死にたい気持ち、生きる意味について考察

希死念慮持ち。内容は個人的思想です。気持ちに余裕がある時に更新します。

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」マタイによる福音書25章35節‐36節、40節

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

マタイによる福音書25章35節‐36節、40節

 

25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

25:40 そこで、王(イエス)は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟(姉妹)であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

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こんにちは。

マタイによる福音書25章35節‐36節、40節を引用しました。38、39節を飛ばしているので、気になる方は以下のURLからご覧になれます。

マタイによる福音書 25, Colloquial Japanese (1955) (JA1955) | 章 25 | 聖書アプリ | Bible.com

 

「最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

平和(すべての人が心から笑える状態)に向けて、一番大切な教えは、これではないかと感じています。

 

現代において「自分さえよければそれでいい」という考えを感じることがあります。私が以前いた会社では、「製品が売れればそれでいい、後から向こうが後悔しようが、雇われる人が減ろうが、うちにお金が入ってこなきゃ暮らせないんだからそれでよい」という意見が「普通」でした。そういう場所は案外多いのかもしれませんが。

また、本来は「自分も他人も幸せが一番である」とわかっていながらも、それが歪んで「自分が不幸なんだからお前も不幸になれ」となってしまう状況も散見します。公務員バッシング、生活保護バッシングもそういった背景があるのではないでしょうか。

 

しかし、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」。つまり、「最も弱められている人に寄り添い、行動すること」が最も価値のあることだと教えているのです。

 

わたしは、これは、「天の宝(人との暖かい繋がり、心の交流、平和)」の概念においても大切なことだと感じます。

もし、あなたが、顔も挙げられないほど、眠ることも食べることもできないほど、死にたいとおもうほどつらい時、心通わせてくれる方が居たら、これ以上ないほどの恵みだと感じるのではないでしょうか。

そんな風に、深く心を通わせる機会は、生きる中で、多くはないと思います。もし、あなたが助けられる側であれば、深い慈悲の心を持ったとても大切な友を得るでしょう。そして、大きな喜びを感じるでしょう。わたしはその心の交流を指して「天の宝」だと思っています。

またあなたが助ける側であれば、相手はあなたに、これ以上ないほどの「心からの感謝」を与えてくれるでしょう。わたしは「心からの感謝」ほど美しい天の宝はないと思います。あなたが「小さき(弱められている)者」を助ける時、あなたは「天の宝」を頂いており、またその人と人との関係性の中に、神(平和)への想いが現前するのだと思っています。

神、という語に抵抗感があるのでしたら、人の心の暖かさと言い換えてもいいと思いますが、私は、生きる上で、「心の暖かさ」の恵みを受けることより価値あることはないと感じています。そして、それは、人間が全て操作できる事象ではないと思います。

人の感知できる部分以外の空白にこそ、神とされるもの、人の力と考えが及ばぬものが在り、また、その部分に思い至る時、全ては無いことと等しいのだと思います。

 

「天の宝(心の暖かさ、心の交流)」の為に、身体的、精神的に飢えている人、渇いている人、居場所を求めている人、暖かさを求めている人、病気の人、抑圧されている人に寄り添うことができ、また私自身も小さき者として、寄り添って下さる方に恵まれますように。

 

「25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

・・・

『はっきり言っておく。わたしの兄弟姉妹であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

"生きることの罪とは"(生きることの意味とは) ローマの信徒への手紙1章28節から31節

"生きることの罪とは"(生きることの意味とは)

ローマの信徒への手紙1章28節から31節

1:28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

1:29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

1:30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

1:32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

 

2:4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

2:10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

2:11神にはえこひいきなどはないからです。

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こんにちは。

今回は、キリスト教における"罪"の考えについて少しお話したいと思います。

 

罪、と聞くと、あなたは何を思い浮かべるでしょうか?

盗みや殺人など、刑法の罪を思い浮かべるのではないでしょうか。

わたしもそうでした。ですから、キリスト教でよく使われる"罪人"とはいったい何のことなのか、と思っていました。

 

今回の聖書箇所、ローマの信徒への手紙1章28節から31節は、"キリスト教における罪"の概念に、ひとつの答えを示唆してくれるのではないかと思います。

 

ここでは、下記のような人が、"罪人"とされています。

1、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、

2、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、

3、陰口を言う者、(本人の目の前で言えないことを陰で言う人)

4、そしる者、(他者の思いや行いを批判ではなく非難する人)

5、神を憎む者、(平和を望まぬ人)

