死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

「目指すべき人物像」 ルカによる福音書6章35節から38節

「目指す人物像」

ルカによる福音書6章35節から38節

 

6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

6:38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。

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こんにちは。

今日は、キリスト教が「目指すべき人物像」として掲げているものの一つをご紹介します。今回も、私なりの解釈をお話していこうと思います。

 

「6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。」

 

この部分における、「報い」は、死後の平安のことを指す、と言われているのではないかと思います。しかし私は、その事と同時に、「天の宝(人との暖かい繋がり、心が満たされること)」もまた、「報い」ではないか、と考えています。

また、この時代には、「異教徒は敵」というような発想もありました。ですので、「敵を愛せ」は、自分とは人種、文化、信仰、考え方、性別、生き方、の異なる人々に対しても、敬意を持って接せよ、ということではないかと思います。

つまり、自分と意見の合わない人にも、敬意を持って接することで「天の宝」を報いとして得る、という捉え方もできる部分だと思います。

 

「6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。」

 

キリスト教では、聖書の中で「慈悲深い者」となることを奨励しています。

 

最近の出来事で言うと、トランプ次期大統領もキリスト教徒かと思いますが、以下に挙げるミシェル・オバマさん(オバマ大統領夫人)のような演説を、道は異なっても、トランプさんもしてくれることを祈りたいです。何故なら、彼女の演説は「"慈悲深く"、"寛容さ(ゆるし)"を人々に求め、アメリカに住むすべての人々に価値、居場所を"与える"」ような演説であったからです。

ハフィントンポストから、引用します。全米各地の高校で活動するスクールカウンセラーを表彰するスクールカウンセラーズ・オブ・ザ・イヤー」での演説です。

 

・ミシェル・オバマさん ホワイトハウス最後の演説から引用

「ここにいるみんな(スクールカウンセラーの方々)は、そうした子供たちに、自分たちは重要な存在なんだということを教えます。自分たちにも与えられるものがあると伝えます。生まれた場所、親の資力、外見、好きなもの、宗教、家で使う言語に関係なく、彼らはこの国に居場所があるのです。

ホワイトハウスでの生活を終えるにあたって、ファーストレディとして最後の公式の発言ですから、若者たちへ送るメッセージが一番ふさわしいと思っています。ですから、この部屋にいる、またはテレビを見ている若者のみなさん、この国はあなた方のものだということを知ってください。背景や人生の歩みに関係なく、あなた方みなさんのものです。あなたやご両親が移民なら、あなたは誇り高きアメリカの伝統の一部です。新しい文化、才能や発想が代々溶け合って、私たちは地上で最も偉大な国になったのです。

あなたの家族が貧しいとしましょう。覚えていてほしいのですが、この国の多くの人々は、私や夫も含め、何もないところから出発しました。 しかし一生懸命に努力し良い教育を受ければ、すべては可能になります。大統領にだってなれるのです。これこそがアメリカンドリームのすべてではないでしょうか。

あなたは信仰心の厚い人ですか。宗教の多様性もアメリカの素晴らしい伝統です。実際、最初に人々がこの国に来たのは自由に崇拝をするためでした。そして、イスラム教徒、クリスチャン、ユダヤ教徒ヒンズー教徒、シク教徒……あなたの信仰が何であっても、こうした宗教は私たちの若者に正義、思いやり、誠実であることを教えています。若者たちには誇りをもってそうした価値観を学び、実践してほしいと思います。分かりますか、私たちの素晴らしい多様性、つまり宗教、肌の色、信条といった多様性は、私たちを脅かすものではなく、今の私たちを形作るものなのです。そしてここにいる若者たち、そしてその他の若者たちに、「あなたに価値がない」とか「アメリカには居場所がない」と感じさせることがないようにしてください。そんなことは絶対ありません。みなさんには、そのままの自分でいる権利があります。

しかし、はっきりさせておきたいことがあります。この権利はあなたにただ手渡されるものではありません。むしろ、あなたはこの権利を日々獲得していかなければなりません。自由はあって当たり前ではありません。 あなた方の前の世代と同じように、こうした自由を維持し、守るために自分の責任を果たさねばなりません。そしてそれは若い時に、今この時に始まります。

私たちの国際的な対話に加わるために、今、自分自身で準備する必要があります。情報に通じ、国民として奉仕し、先導し、私たちの誇るアメリカの価値観を擁護し、日々の生活の中でそれを尊重する心構えが必要です。そしてそのためには、考え得る限り最高の教育を受け、自分をはっきりと表現できるようにしないといけません。そうすれば良い仕事に就き、自分と家族を養い、地域社会の中で前向きな力となれるでしょう。

そして困難に直面するとき……保証しますが、必ずあります。多くの人はすでに経験済みでしょう。そんな時ももがき苦しみ、あきらめようかと考え始めたら、約10年前、私と夫がこの道を歩き始めた頃に話し合っていたことを覚えていて欲しいのです。ホワイトハウスで、そして生活の中での一瞬一瞬に支えとなっていたもの、それは希望の力です。努力し、闘い続ければ状況は良くなるという可能性を信じることです。

希望の力は、私たちの根幹となる信念です。私たち自身の生活、またこの国の生活の中で直面する疑念や不和、怒りや恐怖の声を克服することができました。 十分に努力し、自分を信じるなら、どんなことであっても自分が夢見るものになれる、という希望があります。他人が私たちに設けた限界には左右されません。そして私たちの本来の姿を確かめようとするとき、もしかすると、なりうる限りの最高の自分に上り詰めようと突き動かされる、という希望があります。

それこそが、カイラのような学生たちの希望です。彼らは自分の才能を発見し、世界にシェアしようと奮闘しています。それが、テリーやこの壇上にいる人たちスクールカウンセラーの希望です。彼らはそのような生徒たちを一歩一歩その道へと導き、若者を誰一人として見限ることなどありません。それは私の世代の、私の父親世代の人々の希望です。父は毎日起きて市の浄水処理場に仕事に行きました。いつか、自分の子供たちが大学へ行き、彼自身が決して得られなかった機会を得られるという希望があったのです。

