死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

”幸いな人たち"新約聖書ルカによる福音書6章20節から23節

"幸いな人たち"
ルカによる福音書6章20節から23節

新共同訳1987
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。飢えているこの人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
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こんにちは。
今日は新約聖書から「ルカによる福音書6章20節から23節」を引用しました。

先に少しだけ説明しますと聖書は一つの大きな物語をただ綴ったものではありません。旧約聖書においては天地の始まりという神話的物語が語られ、新約聖書においては、マタイ、マルコ、ルカといった人々それぞれによってキリスト・イエスの為したことが、それぞれの書き方で語られています。そして、成立した年がそれぞれ違い、同じ人について何人かの人々が書いたにも関わらずほぼ記述が一致しているのです。奇跡などについて立証する事は難しいでしょうが、キリスト・イエスの実在自体は歴史的にみても、ほぼ確かなものであるようです。
信徒の方々は私を含め、聖書を読む中で、キリスト・イエスが実在するかどうかは確かにはわからないけれど、み言葉によって心が軽くされた、救われた、という想いは自分にとって確かなものだ、と思い、信仰への道を進むのではないかと思います。
私見ですが「神様は絶対に居る!」という方は疑わしく、むしろ信仰に薄いと思います。神の存在は、確定的に立証できるものではありません。微細ながら確認できるとすれば、自分自身と他者との心の間、神と自分の心の間におられるのだと思います。しかし、確かには確認できないからこそ私たちは「自分を愛し他者を愛する生き方」に生き、自分の中、また他者との間に神様がおられる瞬間を待ち望むのではないでしょうか。「神様は絶対にいる!」という方は、もう待ち望むことはありません。その事は、「自分を愛し他者を愛する」神のように生きることをもう追求しなくてもよい、と驕ってしまっているのではないでしょうか。(wwjd(what would Jesus do)という言葉があります。難しい局面にある時に、この時イエス様であったらどう行動するか、と考えることを大切にするものです。最近だと、女性司祭を認めないこと、性的マイノリティの迫害はイエス様の為さることと逆のことをしてしまっている例だと感じています。弱さを持つ人間一人一人に寄り添うことを大切にされたイエス様は決して、「あなたの心を曲げて異性愛者になり自分を騙し続けなさい」とは言われないと思います。)

だいぶ脱線してしまいました。ルカによる福音書6章20節から23節でしたね。
私はこの部分を読んだ時、「ああ、やはり、義に生きることを正しいことだと思って良いんだ」と感じました。
1年程前、就職活動を行い企業勤めを行う中で、「自分にお金が入ること、他者に勝つこと」が最も価値のあることであり、それが世の中の常識であるかのように錯覚させられてしまう、そういった環境に居ました。会社で、周囲の人々は「お金が入ってきて自分が生きていければそれでいい」と考えているようでした。例え他者に損をさせても、騙しても、売らなければ自分達にお金が入ってこず生きていくことができない。そんな風に、本気で考えているようでした。

キリスト教には「天の宝」「地上の宝」という言葉があります。
私は「天の宝」を人との暖かい繋がり、「地上の宝」を金銭だと解釈しています。
私は半年ほど前、兄を亡くしています。その時その事を誰かに話さずにはおれませんでした。私の中で留めておくには感情が大きすぎたのです。その時LINEで打ち明けた恋人が電話をする時間を作ってくれたこと、親しい友人たちが深夜まで、中身も特にないたわいない会話に付き合ってくれたこと、そういったこと全てを通して私は「ああ、これが天の宝なのかな」と思いました。そして同時に、「このまま今の会社に居ては、微小な地上の宝を積むばかりで、本当に生きているとはとても言えない、自分にとっては、死んでいるのと何の代わりもないな」と改めて確信しました。(それでも、辞めた後どうするか悩み、しばらく辞めることができなかったのですが、今ではそれも他者の気持ちを理解するための糧にはなったのかな、と思っています。そして悩んでいる時に今の教会と出会えました。)

何がいいたいかといいますとつまり、このみ言葉において「貧しい人、飢えている人、泣いている人、人の子(平和)のためにののしられ迫害される人」というのは、「地上の宝」でなく「天の宝(平和・人との暖かい繋がり)」を求めている人と言い換える事ができるのではないかと思うのです。
だからこそ、この箇所を読んで私は、「他者が喜ぶこと、お互いを理解し尊重し仲良く暮らすこと」に価値を感じそのために微細ながら行動してきた自分のことが認められたような気持ちになり、心が安らいだのだと思います。
キリスト教における愛とは、また「神の国」とは、「身近な人に始まり、世界の人々が心から笑顔で暮らせること」だと思います。

なので、ルカによる福音書6章20節から23節を私なりに解釈すると下記のようになります。
「地上の宝を積むこと(金銭、また金銭で食べ物、人の心を得ようとすること)をせず、あなたの隣り人を敬い、思いやりと慈しみを持って接することで天の宝(人との暖かい繋がり)を積みなさい。そうすれば少しでも神の国(身近な人に始まり全ての人々が心から笑って暮らせる世界)に近づいていくでしょう。」

世界情勢において、過激な方々が増えてきているこの世にあって、天の宝(treasures on high)を積みましょう。もう、映画「この世界の片隅に」のような世界を作り出してはいけないと思うのです。また、アレッポなどの紛争地域は、"今も"「この世界の片隅に」のすずさんのように戦争に苦しむ方々が何人も何人もいるということ、覚えておいてほしいのです。一人一人に、お母さん、お父さんが居て、愛する人や恋人が居て、お互いを心配している親子、兄弟姉妹、友人がいるのです。遠い国の多くの人々であっても、同じ心を持った人間です。その人々のことを覚えていてほしいのです。

(少し異なりますが、真珠湾で亡くなったアメリカ軍人の方々に対する安倍首相の演説から引用します。:Each and every one of those servicemen had a mother and a father anxious about his safety.(一人一人の軍人に彼らの無事を心配する母がおり父がおり、)Many had wives and girlfriends they loved. And many must have had children they would have loved to watch grow up(その多くに妻がおり恋人がおり、そしてその成長を見守りたかった子供たちがいたのです。)All of that was brought to an end.(その全ての想いがここで終わったのです。))

戦争は、神の国から、最も遠い行為だと思います。

祈り
今もこの世界にあって、様々な悩み苦しみ悲しみを抱えている人々がいます。その一人一人のそばに、どうかあなたが共にいて、心を強め、安らぎをもたらしてください。あなたの恵みと慈しみを、一人一人の上にお与えください。また、何の力も持たず、悩みと無力感に苛まれている小さき私の心をも強め、これからの私の道のりにあなたが寄り添っていてくださいますように。闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。この祈りをわたしたちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。
アーメン。(その通りでありますように。)