6、人を人と思わぬ者、(人を自分の道具や所有物などとして扱う人)

7、高ぶる者、(自分が最も優れていると勘違いする人)

8、大言壮語する者、(言葉の持つ力を考えず、柔和と謙遜を持たず発言する人)

9、悪事をたくらむ者、

10、親に逆らう者、(自分にとって大切な人を悲しませてしまう人(親は喩えだと思います))

11、わきまえのない者、(傲慢になり、客観的に他者の気持ちを鑑みることができない人)

12、約束を破る者、

13、情け知らずの者、(他者の心に寄り添えない人、自分の利益の為に他者を傷つける人)

14、慈愛のない者(自分を大切にし、またそのように他者に接することのできない人)

 

これらを見て、わたしは「ああ、全ての人が罪人といわれていることも理解できた。」と感じました。

上記のような人々が”罪"に定められているのです。短く言うなら、平和(全員が和すること)に逆らう、思い、言葉、行動を行った者が罪人なのです。

その考えでいくと、私に罪はない、と言える人はいないのではないでしょうか。

陰口を言ってしまうこと、傲慢になってしまうこと、他者の心を傷つけてしまうこと、どれも生きていく中で、意識するとしないとに関わらず、避けられないことだと思います。

また、最も罪深い人は、それを行なう人に同意することだと私は思います。

「1:32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」

 

社会構造によって経済的に困窮している人、心無い言動や社会的慣習によって精神的な苦しみを抱いている人、長時間労働などによって身体的に傷つけられている人が存在していることは、ほぼあらゆる人に周知されている事実だと思います。

しかし、それに気付いていながら、「しょうがないことだよね」「根性ないな」「逃げればいいのに」「自分もされたからお前も苦しめ」などと、見て見ぬふりをすることは、心から、ではなくとも、「それを行なう者に同意している」ことになると思います。

現代は、あらゆる人が発信者となれる時代です。最も簡単に声を上げる方法は、SNSなどで"人を人と思わぬ行動や、心から笑える人が減ること"に反対の声を挙げることではないでしょうか。

平和(すべての人が心から笑える状態)を求める行動を行う人は、罪人から最も遠い人となることができると思います。

 

また、"罪人"についてお話してきましたが、自分が罪人だからもうどうすることもできない、ということではないと思います。世の人が皆、罪を背負っているのであれば、あなただけがどうこうという話ではありません。

誰だって、心から笑える環境の中で、お互いに尊厳を持って理解し合い、仲良く暮らしたいのではないでしょうか。

ローマの信徒への手紙2章10節、11節にあるように、平和が善を行なうすべての者の上にあるのなら、平和(すべての人が心から笑える状態)を求める行動を行っていくと良いのではないでしょうか。

 

「2:10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

2:11神にはえこひいきなどはないからです。」

 

また現代においても、長時間労働、個々人の考え方の否定(多様性の排除)、移民問題での対応などを見るにつけ、人を人と思わぬ者が多くいる時代だと感じます。

その中にあって、自分と、自分の周りにいる大切な人々、またその人々に繋がる人々ひとりひとりに、「あなたの存在には価値がある」「あなたが、わたしにしてくれたことの故にではなく、暖かく心を交わした故に、あなたの存在に心から感謝している。」と伝え、また「あなたがわたしを生かし、またわたしがあなたを生かしている」と思うことのできる関係を増やしていくことこそ、生きる意味ではないのか、と思っています。

 

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4」

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。ヨハネ13:34」

 

www.christiantoday.co.jp

 

祈り

主よ、悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。わたしには何の力もありませんから、あなたの御力によって、人を悲しませることは出来るだけ最小限に、人の心に寄り添うことができますよう、切にお祈りいたします。また、私の大切な人たち、その人に連なる人たち、ひいてはすべての人々のそばに、あなたが居て、少しでも安らぎを与えてくださいますように。この祈りを主イエスの御名を通して御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりになりますように)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きな聖句 ご紹介

こんにちは。
今回は、普段成句カードとして持ち歩いている、好きな聖句をご紹介したいと思います。
あなたが、生きること、死ぬこと、遺すもの、価値のあるもの、見えるものと見えないもの、話すことと聞くこと、人との関係性などについて考える時に、助けとなることを願って。

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わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4


何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。マタイ7:12


わたしはわたしを強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです。ピリピ4:13


互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。ヨハネ13:34


平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。マタイ5:9


愛は結びの帯として完全なものです。コロサイ3:14


人がその友のために命を捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていません。ヨハネ15:13


自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。マタイ5:44


恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。イザヤ41:10

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祈り
わたしが、これらのみ言葉を大切にできる心を、地に生き続ける間、持ち続けられますように。あなたから与えられ続けますように。そして、広げていくことができますように。