それは私たちの誰もが……政治家たちも、親も、説教師たちも、私たちすべてが若者たちに与えなければならない希望なのです。希望こそが、この国を日々進歩させるからです。未来への希望と、希望が生み出す懸命な努力によって進歩するのです。

これがファーストレディとして、若者たちへの最後のメッセージです。シンプルでしょう。若者たちには、自分たちが大切な存在で、居場所があることを知ってほしいのです。ですから、怖がらないでください。聞こえますか、若者のみなさん? 恐れないでください。打ち込みましょう。強い意志を持ちましょう。希望にあふれてください。力をつけましょう。良い教育によって力をつけ、外に出て、その教育を、あなたの果てしない希望にふさわしい国を築くのに使いましょう。希望に導かれ、決して恐れないでください。私はみなさんと共にいて応援しています。私は残りの人生、みなさんをサポートするために働くことを、知っておいてください。」

www.huffingtonpost.jp

 

 

「若者たちには、自分たちが大切な存在で、居場所があることを知ってほしいのです。ですから、怖がらないでください。聞こえますか、若者のみなさん? 恐れないでください。」

慈悲深い演説だと思います。私は、この演説を聞いて、ミシェル・オバマさんは尊敬すべき女性の一人だと感じました。

そして、今日の聖句にある「慈悲」「ゆるし(寛容)」「与えること」を実践されている方だと感じました。

 

というのも、ミシェル・オバマさんは演説の中でこうおっしゃっています。

宗教は私たちの若者に正義、思いやり、誠実であることを教えています。若者たちには誇りをもってそうした価値観を学び、実践してほしいと思います。分かりますか、私たちの素晴らしい多様性、つまり宗教、肌の色、信条といった多様性は、私たちを脅かすものではなく、今の私たちを形作るものなのです。」

「そしてここにいる若者たち、そしてその他の若者たちに、「あなたに価値がない」とか「アメリカには居場所がない」と感じさせることがないようにしてください。そんなことは絶対ありません。みなさんには、そのままの自分でいる権利があります。」

 

ミシェルさんは、「宗教、肌の色、信条(価値観)の違いによって、人をさばき罪に定める(迫害する)のはやめ、あらゆる違いに「寛容であり」、「価値」「居場所」を与えるべきだ。そのように行動してほしい」と訴えているのだと思います。

 

「6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」

 

ここで挙げられている「人が人を裁き、罪に定め、侮辱し蔑ろにすることをやめて、他者に寛容であれ」という精神を、ミシェルさんはお持ちなのではないでしょうか。

私は、この、ルカ6章37節の「ゆるしてやれ」というみ言葉は、「寛容であれ」という意味でもあると、解釈しています。

 

「6:38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。」

 

「情けは人の為ならず」ということだと思います。聖書では、違う箇所でも似た表現が出てきます。(「それで何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」(マタイの福音書 7章12節))

ミシェルさんは、演説で、「寛容であること(思いやり)」「希望を持つこと」「感謝」などを、「与えて」います。

おそらく、アメリカの若者たち(ミレニアル世代(アメリカ版さとり世代))は、この言葉に、「与え」返すのではないでしょうか。そこに、現代の社会的な情勢不安の中にも一筋の希望を垣間見ることができるのではないでしょうか。

アメリカだけでなく、日本でも、「慈悲」「ゆるし(多様性への寛容)」「与えること(感謝を伝えることや、寄付など)」を大切に想う人が、一人でも多く増え、そのことによって、「心から笑える人が一人でも増えること」を祈ってやみません。

 

www.huffingtonpost.jp

www.glocallife.net

 

 

祈り

主よ、今日もあなたが、友人との良い時間を与えてくださったこと、感謝します。心の交流が私を支えている事を、日々感じています。その中で、先日、身近な人とうまくコミュニケーションが取れず、行き違いが起こってしまうことがありました。誤解を解くには至ったのですが、お互いの心に小さな傷を生んでしまいました。どうか、今後私が、悲しみを人の心に置くことがありませんように。悲しみのあるところに喜びを置くことができますように。あなたの御力によって、そう在れますように。今日は何故か、上手く気持ちを文字に起こすことができません。これ以上書く事が難しいです。ですが、私が、私の想いを人に伝えることができ、そのことが誰かの喜びとなりますように。悲しみを与えることは、最小限でありますように。主イエス・キリストの御名によって、この祈り、御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりでありますように)

 

希死念慮持ち、死にたいと思う人、自分の生に執着を持てない人とは

こんにちは。
今日は少し、重い(とされる)テーマについて、当事者である自分のためにも、お話ししたいと思います。この事について話し合う機会は、かつては身近な人とあったのですが、その方もいなくなってしまったため、非常に私見が多いと思いますがご容赦ください。

皆さんは「希死念慮」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。一言で簡単に言ってしまうなら、死にたがりです。もっと詳しく言うなら、死にたい、という思いを基本的にずっと持ち続けている人です。その思いにも波はあるのですが、「死んでも別にいいなー」くらいの時もあれば、「今すぐ死にたい」という時もあります。
しかし、一貫しているのは、今すぐ死んで後悔しますか?と聞かれて、「いや、別に後悔はしないけど、痛いのと、まわりの人が悲しむのは嫌だなぁ」とか、そういう感想が出てくるということだと思います。
つまり、自分の生に基本的に執着がないです。それは、「自分が何をしたところで結局世の中に価値があることなんて何もない」と感じていること。「何をしても、ある人の喜びとなる部分があり、またある人の悲しみとなる部分があるよなと感じ、喋ること動くことに罪悪感をしょっちゅう感じている」ことから生ずるものだと思っています。

