを生み出し、満足して生きて、死ねる流れなんではないかな、と思います。

 

 

 

祈り

主よ、あなたの御力によって私を、慰めるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛することを求める者としてください。つまづくことが多い私ですが、あなたの優しさとみ言葉によって、立たせ、また共に居て、安らぎをお与えください。また今も悩み苦しみ悲しみの中にいる人が大勢います。その方々、ひとりひとりの上に、あなたからの恵みと慈しみがあり、あなたが共にいて、安らぎを与えてください。

死ぬことと生きることとはなんでしょう。何を遺していけるでしょう。わかりません。それでも喜ぶ人が一人でも二人でも増えるために、100の行動ができなくとも、1の思いだけでも実行できますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン(そのとおりでありますように)。

 

 

 

音楽指導の技術・宗教音楽は何故完成度が高まりやすいか

"同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。"
コリントの信徒への手紙1章10節

1:10さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。
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こんにちは。
今回は、音楽について書きたいと思います。

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・音楽指導の技術


突然ですが、皆さんは音楽は何によって完成度を高められると思いますか?

音楽は、「テンポ、強弱、正確さなどの演奏技術」、「メンバー相互の信頼」によって質を高められる、と考えられる方が多いのではないでしょうか。

しかし、練習する中で、「心を込めて」「感情表現豊かに」と言うだけの抽象的な指導をされて困った経験のある方もいるのではないでしょうか。

私ももちろん、演奏技術、信頼はとても大切だと思います。また、抽象的指導も大切だと思いますが、抽象的指導だけを行うことには、疑問を持っています。

演奏の質を高めるために、また、抽象的指導に終始しないために、私は、「ビジョンの確立、共有」が大切だと思います。
「ビジョン」とは、情景、感情、物語などのものです。
例えば、クラシックの曲では、「この曲は作曲者が、身分違いの女性への恋慕を描いたものである」という感情や「飢えた鹿が森の中で泉を探すような、人の心の渇きを表現したものである」という物語などです。
ポップスであれば、純粋に「楽しさ」を表したもの、「離別の哀しみ」を表したもの、「心の衝動」を表したものなど様々あると思います。
上記が「ビジョンの確立」です。

次の「ビジョンの共有」は、演奏者の中でその曲への思いを共有するということです。この際、「感情」や「物語」を、「演奏の際にどのように表現するか」という"ビジョンから演奏表現への翻訳"が必要になってきます。この行為を行わない場合、抽象的な指導に終始することになると思います。具体的には、「物語」に合わせてメインフレーズを目立たせることであったり、「感情」に合わせて、サビに向かってクレッシェンド、デクレッシェンド、リタルダンドスフォルツァンドなどを配置し、さらにその情報をメンバーで「共有」すること、などです。(もちろん、楽譜の指示を尊重した上で、上記の演奏表現を考え、自由に配置し、メンバーと共有していきます。)
「感情表現」「心がこもった演奏」というものは、決して全部が言語化不可能なものではなく、ある程度までは具体的指導に置き換えられるものだと思います。ですので、演奏技術の高い人ほど、自分の演奏を客観的に分析して、他者に「こういった演奏表現もあるよ」と押しつけせずに伝えることで「楽譜通りでない、その人らしい演奏」を手助けすることができるのではないでしょうか。


上記を踏まえて、音楽練習のステップは、下記のように表せると思います。

・音楽練習のステップ
①楽器の演奏技術をだいたい身につける
②だいたい楽譜通り演奏できるようにする
③(合奏の場合)メンバーと合わせてそこそこ楽譜通りに弾けるようにする
④「ビジョン」の確立、共有をする。(確立は基本的に一人が行う方が一貫性を持たせる意味で良いと思います。メンバーからの意見を活かすこともとても大事ですが、全員の意見が揃うことは珍しいので...)
⑤「ビジョン」の表現のために「ビジョンを実現する為の具体的な演奏表現の設定」を行う。
(複数人が合奏する場合、特に具体的な演奏表現の指導が重要です。というのも、指導者が「心を込めて」「感情豊かに」という抽象的な指導をして、それによってどの程度演奏が改善されるでしょうか。プロともなると違うのかもしれませんが、少なくとも私の見てきた限りでは、「抽象的な指導だけを行うことは、ほとんど演奏の改善に意味をなさない」と思います。)

逆に言えば、具体的な演奏表現指導ができる人が指導をし、「ビジョンの共有」ができている団体は、多少演奏技術に難があっても「良い演奏」をすることができるのではないか、と私は感じています。