「目指すべき人物像」 ルカによる福音書6章35節から38節

「目指す人物像」

ルカによる福音書6章35節から38節

 

6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

6:38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。

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こんにちは。

今日は、キリスト教が「目指すべき人物像」として掲げているものの一つをご紹介します。今回も、私なりの解釈をお話していこうと思います。

 

「6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。」

 

この部分における、「報い」は、死後の平安のことを指す、と言われているのではないかと思います。しかし私は、その事と同時に、「天の宝(人との暖かい繋がり、心が満たされること)」もまた、「報い」ではないか、と考えています。

また、この時代には、「異教徒は敵」というような発想もありました。ですので、「敵を愛せ」は、自分とは人種、文化、信仰、考え方、性別、生き方、の異なる人々に対しても、敬意を持って接せよ、ということではないかと思います。

つまり、自分と意見の合わない人にも、敬意を持って接することで「天の宝」を報いとして得る、という捉え方もできる部分だと思います。

 

「6:36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。」

 

キリスト教では、聖書の中で「慈悲深い者」となることを奨励しています。

 

最近の出来事で言うと、トランプ次期大統領もキリスト教徒かと思いますが、以下に挙げるミシェル・オバマさん(オバマ大統領夫人)のような演説を、道は異なっても、トランプさんもしてくれることを祈りたいです。何故なら、彼女の演説は「"慈悲深く"、"寛容さ(ゆるし)"を人々に求め、アメリカに住むすべての人々に価値、居場所を"与える"」ような演説であったからです。

ハフィントンポストから、引用します。全米各地の高校で活動するスクールカウンセラーを表彰するスクールカウンセラーズ・オブ・ザ・イヤー」での演説です。

 

・ミシェル・オバマさん ホワイトハウス最後の演説から引用

「ここにいるみんな(スクールカウンセラーの方々)は、そうした子供たちに、自分たちは重要な存在なんだということを教えます。自分たちにも与えられるものがあると伝えます。生まれた場所、親の資力、外見、好きなもの、宗教、家で使う言語に関係なく、彼らはこの国に居場所があるのです。

ホワイトハウスでの生活を終えるにあたって、ファーストレディとして最後の公式の発言ですから、若者たちへ送るメッセージが一番ふさわしいと思っています。ですから、この部屋にいる、またはテレビを見ている若者のみなさん、この国はあなた方のものだということを知ってください。背景や人生の歩みに関係なく、あなた方みなさんのものです。あなたやご両親が移民なら、あなたは誇り高きアメリカの伝統の一部です。新しい文化、才能や発想が代々溶け合って、私たちは地上で最も偉大な国になったのです。

あなたの家族が貧しいとしましょう。覚えていてほしいのですが、この国の多くの人々は、私や夫も含め、何もないところから出発しました。 しかし一生懸命に努力し良い教育を受ければ、すべては可能になります。大統領にだってなれるのです。これこそがアメリカンドリームのすべてではないでしょうか。

あなたは信仰心の厚い人ですか。宗教の多様性もアメリカの素晴らしい伝統です。実際、最初に人々がこの国に来たのは自由に崇拝をするためでした。そして、イスラム教徒、クリスチャン、ユダヤ教徒ヒンズー教徒、シク教徒……あなたの信仰が何であっても、こうした宗教は私たちの若者に正義、思いやり、誠実であることを教えています。若者たちには誇りをもってそうした価値観を学び、実践してほしいと思います。分かりますか、私たちの素晴らしい多様性、つまり宗教、肌の色、信条といった多様性は、私たちを脅かすものではなく、今の私たちを形作るものなのです。そしてここにいる若者たち、そしてその他の若者たちに、「あなたに価値がない」とか「アメリカには居場所がない」と感じさせることがないようにしてください。そんなことは絶対ありません。みなさんには、そのままの自分でいる権利があります。

しかし、はっきりさせておきたいことがあります。この権利はあなたにただ手渡されるものではありません。むしろ、あなたはこの権利を日々獲得していかなければなりません。自由はあって当たり前ではありません。 あなた方の前の世代と同じように、こうした自由を維持し、守るために自分の責任を果たさねばなりません。そしてそれは若い時に、今この時に始まります。