希死念慮持ちじゃない人に一つだけお伝えしたいのは、「私たちの意見を受け止めてください」ということです。
社会の中で、「死について語ること」、「死にたいと言うこと(思うことでさえ)」をタブー視する現状は、私たちにとって言葉の手足をもがれたのと同じようなものだと感じています。何を喋る時にも、「社会の常識」とされる、一部の価値観に合わせて話すことに気を配り続けなければいけない。それは「希死念慮持ちでない方が、絶対に失言できない状況にいる時」と似ています。
私たちも、四六時中死にたいと言いたいわけではありません。ですが、ほぼ常にそういう思いを持っている人の存在を認め、「死」について話し合うことをタブーから除いてほしいのです。話し合わないまでも、頭から否定しないでほしいのです。


希死念慮に対して、私は学生時代、吐き出すことで多少の心の安定を保てていました。学生時代は、自分の生き方について問われることは多くはなかったですし、やってみたいことをある程度やれていたからです。
しかし、大学を卒業して、学生時代より遥かに、自分の生き方、行く末、やりたいこと、生きることについて考えさせられることが増えました。
その中で私は、
「身近にいる、私が心から尊敬し好いている人々を悲しませたくないなー」という思いと、
「結局全てのことに意味なんてないのに、無意味に傲慢になる人に虐げられて悲しむ、自分と似た部分を持っている人に寄り添えたらいいな」という思い、
「自然の美しさ(人の暖かさ、音楽の楽しさも含め)に触れられるなら、まあ、生きててもいいか」という思いを持てているから生き続けています。

自分の性質として挙げられるのは、希死念慮と、無闇に強い共感力だと思います。最近は特にそう思うようになりました。
映画の中の物語や震災で苦しむ人々、差別で苦しむ人々のことなどを見聞きすると、心が痛むほど悲しいですし、湧き上がる怒りを感じます。(怒りはさらなる別の怒りを呼ぶことは明白ですし、怒りを感じている状態が好きでないので、すぐに抑えつけますが。)

こんなこと、今の日本社会で言うと、「偽善」とか、「綺麗事」とか、「それの何が役に立つの?」とか、「ご立派だね笑」と思われる、言われることがあります。別に良く思われたいわけじゃないですし、良く思われたいならこんなこと言いません。
そして、言わずに自分の心を抑えつけた結果、希死念慮さんが大活躍する事態まで一時いきました。
実際、今でも現実では、(できたとしても)親友や教会の家族くらいにしか、こういった話はできません。

それでも、現実の知り合いも読んでいるここに、この事を書いたのは、多分、こういう思いを持っているのは私だけじゃないと思う(思いたい)からです。

今、「多様性への寛容」、「自分と異なる他者への想像力」(例えば性的マイノリティ、育った文化・環境の違う人、障害を持つ人、心の病を持つ人などへの想像力)が、あらゆる場面で重要だと考えられ始めています。その中にあって、希死念慮持ちの人も、当然ですがそこに含めてほしいのです。

希死念慮持ちの人は、おそらく
「自分の周りの好きな人々が悲しむのは嫌だな」
「こんなことはやってみたいかな」
「こういうもの(例えば自然の美しさ)に触れられるなら、まあ生きててもいいかな」
「でもまあそういうのなくなったら別に死んでもいーかな」
くらいの感覚で生きています。死に対する感じ方がおそらく社会多数派とはだいぶ違うんだと思います(確かなことはわかりませんが...)。
身近な人が亡くなったとき、確かに、間違いなく悲しいですが、「楽になったんだね」という祝福に近い気持ちも感じます。同時に少し羨ましい気持ちも。
そういった点において、「死」をただ悲しむだけのお葬式より、生きていることを罪と捉え、死ぬことは永遠の安らぎを得ること(だから祝福すべきこと)と捉えるキリスト教に合う部分もあるのかもしれません。この事(「死」)に関して確かに分かることは何もありませんが、私はそう考えています。

そうでない方に理解してほしいとは言いません。しかし、そういった考え方、そういった存在は認めてください。今のように、頭から、聞く耳も持たず否定されるのでは辛すぎます。(もちろん、全ての人がそうではありませんが、多数派の空気としては、そう感じます。)
この記事に共感する人がどれくらいいるのか、そもそもいるのか、分かりませんが、私と私の大切な人と共に、この事をどうか覚えていてくださるよう、心から、お願いいたします。

私が聖書を読む時に気を付けていること (新約聖書マタイによる福音書22章36節から40節)

「最も大切な掟」

マタイによる福音書22章36節から40節

 

22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 

新約聖書マタイ11章28節

11:28 疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。

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こんにちは。

今回は、私が聖書を読む時に、気を付けていることをご紹介したいと思います。

それは、上記聖書箇所の。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」です。

私はこの箇所を以下のように理解しています。

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』。

イエス様は、社会の中で最も弱き人(バカにされていた人、貧しい人、侮辱されていた人)を最も大切にされ、「最も弱き人に行ったことは、私にしたことと同じである」と言われています。また「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」(新約聖書マタイ11章28節)とも仰っています。つまり、イエス様は私たちひとりひとりが、その時その時、どのようであろうと大切に想う、愛すると仰っているのだと思います。そう教えられた時、私は「神が私を無条件で大切に想われたように、私も私自身を大切に想いたい。またそうすることで神の想いにお応えしたい」と思いました。

つまり、「自分自身を大切に想うこと」の大切さを感じました。

 

また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』は、このブログでも何度も書いていますが「あなたの身近な人から始まり、日本中、世界中の人が、心から笑えるように、あなたは隣人(まず身近な人から)を大切に、思いやりをもって接しなさい」ということだと思っています。

 

聖書を読む時に、差別の表現が出てくることもしばしばあります。しかし私はその時、聖書に書かれていればそれが全て正しいとは思いません。なぜなら、聖書は「人が」書いたものであるということ。また、「身近な人を大切に、思いやりをもって接しなさい」という教えが、「最も大切な掟」とされているからです。

女性差別、性的少数派差別などは、聖書の書かれた当時であれば、あまりにも当たり前のことだったのかもしれません。しかし今は違います。差別です。

 