・宗教音楽は何故完成度が高まりやすいか

記事タイトルにした"宗教音楽が何故完成度が高まりやすいか"ですが、この答えは、
「ビジョンの共有が既に行われている」
これに尽きると思います。

讃美歌などは、その名の通り「神を賛美する、神に感謝する」性質のものであり、演奏する人々は基本的に、既にその姿勢を持っています。さらには、同じ教会などのコミュニティに属する人々であれば、それまでの交流から相手の気持ちや考えをある程度理解しており、合奏の際に妨げとなる「メンバーに対する信頼の不足」が少ないです。
単純ですが、「ビジョンの確立、共有」といった視点から見ると、宗教音楽の完成度が高まりやすいのは上記の理由があると考えられます。


音楽には、明確に解明されていることは少なく、経験則からしか語れない部分も多いですが、技術だけではなく「ビジョンの確立と共有」といった視点があるということを知っていただきたいと思ってこの記事を書きました。「抽象的な指導」は、初心者の方に「やっぱり音楽ってわかんないわ」と匙を投げるきっかけになりうる行為だと思います。「抽象的な指導」だけに終始せず、その一歩先まで考える方が一人でも増えると良いと思っています。
音楽は「言語を用いないコミュニケーション」です。「ビジョンの共有」を、言葉を用いて先に行っておくことで、音楽によるコミュニケ―ションをより快適に行い、「音楽を楽しむ」方が一人でも増えることを願っています。

www.youtube.com

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」マタイによる福音書25章35節‐36節、40節

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

マタイによる福音書25章35節‐36節、40節

 

25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

25:40 そこで、王(イエス)は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟(姉妹)であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

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こんにちは。

マタイによる福音書25章35節‐36節、40節を引用しました。38、39節を飛ばしているので、気になる方は以下のURLからご覧になれます。

マタイによる福音書 25, Colloquial Japanese (1955) (JA1955) | 章 25 | 聖書アプリ | Bible.com

 

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

平和(すべての人が心から笑える状態)に向けて、一番大切な教えは、これではないかと感じています。

 

現代において「自分さえよければそれでいい」という考えを感じることがあります。私が以前いた会社では、「製品が売れればそれでいい、後から向こうが後悔しようが、雇われる人が減ろうが、うちにお金が入ってこなきゃ暮らせないんだからそれでよい」という意見が「普通」でした。そういう場所は案外多いのかもしれませんが。

また、本来は「自分も他人も幸せが一番である」とわかっていながらも、それが歪んで「自分が不幸なんだからお前も不幸になれ」となってしまう状況も散見します。公務員バッシング、生活保護バッシングもそういった背景があるのではないでしょうか。

 

しかし、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」。つまり、「最も弱められている人に寄り添い、行動すること」が最も価値のあることだと教えているのです。

 

わたしは、これは、「天の宝(人との暖かい繋がり、心の交流、平和)」の概念においても大切なことだと感じます。

もし、あなたが、顔も挙げられないほど、眠ることも食べることもできないほど、死にたいとおもうほどつらい時、心通わせてくれる方が居たら、これ以上ないほどの恵みだと感じるのではないでしょうか。

そんな風に、深く心を通わせる機会は、生きる中で、多くはないと思います。もし、あなたが助けられる側であれば、深い慈悲の心を持ったとても大切な友を得るでしょう。そして、大きな喜びを感じるでしょう。わたしはその心の交流を指して「天の宝」だと思っています。

またあなたが助ける側であれば、相手はあなたに、これ以上ないほどの「心からの感謝」を与えてくれるでしょう。わたしは「心からの感謝」ほど美しい天の宝はないと思います。あなたが「小さき(弱められている)者」を助ける時、あなたは「天の宝」を頂いており、またその人と人との関係性の中に、神(平和)への想いが現前するのだと思っています。

神、という語に抵抗感があるのでしたら、人の心の暖かさと言い換えてもいいと思いますが、私は、生きる上で、「心の暖かさ」の恵みを受けることより価値あることはないと感じています。そして、それは、人間が全て操作できる事象ではないと思います。

人の感知できる部分以外の空白にこそ、神とされるもの、人の力と考えが及ばぬものが在り、また、その部分に思い至る時、全ては無いことと等しいのだと思います。

 

「天の宝(心の暖かさ、心の交流)」の為に、身体的、精神的に飢えている人、渇いている人、居場所を求めている人、暖かさを求めている人、病気の人、抑圧されている人に寄り添うことができ、また私自身も小さき者として、寄り添って下さる方に恵まれますように。

 

「25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

・・・

『はっきり言っておく。わたしの兄弟姉妹であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」