私たちの国際的な対話に加わるために、今、自分自身で準備する必要があります。情報に通じ、国民として奉仕し、先導し、私たちの誇るアメリカの価値観を擁護し、日々の生活の中でそれを尊重する心構えが必要です。そしてそのためには、考え得る限り最高の教育を受け、自分をはっきりと表現できるようにしないといけません。そうすれば良い仕事に就き、自分と家族を養い、地域社会の中で前向きな力となれるでしょう。

そして困難に直面するとき……保証しますが、必ずあります。多くの人はすでに経験済みでしょう。そんな時ももがき苦しみ、あきらめようかと考え始めたら、約10年前、私と夫がこの道を歩き始めた頃に話し合っていたことを覚えていて欲しいのです。ホワイトハウスで、そして生活の中での一瞬一瞬に支えとなっていたもの、それは希望の力です。努力し、闘い続ければ状況は良くなるという可能性を信じることです。

希望の力は、私たちの根幹となる信念です。私たち自身の生活、またこの国の生活の中で直面する疑念や不和、怒りや恐怖の声を克服することができました。 十分に努力し、自分を信じるなら、どんなことであっても自分が夢見るものになれる、という希望があります。他人が私たちに設けた限界には左右されません。そして私たちの本来の姿を確かめようとするとき、もしかすると、なりうる限りの最高の自分に上り詰めようと突き動かされる、という希望があります。

それこそが、カイラのような学生たちの希望です。彼らは自分の才能を発見し、世界にシェアしようと奮闘しています。それが、テリーやこの壇上にいる人たちスクールカウンセラーの希望です。彼らはそのような生徒たちを一歩一歩その道へと導き、若者を誰一人として見限ることなどありません。それは私の世代の、私の父親世代の人々の希望です。父は毎日起きて市の浄水処理場に仕事に行きました。いつか、自分の子供たちが大学へ行き、彼自身が決して得られなかった機会を得られるという希望があったのです。

それは私たちの誰もが……政治家たちも、親も、説教師たちも、私たちすべてが若者たちに与えなければならない希望なのです。希望こそが、この国を日々進歩させるからです。未来への希望と、希望が生み出す懸命な努力によって進歩するのです。

これがファーストレディとして、若者たちへの最後のメッセージです。シンプルでしょう。若者たちには、自分たちが大切な存在で、居場所があることを知ってほしいのです。ですから、怖がらないでください。聞こえますか、若者のみなさん? 恐れないでください。打ち込みましょう。強い意志を持ちましょう。希望にあふれてください。力をつけましょう。良い教育によって力をつけ、外に出て、その教育を、あなたの果てしない希望にふさわしい国を築くのに使いましょう。希望に導かれ、決して恐れないでください。私はみなさんと共にいて応援しています。私は残りの人生、みなさんをサポートするために働くことを、知っておいてください。」

www.huffingtonpost.jp

 

 

「若者たちには、自分たちが大切な存在で、居場所があることを知ってほしいのです。ですから、怖がらないでください。聞こえますか、若者のみなさん? 恐れないでください。」

慈悲深い演説だと思います。私は、この演説を聞いて、ミシェル・オバマさんは尊敬すべき女性の一人だと感じました。

そして、今日の聖句にある「慈悲」「ゆるし(寛容)」「与えること」を実践されている方だと感じました。

 

というのも、ミシェル・オバマさんは演説の中でこうおっしゃっています。

宗教は私たちの若者に正義、思いやり、誠実であることを教えています。若者たちには誇りをもってそうした価値観を学び、実践してほしいと思います。分かりますか、私たちの素晴らしい多様性、つまり宗教、肌の色、信条といった多様性は、私たちを脅かすものではなく、今の私たちを形作るものなのです。」

「そしてここにいる若者たち、そしてその他の若者たちに、「あなたに価値がない」とか「アメリカには居場所がない」と感じさせることがないようにしてください。そんなことは絶対ありません。みなさんには、そのままの自分でいる権利があります。」

 

ミシェルさんは、「宗教、肌の色、信条(価値観)の違いによって、人をさばき罪に定める(迫害する)のはやめ、あらゆる違いに「寛容であり」、「価値」「居場所」を与えるべきだ。そのように行動してほしい」と訴えているのだと思います。

 

「6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」

 

ここで挙げられている「人が人を裁き、罪に定め、侮辱し蔑ろにすることをやめて、他者に寛容であれ」という精神を、ミシェルさんはお持ちなのではないでしょうか。

私は、この、ルカ6章37節の「ゆるしてやれ」というみ言葉は、「寛容であれ」という意味でもあると、解釈しています。

 

「6:38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。」

 