女性は司祭にはなってはいけない(女性司祭にこそ理解し相談に乗れること、男性司祭にこそ理解し相談に乗れることがあると思います)、

女性は正規社員では働かせられない(女性と男性に能力差がないのは最早周知だと思います。また出産が問題だというなら、本当に問題なのは出産を問題にする社会だと思います。)、

ベビーカーは邪魔だからタクシーでも使え(他者に思いやりを持って接する、とは何でしょうか)、

女性は子育てが仕事なんだから大変だとか言うな(子育てが女性の仕事と誰が決めたのでしょうか、またおそらくそう決めた方の子供はどう育つでしょうか。父母が子育てに参加した方が良いのは、お互いの負担軽減の為にも、子供のためにも大切なのは自明ではないでしょうか)、

結婚して子供作って当たり前だ(結婚すること、子供を持つことに価値がありますか?価値があるとすれば、結婚した後、お互いを想い合って幸せに暮らしまわりにも喜びを与えること、また子が、他者に思いやりを持って接することのできるように、子の気持ちに寄り添い、同じ一人の人間として心を開いて話し合いができること、などが価値のあることではないでしょうか。つまり、そのどちらも、結婚してなくとも子供がいなくとも、他者に思いやりを持って接する中でも実現できます。)

 

また、性的少数派を認めるべきでない(認めなければどうなりますか?心から笑えない人がまた一人増えるだけで、何のメリットもないように感じます。無理矢理メリットを考えるとしたら、他者の心を理解しようとしない人が大きな顔をできるということでしょうか)、

子供が作れないじゃないか(子供が増えさえすればなんだって良いのですか?経済的貧困や精神的貧困に陥る子供たちを見ずに、悲しみの再生産を行う気ですか。私たちが言うべきは「生きることで喜びを得ることができる社会をつくっていきましょう。そうすれば出生率は伸びるでしょう」ではないでしょうか。子供が増えることそれ自体を目的にしては、危険だと思います。)

 などなど。

 

私は、上記に通底して「心から笑える人が減る」ということを感じます。

もう一度言いますが、地上において最も大切な掟は「身近な人を始めとして、世界中の人を大切に、思いやりをもって接しなさい」「心から笑える人に溢れる世の中にしなさい」だと思います。

ですので、それに反する行いを私はしたくありません。

 

皆さんの中には、宗教戦争や、キリスト教国であるアメリカやイギリスの行ってきた戦争など、これまでの所業から、キリスト教信者というのは、そういったことをしても良い人々なのか、という疑いを持っている方も、ある程度いらっしゃると思います。

答えは(おそらくお分かりだと思いますが)もちろん「いいえ」です。

私は、争いや戦争は、最も教えから遠いと思ってます。

 
戦争はもちろんですが、「9条改正反対」、「自衛隊派遣反対」と、相互の建設的な話し合いを拒否し、自分の意見だけを訴えることも、ひとつの争いの形だと思うので、教えから遠い行為だと思います。(もちろん、ちゃんと総理や政府と対話の形を取ろうとしているところもあると思いますが、「9条(法律)」「自衛隊派遣」は手段であって目的ではありません。目的は「心から笑える人が増えること」。そのためであれば、9条改正も自衛隊派遣も、人々の協力の形としては、あり得る選択肢ではあると思います。もちろん、平和を蔑ろにすることと、戦争はあり得ないものだと思います。)

 

目的を見失うことなく、行動するために、私は、私なりに解釈した

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

を最も大切な決まりとして、常に覚えておくようにしています。

 

追伸:

この讃美歌461番の動画の、2番の英語歌詞がとても好きです。

www.youtube.com

 

 

「「人は純白に輝く生き物だ」 それはどうかな」 パブリック / Mrs.GREEN APPLE

www.youtube.com

 

「人は純白に輝く生き物だ」

それはどうかな ほら またあちこちで

諍いが止まぬ変わらない世の中だ

「人が作り上げた」 皮肉なもんだ

 

僕達の倫理ってもんは

こんなにも汚れてしまったのかい

誰かが気づいてくれたらいいな

いつか いつか いつの日にか

 

知らぬ間に誰かを傷つけて

人は誰かの為に光となる

この丸い地球に群がって

人は何かの為に闇にもなる

 

「人は優しさを育む生き物だ」

「嬉しさ・悲しさ」全部抱き「寄せてる」

大衆の一部と化しても 価値はそうも振れず

「人が作り上げた」素晴らしいんだと

 

憎いその可愛さと憂うその瞳の

愛が実ればいいなと

神様が定めたこの世界に

何を残して逝ければいいだろう

 

泣かないよ もう泣かない

開かない扉はさ 開かない意味があり

若いこの層 お年を召したこの層

どちらももう 共に寄り添い合う

 

その度になにかを欲しがって

人は自分の為に傷を負わす

醜いなりに心に宿る

優しさを精一杯に愛そうと

醜さも精一杯に愛そうと

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こんにちは。

今回は、私の好きなMrs.GREEN APPLEからパブリックをご紹介します。

このバンドの歌詞に、私は、私の思いと

近いものを感じて最近よく聴きますし、歌ったりします。

歌いながら思いが込み上げてくることもよくあります。

 

「人は誰かの為に光となる
(中略)人は何かの為に闇にもなる」

誰か(人)の為に光となる。

何か(お金、権力、優越感)の為に闇にもなる。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

「愛が実ればいいなと
神様が定めたこの世界に
何を残して逝ければいいだろう」

何を残して(どんな想いを残して)。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

「開かない扉はさ 開かない意味があり
若いこの層 お年を召したこの層
どちらももう 共に寄り添い合う」

開かない扉(自分の心を圧し殺す道へ続く扉)。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

 

「醜いなりに心に宿る
優しさを精一杯に愛そうと
醜さも精一杯に愛そうと」

完璧に美しい心を持つ人なんていないと思います。

けれど、優しさを感じる心や、思いやりを喜ぶ心は、誰しも持っているものではないでしょうか。

その優しさを精一杯愛する。

優しさを精一杯愛した上で、醜さも否定せず向き合い、自分の一部として理解し愛することで、他者に寛容になることができ、他者を愛することができるようになるのではないでしょうか。

私は「自分をまず愛すること、自分の心を大切にすること」を行わなければ、「他者を本当の意味で大切にすること(愛すること)」は出来ないと思っています。

というのは、あなたが大切にしたい、と思っているその人はきっと、あなたがあなた自身の心を大切にしないことを、何にも増して望んでいないと思うからです。

相手が本当に願っていることを蔑ろにしているのに、その相手のことを愛している、と言えるでしょうか。

 

もし、大切にしたい人がいる、好きな人がいる、自分を理解し、相互に想い合える人を見つけたい、と思うのでしたら、「まず、自分自身の心を大切に」為さってください。

自分の心の苦しみ、声を注意深く聞いてみてください。

夜、暗くした部屋で目を瞑り、「私が本当にしたいことはなんでしょうか。今~~という苦しみを覚えています。この苦しみは、「私の本当の想い」、「心からやりたいこと」に繋がるでしょうか。私がしてみたいことはなんでしょう。~~や~~は好きです。~~をしているときは心が苦しくはありません。・・・」といったことを考えていれば、自分の心がやりたい、と思っていることに思い至るかもしれません。

このことは、自分自身に対する祈りだと思います。そして、自分自身の心を大切にするために、まず、自分自身の心と向き合い祈ることは、とても大切なことだと思います。

何か心がやりたいと言っていることを見つけたなら、その後は、それをするために必要な情報を探してみるとよいと思います。眺めるだけでもよいです。自分の心が苦しみを覚えない活動を、人生において増やしていけるように、するとよいのではないかと思います。

 

もし、自分の心が、悩み、苦しみ、悲しみを覚えているのなら、一度試してみてはいかがでしょうか。

 

これらが、Mrs.GREEN APPLEのパブリックから、私が感じた私見です。

 

 

祈り

主よ、先ほどお昼を頂きました。今日の糧に、感謝いたします。今この時も、食べるもの寝る場所がない方が多くいらっしゃいます。どうかその方々に一刻も早く、あなたが暖かい恵みと慈しみを与えてくださいますように。また、食べるものや寝る場所が与えられていても、心に重い苦しみや悩み、悲しみやつらさを抱えている人が多くいます。私の身近、大切な人々の中にも、います。その方々ひとりひとりの側に、どうぞあなたが居て、心に安らぎを与えてくださいますように。私もかつてそのような者でしたが、あなたを大切に想う集いに恵まれ、今は落ち着いております。深く感謝しています。どうかその恵みを、私と同じ形でなくとも、あなたの御心によって多くの方に与えてくださいますように。

闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。また、そうすることができる者に、どうぞあなたの御力によって、なることができますように。アーメン(そのとおりになりますように)。

"どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならない"新約聖書使徒言行録10章25節から28節

"どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならない"
新約聖書使徒言行録10章25節から28節

10:25ペテロがいよいよ到着すると、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝した。
10:26するとペテロは、彼を引き起して言った、「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」。
10:27それから共に話しながら、へやにはいって行くと、そこには、すでに大ぜいの人が集まっていた。
10:28ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。
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こんにちは。
今日は、キリストによって遣わされた使徒たちの話をまとめた、使徒言行録から引用いたしました。使徒の一人ペテロがコルネリオという異邦人のもとを訪ねる場面です。当時、ユダヤ人はユダヤ人だけが救われる民であり、異邦人は汚れたものという考えに基づいて、異邦人を軽蔑、侮辱、迫害する人が多くいたそうです。
その時、キリストはペテロに啓示を通して、どんなものをも清くないとか汚れているとは言ってはいけない、と伝えられました。

この事を、現代に当てはめるとどうでしょうか。
現代においても、レッテル張りによって軽蔑、侮辱、迫害され、見下され、苦しめられている人が多くいるように私は、思います。

清くないとか、汚れていると言ってはいけない、を現代風に訳すと、「どんな人をも、バカにしたり、見下したり、侮辱してはいけない」ということではないでしょうか。
今、私たちが生きている現代には、お金、地位や、(社会多数派によって作られた、数年単位で真逆にも変わる、まやかしの)常識という概念を根拠にして、誰々は賢い・偉い、誰々は愚かだ・劣っていると言う人々が、悲しいですが居ます。
私は、そういったモノ(地上の宝)に高い価値はないと思っています。お金、権力、優越感をいくら得たからといって何になりましょう。私にとっては、数億の富を得ることや、大企業の社長職を得ること、誰よりも早く出世することなどより、目の前の人が、身近な人が心から笑うことの方が大切です。
地上の宝(お金、権力、優越感)をいくら積んだからといって、それが私の心を満たしてくれることはないと思います。(誤魔化すことはできると思いますが、のちに耐えられないほどの虚無感、罪責感に苛まれることはわかります。)
私に余ったお金があるのなら、不必要な分は、「どう使われるかがわかっている」場所に寄付や献金したいと思います。私に食べきれない程の食べ物や、いらなくなった本やモノがあるなら、誰か求めている人に渡したいと思います。そうできるような人になっていきたいと思います(寄付や献金の情報を仕入れること、譲り合いできるコミュニティを見つけていくことに少しずつ、自分の心に無理のないペースで取り組んでいます。)。
以前、挙げた聖書のみ言葉、「求めなさい、そうすれば与えられる」の与える側に、わたしも、あなたも、成ることができます。

お金や権力は、金銭崇拝教信者、権力崇拝教信者には崇めてもらえるかもしれませんが、それは、お金や権力を持つ、その人自身を見てはいません。言わずもがなですが、お金、権力それ自体を見ています。お金、権力を失ったとき、あっさりと別の人を崇めるようになるでしょう。