「情けは人の為ならず」ということだと思います。聖書では、違う箇所でも似た表現が出てきます。(「それで何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」(マタイの福音書 7章12節))

ミシェルさんは、演説で、「寛容であること(思いやり)」「希望を持つこと」「感謝」などを、「与えて」います。

おそらく、アメリカの若者たち(ミレニアル世代(アメリカ版さとり世代))は、この言葉に、「与え」返すのではないでしょうか。そこに、現代の社会的な情勢不安の中にも一筋の希望を垣間見ることができるのではないでしょうか。

アメリカだけでなく、日本でも、「慈悲」「ゆるし(多様性への寛容)」「与えること(感謝を伝えることや、寄付など)」を大切に想う人が、一人でも多く増え、そのことによって、「心から笑える人が一人でも増えること」を祈ってやみません。

 

www.huffingtonpost.jp

www.glocallife.net

 

 

祈り

主よ、今日もあなたが、友人との良い時間を与えてくださったこと、感謝します。心の交流が私を支えている事を、日々感じています。その中で、先日、身近な人とうまくコミュニケーションが取れず、行き違いが起こってしまうことがありました。誤解を解くには至ったのですが、お互いの心に小さな傷を生んでしまいました。どうか、今後私が、悲しみを人の心に置くことがありませんように。悲しみのあるところに喜びを置くことができますように。あなたの御力によって、そう在れますように。今日は何故か、上手く気持ちを文字に起こすことができません。これ以上書く事が難しいです。ですが、私が、私の想いを人に伝えることができ、そのことが誰かの喜びとなりますように。悲しみを与えることは、最小限でありますように。主イエス・キリストの御名によって、この祈り、御前にお捧げ致します。アーメン(そのとおりでありますように)

 

希死念慮持ち、死にたいと思う人、自分の生に執着を持てない人とは

こんにちは。
今日は少し、重い(とされる)テーマについて、当事者である自分のためにも、お話ししたいと思います。この事について話し合う機会は、かつては身近な人とあったのですが、その方もいなくなってしまったため、非常に私見が多いと思いますがご容赦ください。

皆さんは「希死念慮」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。一言で簡単に言ってしまうなら、死にたがりです。もっと詳しく言うなら、死にたい、という思いを基本的にずっと持ち続けている人です。その思いにも波はあるのですが、「死んでも別にいいなー」くらいの時もあれば、「今すぐ死にたい」という時もあります。
しかし、一貫しているのは、今すぐ死んで後悔しますか?と聞かれて、「いや、別に後悔はしないけど、痛いのと、まわりの人が悲しむのは嫌だなぁ」とか、そういう感想が出てくるということだと思います。
つまり、自分の生に基本的に執着がないです。それは、「自分が何をしたところで結局世の中に価値があることなんて何もない」と感じていること。「何をしても、ある人の喜びとなる部分があり、またある人の悲しみとなる部分があるよなと感じ、喋ること動くことに罪悪感をしょっちゅう感じている」ことから生ずるものだと思っています。

希死念慮持ちじゃない人に一つだけお伝えしたいのは、「私たちの意見を受け止めてください」ということです。
社会の中で、「死について語ること」、「死にたいと言うこと(思うことでさえ)」をタブー視する現状は、私たちにとって言葉の手足をもがれたのと同じようなものだと感じています。何を喋る時にも、「社会の常識」とされる、一部の価値観に合わせて話すことに気を配り続けなければいけない。それは「希死念慮持ちでない方が、絶対に失言できない状況にいる時」と似ています。
私たちも、四六時中死にたいと言いたいわけではありません。ですが、ほぼ常にそういう思いを持っている人の存在を認め、「死」について話し合うことをタブーから除いてほしいのです。話し合わないまでも、頭から否定しないでほしいのです。


希死念慮に対して、私は学生時代、吐き出すことで多少の心の安定を保てていました。学生時代は、自分の生き方について問われることは多くはなかったですし、やってみたいことをある程度やれていたからです。
しかし、大学を卒業して、学生時代より遥かに、自分の生き方、行く末、やりたいこと、生きることについて考えさせられることが増えました。
その中で私は、
「身近にいる、私が心から尊敬し好いている人々を悲しませたくないなー」という思いと、
「結局全てのことに意味なんてないのに、無意味に傲慢になる人に虐げられて悲しむ、自分と似た部分を持っている人に寄り添えたらいいな」という思い、
「自然の美しさ(人の暖かさ、音楽の楽しさも含め)に触れられるなら、まあ、生きててもいいか」という思いを持てているから生き続けています。