しかし、天の宝(暖かい心、思いやり、平和に繋がる思い、言動)はそうではありません。
あなたが強められているとき(自信を持っているとき)にも、あなたが弱められているとき(泣き伏せる程悲しいとき、つらいとき、誰も信じられないとき、自分の心が、自分でも全く理解できないとき)にも、あなたが天の宝を与えた人は、寄り添って、あなたの心を見ながら話をしてくれるでしょう。またその時、あなたの話を聞いてくれる、その人自身が天の宝となるのだと、思います。
私は、イエス様はこのような事を指して、「天の宝を積みなさい」と言われたのではないか、と解釈しています。(もちろん、人の解釈にはすべて多義性があり、何が正しいというものはありません。神様のみ言葉が正しかったとしても、解釈する人間によって、み言葉の意味は変化してしまいます。だからこそ、~~が絶対に正しい!などと言わず、「これは正しいのか、間違っているのか」を考えながら行動しなければならないと感じます。その際、私が指標にしていることは、「その言動で、またその言動が波及した先で、心から笑える人が増えるかどうか」です。)

ペテロはコルネリオに会い、彼のキリスト(平和)への思いをみて、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。」と仰いました。
人に偏り見ない。偏見を持ってみない、ということだと思います。これは非常に難しいことです。
偏見というのは、「ある人が苦しむような、目つきをすること、言葉を発すること、行動をすること」だと思います。つまり、相手の立場に立って、相手のことを考え行動することで、偏見をある程度防ぐことができると思います。しかしそれも不十分ではないでしょうか。
相手が「本当に」どう思うかなど、分かることではありません。
先ほど、どういった言動が100%正しいかどうかなど分からない、と言いました。
同じように、相手がどう感じるか、私たちの誰も、明快には分からないのです。

そういう時、どうすればいいのでしょうか。
私は、「話し合い」しかないと思います。まず、相手の意見を決して否定しない(自分の考えと違うときは、否定はせず「私は~と思う」という)、相手の発言を遮らず必ず受け止める、相手の意見を理解する姿勢を必ず持つ、といった基本姿勢を意識して、話し合うことが大切だと思います。
(私も、気をつけていても、ふとしたときに上記のルールを破ってしまい、悔いる時はまだまだ多くあります。少しずつでも、そういったことを少なくしていきたいと思っています。)

めんどくさい、と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし、このことを蔑ろにすることは、いずれあなたが誰かに蔑ろにされることをも示していると思います。
というのは、地上の宝を求める人の周りには地上の宝を求める人が、天の宝を求める人の周りには天の宝を求める人が集う、と思うからです。(これは私の経験上の話でもありますが、やはり、価値観の近い人たちは集まりますし、何より価値観の違いすぎる人たちの中で、孤独に生きることは、拷問のようなものだと感じます。私は、そこからは逃げました。そして今、天の宝の恵みに感謝しています。一番大切なのは、あなたが、「心を圧し潰してないか」「心を圧し殺してないか」「心から笑えない状態になっていないか」だと思います。私はかつてそうでした。もしあなたが今、そうであれば、下記お問い合わせから、お話をお聞かせください。私は決して、否定は用いません。かつての自分と似ている人の、お話をお聞きしたいのです。)
http://hitsuji-wwjd.hatenablog.com/entry/2017/01/10/093741

心から笑える人が、一人でも二人でも増えるように、誰かを傷つけないために、「相手の立場にたって考えてみること」、また、「自分の考えが絶対に正しいなんてことはないこと」を覚えて、行動してみませんか。
そうすれば、暖かい繋がりや暖かい心を感じられるようになるのではないかと思います。私も、あなたとの繋がりになりたいと思っています。


祈り
主よ、ここ京都では雪が積もりました。この美しい景色を与えてくださったことを感謝します。しかし、この寒さにあって、夜眠る場所も、食べるものもない方が大勢いらっしゃいます。どうかその方々一人一人のそばにあなたがいて、一時でも安らぎをお与えください。心に寄り添ってください。また、「ふとんで年越しプロジェクト」など、クラウドファンディングという、想いのある方々からお金を集め、支援する活動など、多くの支援活動があります。どうかあなたの御心に叶うままに、彼ら彼女らの活動を強め、それらの活動を支える人が一人でも二人でも増え、今日より明日、明日より明後日、一人でも多くの人が心から笑えますように。
闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。また、そのようなことを行える者に、どうぞあなたの御力によって、なることができますように。
この祈りを、わたしたちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりでありますように)

悲しいのは人が死ぬ時だけで十分じゃないか。-映画「天使にショパンの歌声を」を観てー

こんにちは。

今日は、映画「天使にショパンの歌声を」を鑑賞してきました。感想を書こうと思います。(ネタバレも含みます。といっても別にミステリーじゃないですが。笑)

映画「天使にショパンの歌声を」公式サイト

 

廃校の危機に陥る、音楽教育に特化した寄宿学校において、修道院長オーギュスティーヌが音楽と信仰の力で廃校の決定を覆そうとする物語です。

美しいカナダ・ケベックの風景もさることながら、私はこの作品に出てくるシスター、生徒たちがそれぞれ、強さも弱さも受け入れて生きている、またその事が受け入れられる環境をつくっていることを、美しく感じました。もちろん、人間同士のいる環境なので、対立がおこることもあります。しかしそれでも、対立した時、良心の傷つかぬ人なんていないと思います(傲慢、不遜の状態に陥り、とても鈍くなっている事はあり得るかもしれませんが)。この物語の中で、例えば、思い違いで怒られる、自分の思いを伝えることができず悲しく思う、自分が大切にしてきたモノ・考えを奪われる、という状況があらわれます。そういった時に、この映画の登場人物は、明快に解決されることはなくとも、他者に頼り、話し、寄り添ってもらうことを求め、そしてお互いが、心に寄り添う人となろうとしていると感じました。

その姿勢は、何においても美しいものだと思います。

音楽の授業中、緊張して歌うゴーティエに、寄り添うようにピアノの旋律を重ねるアリス。

授業中、過度の緊張感により泣きそうになってしまったゴーティエを理解できず、執拗に答えを言わせようとするシスターリーズに対して、「もうやめて!」とゴーティエの気持ちを理解するアリス。