自分の性質として挙げられるのは、希死念慮と、無闇に強い共感力だと思います。最近は特にそう思うようになりました。
映画の中の物語や震災で苦しむ人々、差別で苦しむ人々のことなどを見聞きすると、心が痛むほど悲しいですし、湧き上がる怒りを感じます。(怒りはさらなる別の怒りを呼ぶことは明白ですし、怒りを感じている状態が好きでないので、すぐに抑えつけますが。)

こんなこと、今の日本社会で言うと、「偽善」とか、「綺麗事」とか、「それの何が役に立つの?」とか、「ご立派だね笑」と思われる、言われることがあります。別に良く思われたいわけじゃないですし、良く思われたいならこんなこと言いません。
そして、言わずに自分の心を抑えつけた結果、希死念慮さんが大活躍する事態まで一時いきました。
実際、今でも現実では、(できたとしても)親友や教会の家族くらいにしか、こういった話はできません。

それでも、現実の知り合いも読んでいるここに、この事を書いたのは、多分、こういう思いを持っているのは私だけじゃないと思う(思いたい)からです。

今、「多様性への寛容」、「自分と異なる他者への想像力」(例えば性的マイノリティ、育った文化・環境の違う人、障害を持つ人、心の病を持つ人などへの想像力)が、あらゆる場面で重要だと考えられ始めています。その中にあって、希死念慮持ちの人も、当然ですがそこに含めてほしいのです。

希死念慮持ちの人は、おそらく
「自分の周りの好きな人々が悲しむのは嫌だな」
「こんなことはやってみたいかな」
「こういうもの(例えば自然の美しさ)に触れられるなら、まあ生きててもいいかな」
「でもまあそういうのなくなったら別に死んでもいーかな」
くらいの感覚で生きています。死に対する感じ方がおそらく社会多数派とはだいぶ違うんだと思います(確かなことはわかりませんが...)。
身近な人が亡くなったとき、確かに、間違いなく悲しいですが、「楽になったんだね」という祝福に近い気持ちも感じます。同時に少し羨ましい気持ちも。
そういった点において、「死」をただ悲しむだけのお葬式より、生きていることを罪と捉え、死ぬことは永遠の安らぎを得ること(だから祝福すべきこと)と捉えるキリスト教に合う部分もあるのかもしれません。この事(「死」)に関して確かに分かることは何もありませんが、私はそう考えています。

そうでない方に理解してほしいとは言いません。しかし、そういった考え方、そういった存在は認めてください。今のように、頭から、聞く耳も持たず否定されるのでは辛すぎます。(もちろん、全ての人がそうではありませんが、多数派の空気としては、そう感じます。)
この記事に共感する人がどれくらいいるのか、そもそもいるのか、分かりませんが、私と私の大切な人と共に、この事をどうか覚えていてくださるよう、心から、お願いいたします。

私が聖書を読む時に気を付けていること (新約聖書マタイによる福音書22章36節から40節)

「最も大切な掟」

マタイによる福音書22章36節から40節

 

22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 

新約聖書マタイ11章28節

11:28 疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。

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こんにちは。

今回は、私が聖書を読む時に、気を付けていることをご紹介したいと思います。

それは、上記聖書箇所の。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」です。

私はこの箇所を以下のように理解しています。

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』。

イエス様は、社会の中で最も弱き人(バカにされていた人、貧しい人、侮辱されていた人)を最も大切にされ、「最も弱き人に行ったことは、私にしたことと同じである」と言われています。また「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」(新約聖書マタイ11章28節)とも仰っています。つまり、イエス様は私たちひとりひとりが、その時その時、どのようであろうと大切に想う、愛すると仰っているのだと思います。そう教えられた時、私は「神が私を無条件で大切に想われたように、私も私自身を大切に想いたい。またそうすることで神の想いにお応えしたい」と思いました。

つまり、「自分自身を大切に想うこと」の大切さを感じました。

 

また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』は、このブログでも何度も書いていますが「あなたの身近な人から始まり、日本中、世界中の人が、心から笑えるように、あなたは隣人(まず身近な人から)を大切に、思いやりをもって接しなさい」ということだと思っています。

 

聖書を読む時に、差別の表現が出てくることもしばしばあります。しかし私はその時、聖書に書かれていればそれが全て正しいとは思いません。なぜなら、聖書は「人が」書いたものであるということ。また、「身近な人を大切に、思いやりをもって接しなさい」という教えが、「最も大切な掟」とされているからです。

女性差別、性的少数派差別などは、聖書の書かれた当時であれば、あまりにも当たり前のことだったのかもしれません。しかし今は違います。差別です。

 

女性は司祭にはなってはいけない(女性司祭にこそ理解し相談に乗れること、男性司祭にこそ理解し相談に乗れることがあると思います)、

女性は正規社員では働かせられない(女性と男性に能力差がないのは最早周知だと思います。また出産が問題だというなら、本当に問題なのは出産を問題にする社会だと思います。)、

ベビーカーは邪魔だからタクシーでも使え(他者に思いやりを持って接する、とは何でしょうか)、

女性は子育てが仕事なんだから大変だとか言うな(子育てが女性の仕事と誰が決めたのでしょうか、またおそらくそう決めた方の子供はどう育つでしょうか。父母が子育てに参加した方が良いのは、お互いの負担軽減の為にも、子供のためにも大切なのは自明ではないでしょうか)、

結婚して子供作って当たり前だ(結婚すること、子供を持つことに価値がありますか?価値があるとすれば、結婚した後、お互いを想い合って幸せに暮らしまわりにも喜びを与えること、また子が、他者に思いやりを持って接することのできるように、子の気持ちに寄り添い、同じ一人の人間として心を開いて話し合いができること、などが価値のあることではないでしょうか。つまり、そのどちらも、結婚してなくとも子供がいなくとも、他者に思いやりを持って接する中でも実現できます。)

 

また、性的少数派を認めるべきでない(認めなければどうなりますか?心から笑えない人がまた一人増えるだけで、何のメリットもないように感じます。無理矢理メリットを考えるとしたら、他者の心を理解しようとしない人が大きな顔をできるということでしょうか)、

子供が作れないじゃないか(子供が増えさえすればなんだって良いのですか?経済的貧困や精神的貧困に陥る子供たちを見ずに、悲しみの再生産を行う気ですか。私たちが言うべきは「生きることで喜びを得ることができる社会をつくっていきましょう。そうすれば出生率は伸びるでしょう」ではないでしょうか。子供が増えることそれ自体を目的にしては、危険だと思います。)

 などなど。

 

私は、上記に通底して「心から笑える人が減る」ということを感じます。

もう一度言いますが、地上において最も大切な掟は「身近な人を始めとして、世界中の人を大切に、思いやりをもって接しなさい」「心から笑える人に溢れる世の中にしなさい」だと思います。

ですので、それに反する行いを私はしたくありません。

 

皆さんの中には、宗教戦争や、キリスト教国であるアメリカやイギリスの行ってきた戦争など、これまでの所業から、キリスト教信者というのは、そういったことをしても良い人々なのか、という疑いを持っている方も、ある程度いらっしゃると思います。

答えは(おそらくお分かりだと思いますが)もちろん「いいえ」です。

私は、争いや戦争は、最も教えから遠いと思ってます。

 
戦争はもちろんですが、「9条改正反対」、「自衛隊派遣反対」と、相互の建設的な話し合いを拒否し、自分の意見だけを訴えることも、ひとつの争いの形だと思うので、教えから遠い行為だと思います。(もちろん、ちゃんと総理や政府と対話の形を取ろうとしているところもあると思いますが、「9条(法律)」「自衛隊派遣」は手段であって目的ではありません。目的は「心から笑える人が増えること」。そのためであれば、9条改正も自衛隊派遣も、人々の協力の形としては、あり得る選択肢ではあると思います。もちろん、平和を蔑ろにすることと、戦争はあり得ないものだと思います。)

 

目的を見失うことなく、行動するために、私は、私なりに解釈した

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

を最も大切な決まりとして、常に覚えておくようにしています。

 

追伸:

この讃美歌461番の動画の、2番の英語歌詞がとても好きです。

www.youtube.com

 

 

「「人は純白に輝く生き物だ」 それはどうかな」 パブリック / Mrs.GREEN APPLE

www.youtube.com

 

「人は純白に輝く生き物だ」

それはどうかな ほら またあちこちで

諍いが止まぬ変わらない世の中だ

「人が作り上げた」 皮肉なもんだ

 

僕達の倫理ってもんは

こんなにも汚れてしまったのかい

誰かが気づいてくれたらいいな

いつか いつか いつの日にか

 

知らぬ間に誰かを傷つけて

人は誰かの為に光となる

この丸い地球に群がって

人は何かの為に闇にもなる

 

「人は優しさを育む生き物だ」

「嬉しさ・悲しさ」全部抱き「寄せてる」

大衆の一部と化しても 価値はそうも振れず

「人が作り上げた」素晴らしいんだと

 