変化していく環境によって混乱していく心と、自分の居場所を守りたいという思いから生徒に強く叱責してしまい、混乱しているシスターリーズの訴えに、同意することはできなくとも耳を傾け、リーズの苦しみに向き合う姿勢を見せるシスターオーギュスティーヌ。

後先を考えない行動によって、シスターたちとの関係を悪化させてしまい、苛立ちと不安、相互に理解し合えていない悲しみに苦しむアリスのもとを訪れ、どうすることもできなくとも、「感謝してる」ということを伝えるゴーティエ。

自暴自棄に、恋に走ろうとするアリスに、自分の全てをさらけだしてでも寄り添おうとし、話し合える関係になろうとするシスターオーギュスティーヌ。

人と人の間に生まれる美しさは、これらの思いやり、理解しようとする姿勢、寄り添う姿勢によって生まれると思いました。

 

しかし、同時に、相互理解不足、無理解、多様性への不寛容、価値観の押し付け、といった人間関係上の重要課題を、この映画の中で感じました。

人前でうまく話すことができない人に、無理矢理にでも話させようとすること。

規律、ルール、つくられた常識、自分の価値観(クラシックはよい、ジャズ・ロックはダメなど)に縛られすぎて、「音楽を楽しむ」ことを奪い去ろうとすること。

相手の想いを受けとめることもせず、自分の考えと異なるから、というだけの理由で「お前の言っていることは間違っている。やめろ。」と平気で否定できるということ。

制服や規律などの形骸的なルールに囚われ、個々人の違い・思い・考えをお互いに受け入れ尊重する、価値観の押し付けを行わないという、最も大切で育むべきものを蔑ろにすること。

そして、相互理解の不足によって生ずる悲しさ、つらさ。

この物語の登場人物はたびたび、相互の無理解を克服できず、強い敵意・悪意を生み出してしまい、また、受けてしまい、悲しさ・つらさを感じます。また、人の死にも悲しさ・つらさを感じることになります。

それを見る中で私は思いました。

「悲しいのは、人が死ぬ時だけで十分じゃないか」と。

死は避けれぬことです。どのような人であってもいつ命を神に召し取られるかはわかりません。私は死ぬことを、痛み以外は怖いとは思いませんが、周囲の人たちを悲しませることは知っています。もし、私が死んでも誰も悲しまないよ、という方がおられたら、お近くの教会かこのブログのお問い合わせでもよいので連絡を取って、お話を聞かせてください。あなたが亡くなった時、悲しめなかったことに、私たちは悲しみます。何ができるわけでもない無力な私ですが、話をお聞きすることはできるかもしれません。また、祈ることはできます。何かさせてください。未熟に過ぎて大きなことは何も言えませんが、悲しみに寄り添うことをしたいと思うのです。

お問い合わせ (ご相談)

 

人が生きる中で、死は避けられません。

でも、相互の理解不足は回避することができると思うのです。誰も悲しさを、つらさを、押し付けず、押しつけられないなら、それが一番ではないでしょうか。 そのために、多様性への柔軟性、あらゆる意見をまず受け止めること、 価値観の押しつけを絶対に行わないこと、心に余裕を持つことを覚えておくことから始めたいと思います。

ふとした時に上記と異なった言動をとってしまうことがありますが、どうせ生きていくなら、そういったことを減らし、自分の心も含め、人の心に寄り添うことができるようになっていきたいのです。

 

この映画の中では、悲しさや嬉しさの中で、音楽がそこに寄り添うシーンがいくつか出てきます。

私は音楽が何よりも好きです。というのは、音楽がなければ今まで生きてこれていないからです。何がなくとも悲しさ、孤独感、無力感、つらさ、切なさ、虚無感に襲われるとき、わたしはいつも音楽に頼っていました。Queenにはじまり、邦楽やクラシック、讃美歌。聴きながら、時には歌いながら泣くことで、私のなかにある希死念慮を吐き出してきました。音楽に対して真っ直ぐ向き合うとき、音楽は私の心に寄り添い力づけてくれました。(もちろん、そうでない性質の方もいて当たり前ですが、私はそういった性質なのです。)

音楽は「何かを指し示す」意味を持たぬ言語だと思います。

純粋に概念を超えてコミュニケーションを取ることができる。

それは、言葉の多義性に恐れを抱く私のような人間にとって一つの救いです。

作中で、アリスが悲しみをピアノにぶつけるシーンがありました。私はそれを見て、「ああ、私と同じだ」と感じました。感情を吐き出させてくれる、感情を吐き出す力を与えてくれる、そういった力が音楽にはあるのではないかと感じます。

この映画は、そういった「音楽の性質」を感じさせてくれるものであると、私は感じました。人の心に寄り添うことができるのは、目の前の人間だけではなく、これまで生きてきた人の想いもまた、人の心に寄り添うことができるのだと思います。何かを遺したいと思うのなら、人の心を力づけることのできる"想い"を遺していくのはいかがでしょうか。むずかしいことではありません。道を譲ってもらったら感謝を伝えること、買い物をしたとき店員さんに感謝を伝えること、敵意がないことを示すために微笑むこと。

そういった小さな優しさは、広がっていくと思うのです。小さな優しさを受け取った方は、また別の方に小さな優しさを渡していくかもしれません。そうするうちに、あなたが死んでも、その連鎖は続いていくかもしれません。いばや通信の坂爪さん的に言えば、「贈与の霊」でしょうか。

ibaya.hatenablog.com

私は、命を取っていただけるその時まで、小さな優しさを続けていき、1mmでも2mmでも和することに貢献できたなら、それ以上に求めることはないと感じています。それ以外に求めたいとするなら、音楽技能の上達でしょうか...。笑

 

多様性や相互理解について考えさせられ、また、美しい音楽を堪能することもできる「天使にショパンの歌声を」、よろしければ見てみてはいかがでしょうか。

"求めなさい。そうすれば与えられます"マタイによる福音書7章7節

"求めなさい。そうすれば与えられます"
新約聖書マタイによる福音書7章7節

マタイ7:7
求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
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こんにちは。
今日はマタイによる福音書から7章7節を引用いたしました。