憎いその可愛さと憂うその瞳の

愛が実ればいいなと

神様が定めたこの世界に

何を残して逝ければいいだろう

 

泣かないよ もう泣かない

開かない扉はさ 開かない意味があり

若いこの層 お年を召したこの層

どちらももう 共に寄り添い合う

 

その度になにかを欲しがって

人は自分の為に傷を負わす

醜いなりに心に宿る

優しさを精一杯に愛そうと

醜さも精一杯に愛そうと

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こんにちは。

今回は、私の好きなMrs.GREEN APPLEからパブリックをご紹介します。

このバンドの歌詞に、私は、私の思いと

近いものを感じて最近よく聴きますし、歌ったりします。

歌いながら思いが込み上げてくることもよくあります。

 

「人は誰かの為に光となる
(中略)人は何かの為に闇にもなる」

誰か(人)の為に光となる。

何か(お金、権力、優越感)の為に闇にもなる。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

「愛が実ればいいなと
神様が定めたこの世界に
何を残して逝ければいいだろう」

何を残して(どんな想いを残して)。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

「開かない扉はさ 開かない意味があり
若いこの層 お年を召したこの層
どちらももう 共に寄り添い合う」

開かない扉(自分の心を圧し殺す道へ続く扉)。

hitsuji-wwjd.hatenablog.com

 

 

「醜いなりに心に宿る
優しさを精一杯に愛そうと
醜さも精一杯に愛そうと」

完璧に美しい心を持つ人なんていないと思います。

けれど、優しさを感じる心や、思いやりを喜ぶ心は、誰しも持っているものではないでしょうか。

その優しさを精一杯愛する。

優しさを精一杯愛した上で、醜さも否定せず向き合い、自分の一部として理解し愛することで、他者に寛容になることができ、他者を愛することができるようになるのではないでしょうか。

私は「自分をまず愛すること、自分の心を大切にすること」を行わなければ、「他者を本当の意味で大切にすること(愛すること)」は出来ないと思っています。

というのは、あなたが大切にしたい、と思っているその人はきっと、あなたがあなた自身の心を大切にしないことを、何にも増して望んでいないと思うからです。

相手が本当に願っていることを蔑ろにしているのに、その相手のことを愛している、と言えるでしょうか。

 

もし、大切にしたい人がいる、好きな人がいる、自分を理解し、相互に想い合える人を見つけたい、と思うのでしたら、「まず、自分自身の心を大切に」為さってください。

自分の心の苦しみ、声を注意深く聞いてみてください。

夜、暗くした部屋で目を瞑り、「私が本当にしたいことはなんでしょうか。今~~という苦しみを覚えています。この苦しみは、「私の本当の想い」、「心からやりたいこと」に繋がるでしょうか。私がしてみたいことはなんでしょう。~~や~~は好きです。~~をしているときは心が苦しくはありません。・・・」といったことを考えていれば、自分の心がやりたい、と思っていることに思い至るかもしれません。

このことは、自分自身に対する祈りだと思います。そして、自分自身の心を大切にするために、まず、自分自身の心と向き合い祈ることは、とても大切なことだと思います。

何か心がやりたいと言っていることを見つけたなら、その後は、それをするために必要な情報を探してみるとよいと思います。眺めるだけでもよいです。自分の心が苦しみを覚えない活動を、人生において増やしていけるように、するとよいのではないかと思います。

 

もし、自分の心が、悩み、苦しみ、悲しみを覚えているのなら、一度試してみてはいかがでしょうか。

 

これらが、Mrs.GREEN APPLEのパブリックから、私が感じた私見です。

 

 

祈り

主よ、先ほどお昼を頂きました。今日の糧に、感謝いたします。今この時も、食べるもの寝る場所がない方が多くいらっしゃいます。どうかその方々に一刻も早く、あなたが暖かい恵みと慈しみを与えてくださいますように。また、食べるものや寝る場所が与えられていても、心に重い苦しみや悩み、悲しみやつらさを抱えている人が多くいます。私の身近、大切な人々の中にも、います。その方々ひとりひとりの側に、どうぞあなたが居て、心に安らぎを与えてくださいますように。私もかつてそのような者でしたが、あなたを大切に想う集いに恵まれ、今は落ち着いております。深く感謝しています。どうかその恵みを、私と同じ形でなくとも、あなたの御心によって多くの方に与えてくださいますように。

闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。また、そうすることができる者に、どうぞあなたの御力によって、なることができますように。アーメン(そのとおりになりますように)。