この箇所はある意味、非常に理解しやすい、み言葉かもしれません。聖書の中には、喩え話が多く出てきます。そのなかには、とても理解の難しい部分があったり、そもそもある程度時代背景を知っていなければわからない部分もでてきます。

しかし今回の聖書箇所は、驚くほどそのままです。
「求めた人には与えられるでしょう。探した人は見つけるでしょう。扉を叩いた人には開かれるでしょう。」
そのままの意味です。

しかし、多くの人が「いやいや、そんな都合よくいったら苦労しないよ」と思うと思います。
ですが、今の時代にこそ、この言葉はとても大事な考え方足りうると、私は思います。

というのは何故かと言いますと、この聖書箇所は「行動することの大切さを説いている」と考えるからです。
もちろん、「私を理解してくれる人が欲しいです」といったら今すぐ与えられるわけではありません。「心開けるコミュニティを捜しています」といえばすぐ与えられるわけではありません。「何かの集いに新しく参加しよう」としても排除されてしまうこともあるでしょう。
しかし「行動」が大切なのです。
自分の心、想いに沿った生き方をしようと思った時に、何をやめて何をすればよいか考え、行動することが大切です。

今の生き方イヤだけど、
仕事やめるとお金がないから...
他にできることないから...
まわりから冷たい目でみられるから...
親にいい顔されないから...
結婚できなくなってしまうから...

動けなくなっているいろんな理由はあると思います。
ですが、「"あなた"は幸せですか?」
もし、今の生き方をしていて、あなたが幸せなら良いのです。ですが、他者の事、他者の目を考えるあまり動けないのなら、「行動」するべきだと思います。
わたしも以前、周りの目やお金を気にして、自分にとっては苦しみでしかない仕事を辞められずにいました。ですが、自分と似ている方のブログを読み漁り、信頼できる友人や大人、似ていると感じたブロガーさんとやり取りし、教会に顔を出す中で、自分の思っていた「まわりの目」という概念が、如何になんの意味もないものか、だんだんとわかってきました。
そのように「行動」することは、自分の中でどんどんと膨らみ捻じ曲がっていく、「常識」や「まわりの目」といった無意味な概念を解きほぐしてくれると思います。もちろん、合わない考えの方と出会うこともあるかもしれません。しかし、今はネット、ブログやsnsのおかげで、自分と考え方、生き方の近い人々を探し、繋がっていくことができます。
今の生き方に苦しんでいる方は、是非なぜ苦しいのか原因を考えながら、あなたと似ている方のブログを探されることをお勧めします。
(参考:私が苦しいとき救いとなったブログ
いばや通信さん
http://ibaya.hatenablog.com
A1理論はミニマリストさん
http://okite.hatenadiary.jp
エリログ(なまけりー)さん
https://namakerie.me

私は、悩みすぎてもはや何にも判断を下せなくなってきていると感じはじめていたとき、上記エリログの中の人、なまけりーさんの
https://namakerie.me/utsu-gattatsusyougai/utsu-warning-top3/
この記事を読んでご本人に連絡し、本当に親身に相談に乗っていただきました。本当に感謝していますし、今でもたまに連絡させていただいています。今年中に一度でもお会いして、直接感謝を伝えられたらな、と思っています。

ちなみに上に挙げた動けない理由について、わたしは以下のように考えています。
仕事を辞めるとお金がないから...、
(お金がなくとも今の日本では餓死することは難しいでしょう。また、バイトもあれば炊き出しもあるでしょう。また、そういうときのために教会などはあると思います。)
他にできることないから...、
(他にできることがない、と思っていても世の中には色んな働き方があります。自分に合うものを正規非正規問わず探してみては如何でしょう。正規非正規なんて括り、自分が幸せに生きることより価値があることとは思えません。)
周りに冷たい目で見られるから...、
(まわり、というのはこれまで繋がってきた人々から構成されています。全く新しい考え方や繋がりをネットで探してみましょう。それができる時代です。)
親に良い顔されないから...、
(親は、あなたではありません。親の幸せな生き方とあなたの幸せな生き方は違います。本当にあなたのことを想うなら、あなたが、"今"幸せに生きることを望むのではないでしょうか。世間体なんて「自分が幸せに生きるため」には不要です。)
結婚できなくなってしまうから...。
(結婚した人はみんな幸せでしょうか?結婚どうこうより、あなたのことを理解してくれ、一緒にいて心地よい人と一緒にいることが幸せではないですか?それが結果として結婚になるならそれはそれで良いと思いますが、結婚や子を持つことは、人生における目的ではないし、目的にしてはいけないと思います。)

これらから、この聖書箇所を現代風&私の経験から解釈するならば、
「(自分を理解してくれる人を)求めなさい。そうすれば(すぐにではないかもしれないけど)与えられます。
(インターネットのブログやsnsで、自分と近い人を)捜しなさい。そうすれば(あなたの居心地の良い場所が)見つかります。
(出会えた人々へ繋がる扉を)たたきなさい。そうすれば(あなたの幸せを見出す道が)開かれます。」
ということだと思います。

結局、人生の目的は「幸せになること」です。
いついかなる時もその事だけは、あなたに、覚えていて欲しいのです。


祈り
主よ、本日はマタイによる福音書7章7節を読みました。私において、友人、家族、恩師の先生方、インターネットでの人との繋がりといった、多くの恵みを、あなたから頂いたように、今、苦しみ悩みの中にある人々の上にも、あなたの恵みと慈しみをお与えください。また、わたしがそういった方々に寄り添い、どれだけ微少であっても、力になれる存在となることができますように。私の心を強め、あなたの平和のためにお使いください。今日より明日、明日より明後日、一人でも多くの人が心から笑えますように。私に与えてくださった恵みを、以前の私のように苦しむ方、またそれぞれの悩み苦しみ悲しみを抱える方の、一人でも多くの方に同様にお与えください。
闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。また、そうすることのできる者に、どうぞあなたのお力によって、成ることができますように。
この祈りをわたしたちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりになりますように)。